第17話

 陽が傾き、古めかしい和室が、海が、茜に染まる。

 ずっと海が近くに無い暮らしをしていたので、磯の香は異質なものとして鼻に刺さった。

 

 いつものように服のデザイン画を描こうと思い、鎮神は机に向き合っていた。

 しかし珍しく何も浮かばず、一日が終わろうとしている。

 世界が色を欠いている。決して、怠けていたわけではない。しかし全く頭も手も動かないのだ。

 代わりに、何かが頭を占めている。知覚できない鈍色の思考が。


 襖をぽすぽすと叩く音がした。

 続いて廊下から声が聞こえる。

「鎮神様、お食事が出来ました。食堂へおいでください」

 男の声。

 赤松深夜美であった。


 襖を開けると、長い黒髪を束ねて、瞳と同じワインレッドのエプロンをつけた深夜美が立っている。

 先だって階段を下りていく深夜美に続いて歩いていくと、半ばのところで深夜美が立ち止まり、振り向き、鎮神を仰ぎ見た。

 彼の、どこかを痛めているかのように顰めた眉の下で、夕陽を受けた瞳が深紅に輝く。


「鎮神様……憐れみで人付き合いするのは、良くありません。互いの為にならない。たとえそれが肉親であったとしても」


 頭を埋め尽くしていた鈍色の思考を、強引に掻き混ぜられたような心地がした。

 深夜美の言うことは理解できない。

 自分の心にも追いつかない。

 鎮神も眉を顰め、計らずも深夜美と似た表情になって向かい合う。

 何事も無かったように深夜美は表情を和らげると、正面に向き直って階段を下りて行った。



 昼食は学校の喧騒の中で、朝夕は一人でもテレビなりラジオなりで賑やかしながら摂るのが普通だった鎮神にとって、それらの無い宇津僚家の食事は、大所帯ながらも寂しく感じる。

 しかし、行儀よく黙って食べろというわけでもないらしく、日常会話は交わされる。

 島民が熱中症で倒れた話、去年に比べて今年の夏は暑いというぼやき、どこぞが雨量不足というニュース。

 話の流れで玖美が、鎮神が幼少期に豪雨という言葉をゴウーッという擬音のことと盛大に勘違いしていた事実を勝手に暴露して恥を晒されもした。


 艶子と玖美は既に打ち解けている。

 深夜美は、怖いほどの美青年という見た目から受ける印象よりは人当りが良く、朗らかな聞き上手だった。

 真祈は食べることに夢中で、喋る気は無いらしい。


 有沙は誰に対してもつんとしていて、真祈との夫婦仲はあまり良くないように見えた。鎮神が来たせいで機嫌を悪くしているのかとも考えたが、なんとなく悋気とは別物のような気がする。

 そして鎮神もまた、何も語らなかった。

 階段であったことが、頭から離れない。

 恐ろしいのは深夜美の言葉でも瞳でもない、鎮神の内にある。



「艶子様。私、二ツ河島に来たら是非ご挨拶しておきたかった方が居まして……。

 近日中、午前に二時間ほど暇をもらえませんか」

 深夜美が言った。艶子は快く肯首する。

「ええ、構いませんよ。明日にでも行ってきなさい。その方がどなたか、聞いてもいい?」

「荒津様です」

 

 艶子が一瞬、息を詰めた。しかしすぐに常の優しげな微笑を取り戻す。

「そう、荒津様ね……」

「母をお山に弔ってくださった方ですから。一言お礼を言いたくて」

 荒津。死者に休息を与える一族。

 深夜美の母、赤松深海子も荒津の許で眠り――空磯を待っているのだ。



 次の日の昼、早速深夜美は島の最北端である宇津僚家から、最南端の荒津家へと出掛けて行った。

 

 襟ぐりの広いタンクトップ、ジーンズの上にミディアム丈のチャビーコート(注1)を羽織り、エンジニアブーツを履くと、本土から持参していたらしい土産物の紙袋を持って元気よく歩いて行く。

 ドッグタグ風のネックレスと黒髪が、夏の陽射しを照り返してちらちらと光る。


 鎮神は二階の窓から、何となくそれを眺めていた。

 深夜美の持っている服は、鎮神も好みのものであった。

 洒落た彼に惹かれる一方で、近付くのが怖い。

 全ては階段であったことのせいだ。


 しばらく自分の置かれた状況を整理するのに必死であったが、急に居なくなったことについて翔や星奈はどう思っているのだろうか。

 演劇のドレスはちゃんと完成するのか、そもそも自分は退学したことになっているのか、バイト先は無断欠勤について怒っていないか。

 宇津僚家の言う目的とやらについて理解することを半ば諦めた代わりに、断ち切られた今までの生活のことについて色々と考えてしまう。


 翔や星奈に連絡したいのだが、なぜか宇津僚家には電話が無い。

 艶子は深夜美から電話をもらったと話していたので、あるにはあるのだろうが、鎮神が入れないような――それこそ艶子の私室などにしか設置していないのだろう。

 さすがに無断で侵入するのは躊躇われる。


 鎮神にとっては異界でしかない二ツ河島でも、島民からすれば生まれ育った地なのだと、稼働する工場や漁船を眺めて思う。

 深夜美の母、赤松深海子は島の外で生まれたにも関わらず、二ツ河島に骨を埋めることを望んだという。

 確かに海や緑は美しいし、独特の宗教観も一種の魅力とは言えるが、鎮神にとってはただ恐ろしい地だ。

 自分もここに埋葬されるのだろうか、と、微かに見える荒鏤山に呟いた。




 舌打ち。乱暴にドアを閉める音。溜息。大きな足音。慟哭。

 酒の匂い。萎びた皮膚の匂い。死の匂い。

 島民から向けられる嫌悪。

 それが荒津楼夫の全てだった。


 死者を癒す冥府の主、という立派な肩書きは、とうの昔に歪んでしまった。

 王は王にしか出来ない仕事で罪を償おうとしたはずなのに、約五七〇〇年間のうちに王であったはずの荒津家は、『人の死で飯を食う大罪人』へ貶められた。


 三十六歳の図体ばかり大きい男が、父に怯え母に怯え、他人と交わることを恐れることの情けなさは、楼夫自身も痛いほど分かっていた。

 しかしこの心には既に不可視の傷がきつく刻み込まれている。

 

 母の道子は日々暗い部屋に閉じ籠って、一人で泣き叫んだり哄笑したりを続けている。

 荒津家の血を引くのは母の方で、父の良夫は婿養子であった。

 島中から蔑まれている冥府に嫁ぎたい人間は居ない。

 なので荒津家の婚姻は大抵、島外から騙して連れて来た者を無理矢理娶らせるという酷いものであった。

 道子と良夫の夫婦も、娼婦を紹介しようと言われて二ツ河島に来た良夫と、何も知らずに良夫の居る部屋に放り込まれた道子が既成事実に対する責任を負わされる形で、道子の父によって結びつけられたものだ。


 道子の父は楼夫が生まれたのを見届けると、仕事は終わったとばかりにこの世を去った。

 すると良夫は酒に溺れて道子と楼夫に暴力を振るうようになった。

 道子は狂気に呑まれていきながら、ただ一つの望みを息子に託した――お前は醜い、お前に人を好きになる資格は無い、と吹き込み続け――荒津家を楼夫の代で絶やすという望みを。


 厭な音からできるだけ意識を逸らしながら楼夫は家計簿をつける。

 溜息、泣き声、食器の割れる音、襖の壊れる音、また溜息――。

 

 その中に、電子音が唐突に混じった。

 玄関のチャイムだ。これが鳴るのなんて、何年ぶりか。

 まだ電池が腐っていなかったんだな、と驚きつつ、両親が大人しくしているうちに速やかに玄関へ行き、引き戸を開ける。

 

 流れ込んで来た外の景色と共に、六年前の記憶が蘇る。

 母を見送りに、雨の中に佇んでいた少年。

 彼の母の棺を車に積みながら、楼夫は彼に見惚れていた。

 その時だけは、厭なことなど全て忘れ去り、楼夫は冥府の王として女を悼み、少年を憂いていた。


「赤松深夜美……様」


 その名は流れるように口を衝いて出た。

 髪は伸び、すっかり笑顔を取り戻しているがそれは紛れもなくあの少年の今であった。


「覚えていてくれたんですね、荒津楼夫様」

 赤い瞳を輝かせて見上げてくる美貌に困り果て、軽く前髪を下に撫でつけて顔を隠す。

 菓子折りらしき紙袋を受け取って礼を言いつつも、名前を覚えていたことで気持ち悪がられたのでは、と不安が募る。

 自分の表情や相槌一つが深夜美を不快にさせたような気がして、今自分が何を喋っているのか、どんどん分からなくなっていく。


「私、母が大事にしていた信仰に興味を持ちまして、昨日から二ツ河島に住んでるんです。住み込みのハウスキーパーとして、宇津僚様のところで暮らしていて」

「あ、そうなんですか……」


 驚いてはいるのだが、それが上手く顔にも口にも出ない。

 

 深夜美には、二ツ河島に来てほしくなかった。

 島中から蔑まれるこの憐れな姿を、見てほしくはなかった。

 深夜美も楼夫を死の穢れの象徴として避けるに違いない。

 六年前の思い出が壊れるくらいなら、再会など出来ないままで良かった。

 

 家の中からは、父の暴れる音が聞こえてくる。

 全てが情けなく、惨めで、目を伏せた。狭めた視界に、するりと白い腕が滑り込んできて、楼夫の手を握る。


「母の葬儀の折は大変お世話になりました。今日はそのお礼を申し上げに……」


 誰かに手を握られたことなど、記憶にある限りでは一度も無い。

 深夜美は、醜い冥府の長たる自分に触れてはならない美しい人。

 手を引こうとするが、それを許すまいと深夜美の細い指が、楼夫の武骨な指の間に入り込んでいく。


 声色からは、深夜美がはにかんでいることが分かった。

「母は心から二ツ河島に土葬されることを望んでいました。それを叶えてくれた楼夫様には感謝のしようもないくらいで、こんな言葉だけのお礼では足りないんです。だから今度は、お裾分けとかでお伺いしてもよろしいでしょうか……楼夫様、他人の作った料理って食べれますか?」

「は、はい」

「良かったぁ」

 

 この人は、自分なんかに関わりたいのか。

 私なんかと話して、喜んで、笑っているのか。

 そんなはずが無い。自分は冥府の長、死の穢れを引き受ける者。誰かに好かれる資格などない醜悪な存在。

 父も母もそう言って私を詰った。島民は私を避けていた。

 

 深夜美は無知だからこそこうやって私に近付くのだ。

 私の真実を知れば離れていく、離れるべきだ。

 何もかも、教えてやろうとした。

 

 しかし口を開きかけた瞬間、深夜美は楼夫から離れていた。

「もう帰らないと、頂いた休み時間を過ぎてしまいますので。でも、必ずまた来ますから」

 屈託ない笑みを浮かべ、深夜美は去って行く。

 

 涙が流れ出す。吐き気がする。

 深夜美に嫌な思いをさせられたわけではない。

 彼はとても優しかった。

 その優しさに、醜悪という自己を揺らがされて不安になのだ。

 相変わらず、家の中は怨嗟に満ちている。

 しかし今は酸素を求めるように屋内に駆け込んだ。


(注1)チャビーコート…ファーを使ったコート。

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