第16話

 朝の八時頃、艶子は垂宍の港の、フェリー乗り場の待合室に居た。

 プレハブの窓から、何度も海を伺う。

 全体的に早起きかつ娯楽のない島で、暇を持て余した同年代の者たちが艶子の元に集まってきて賑やかになる。

 人が増える度に、今日から住み込みで雇うハウスキーパーを待っているのだと説明を求められ休まる暇が無かったが、合間に何度も窓の外へ目線を移した。


 二ツ河島のフェリー待合室は、ほとんど老人の溜まり場となっている。

 煎餅やおかきの袋が開封されて香ばしい匂いが満ちはじめた頃、窓の外に広がる海の青に一つ、白い影が見えた。

 

 フェリーは島の近くを焦らすように大きく旋回して岩礁を避けてから、澪を進んで船着き場に到る。

 

 船を下りてくる黒い影を認めると同時に、艶子は待合室を出て港に立った。

 背中の半ばまである黒髪が鴉の羽のようにたなびき、蘇芳色の双眸が真っ直ぐに艶子を見る。

 猫のような上がり目は漁村の風景には目もくれず、艶子だけを捉えていた。


「お久しぶりです、艶子様」

 青黒く塗られた唇が柔らかな笑みを浮かべる。

 六年前、母を亡くしたばかりの彼は一度も笑わなかった。それが今、艶子だけに笑いかけている。


「ようこそ、二ツ河島へ……深夜美さん」

 

 待合室からは、ひょこひょこと島民らの頭が覗いている。

「あの顔立ちは、確かに赤松……」

「我々と違って罪も無いのに、島に戻ってくるとは」

「女系の一族だったのに、残ったのは男の子一人か」

「やはり余所者は派手ですな。宮守の倅いわく、吾宸子様の奥方も派手らしいが」


 小声で囁く人々を背にして、艶子は深夜美を連れて家まで歩く。

「あれから、どうされていたのですか?」

「大学を出て、就職はしたのですが、母から聞かされ続けていた空磯信仰の話が忘れられなくて……。

 だから退職して、ここに来たんです。

 宇津僚様が雇ってくださって助かりました。凄く嬉しい」


 彼と並んで歩くだけで、六十年生きてとっくに見飽きていた寂れた島がいつもと違って見える。

 

 まただ。深夜美と話していると、なぜか夫のことを思い出す。

 淳一はただのいとこであり、ただの夫であった。

 血が近く、雄と雌であったから、安直に番とされた。心の通うことなど無い夫婦だった。

 

 もし彼が深夜美のように優しかったならば。

 或いは隣に居たのが深夜美だったなら。

 島はいつだってこんなに輝いて見えたのだろうか。


 堀にかけられた橋を渡り、長屋門をくぐって宇津僚家に辿り着く。


「今日からここがあなたの家。お仕事もありますが、それよりも家族として、楽しく過ごしましょう」

「ええ……私の、家……」

 そう呟く深夜美の顔は、逆光になって艶子からは見えなかった。

 

 二階の窓にアレキサンドライトの光がちらついたことで、真祈が前庭に立つ二人を見下ろしていたことに気付く。

 吾宸子の勤めを終えて、神殿から戻ってきていたのだ。

 いつもは研究があるなどと言って長時間神殿に籠っているが、今日は早く帰ったらしい。


「真祈様、お久しぶりです。婚約されたと艶子様から聞きました。おめでとうございます」

 深夜美の低く甘やかな声が二階へ投げかけられる。

 真祈はそれに軽く返礼する。

「ありがとうございます。すぐ一階に下りますので、改めてご挨拶を」

 真祈は万人に等しく、優しげで朗らかな笑みを向ける。

 深夜美のことを警戒はしているらしいが、差し出す愛に変わりはないのだ。

 決して深いとは言えないが、淀みの無い愛。

 艶子もその万人の一人に過ぎず、生みの親だからといって特別な感情を向けられたことは無い。

 

 艶子はいつからか、真祈を不気味だと感じるようになっていた。



 もう少し眠っていたいが、崩れた体内時計はかえってそれを許さず、疲れがとれきっていないにも関わらず、鎮神は朝の九時前に起き出してきた。

 

 鏡で確認するが、泣き腫らした痕は無い。

 とりあえず茶でも貰おうと部屋を出ると、廊下の窓の前に真祈が立って前庭を見ていた。

 気配を感じたのか、真祈は振り向く。

「赤松深夜美さんがいらっしゃいました。一緒にご挨拶に行きませんか」

 

 断る理由もないので、手櫛で髪を整えながら、真祈に連れられるまま階下へ向かう。

 艶子と共に玄関に佇む『赤松深夜美』は、遺体を奪取したという話から思い描いていたよりは、ずいぶん華奢で、剛胆というより繊細な印象だった。

 ゆったりとした白いシャツ、黒いレイズドウエストパンツ(注1)というシンプルな格好ながらその顔かたちで人の目を引く、真祈とはまた違った美しさ。

 男にしては細く薄い身体つきで、年齢性別相応にはあるだろうが背丈は小柄な部類だ。

 田舎の少し異様な家の玄関に居ながらも、彼の持つ雰囲気が背景を呑み込む。

 闇へと通じているかのような麗しい黒髪、一筋涙を流せば共に流れ出てしまいそうな儚さと意志の強そうな鋭い光を同時に湛える暗赤色の上がり目。


「鎮神様……ですよね」

 体格のわりに低いが耳ざわりの良い声が、目線と共に鎮神を捉える。


「今日からお世話になります、赤松深夜美と申します。よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします……」

 急に高い地位を与えられてしまったので、こうして年上にぺこぺこと傅かれるのは、やはりむず痒いものがある。

 

 深夜美はこれから荷物を一階に与えられた部屋に運び込んだり、田村に仕事を教えてもらったりで忙しいだろうから、と鎮神と真祈は早々に二階へと引き上げた。

 しかし、あの赤い瞳が周囲の空気全体に焼き付いたかのように、脳裏から離れない。

 さらに、真祈が妙に黙っているのも気になった。

 何を考えているのか真祈に訊ねようとしたが、階下から楽しそうな話し声が聞こえ、そのうちの一つが母のものだと悟ったとき、鎮神は口を噤んで部屋へ逃げ込んだ。

 そもそも部屋を出たのは喉が乾いていたからということも忘れ、一人顫えた。





 清陽高校にて。

「今日も諏訪部くん、お休みか。日曜をまたいで五日連続だよ」

 星奈と横並びになって音楽室へ移動しながら、誠美が言った。

 その寂しげな声色を聞き、星奈は抱えている教科書を強く握った。


 つい一昨日見てしまった、伽藍堂の諏訪部家。

 鎮神はもう畔連町におらず、その生死すら定かではない。

 生きていたって、死ぬより酷いこともこの世にはいくらだってあるだろう。

 星奈と翔は、まだ鎮神の失踪に関する謎を誰かに話してはいなかった。

 教師が鎮神を欠席扱いにしているところを見るに、まだ学籍はあるらしいが、それが余計に不穏であった。

 

 誠美が鎮神を好きだというのは分かっている。

 本当のことを言えないのは心苦しいが、今は二ツ河島という謎の地が敵かどうか見極める時だ。星奈と翔だけで動かなくてはならない。

 そういえば、鎮神のバイト先には、頃合いを見計らって学校に来ていないという事実だけでも耳に入れておいた方がいいかもしれない。


「あの……星奈ちゃんは、好きな人とか居るの? 氷上くん、とか仲良いじゃない」

 突然誠美が、友人の生き死になどと比べるとずいぶん可愛らしい話題を振ってきた。

「翔? ただの幼馴染だぞ、あれは」

「……諏訪部くんとか、どうなの?」

 そう言う誠美の声は震えていた。星奈は笑いを堪え、努めて冷静に返す。

「鎮神はちょっと優しすぎて、恋愛対象として見れないな。誠美は、何か恋のお悩みでも?」

「――私、諏訪部くんが今度学校に出て来たら、告白しようと思う」

 返ってきたのは悩みどころか、堅い決意であった。


 よほど、言ってしまおうかと思った。あんたの好きな人はもうこの町に居ないと。

 しかし留まる。今やるべきは友人を悲しませることではない、と思ったのだ。


「最初は、グレてるなんて噂もあって、怖い人だと思ってたけど……だんだん、苦しみを知っているからこそ他人に優しい素敵な人だって気付いたの。

 たとえ振られたとしても、私が諏訪部さんのことを尊敬してるってことが伝わればいいなって」

「なに予防線張ってんだか」

 すかさず星奈が突っ込むと、誠美は、鎮神とまた学校で元気に会えるという未来を信じて疑わぬといったように笑った。

 星奈もそれに笑って応える。

 必ず、鎮神と二ツ河島の関係性を暴かなくては。誠美のためにも、だ。


(注1)レイズドウエストパンツ…ウエスト位置が高いズボン

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