第5話
鎮神が意識を取り戻して最初に感じたのは、甘ったるい麝香のような香りだった。
こんなお香が家にあっただろうか、と思いながら目を開けると、そこは見知らぬ十畳ほどの板張りの部屋で、布団に寝かされている自分の傍らには二人の男が、日に灼けた大きな体を縮めて正座していた。
言われた通りに学校を休み、自宅に居たはずだ。
珍しく母が作り置きしてくれていた昼食を食べてから急激な眠気に襲われたところまでは記憶がある。
半ば夢と思いながら半身を起こす。
すると、比較的若い方の男が、もう一人に言った。
「宮守さんは、『あしんす』様を呼んで来てください。私は鎮神様を見張っていますので」
年かさの宮守と呼ばれた男は、それに従って部屋を出て行く。
襖を開けた時、その向こうに板張りの廊下が見えた。
見たこともない男たち。しかしその姓が妙に引っかかる。
しばし考えた後、思い至った。
「あの人が宮守ってことは……貴方が、鷲本?」
シャツを押し上げる角張った体躯に、芝生のように刈り込んだ焦げ茶の短髪と髭という厳つい見た目のわりには穏やかそうな目が見開かれる。
「ええ、私が鷲本
与半は、驚きはすれど、名を知られて困るといった素振りは無い。
母のメモには「鷲本」「宮守」という、人の姓らしき文字があった。
鎮神は寝起きの頭を巡らせる。
これは夢ではない。眠っている間に見知らぬ部屋に連れて来られたのだ――覚醒と共に恐怖が沸き上がってきた頃、襖の向こうから足音が近づいてきた。足音は二人ぶんに増えている。
与半が襖を開け、一歩下がり跪く。
麝香の香りが強くなる。
「あしんす様」を待ち構えて廊下を見つめる鎮神の目に最初に入ってきたものは、強い光だった。
光と共に若い女が部屋に入って来る。
絶句している鎮神を、その紫色の大きな瞳が見下す。
桜の花びらの上に少し朱を滲ませたかのような優しい色の唇は、楽しいことがあるのでも、何かを嘲りたいのでもなく、ただ微笑みを浮かべている。
鎮神よりは少し年上に見える彼女の背丈は、男の平均身長をも超しており、乳白色の体は細いわりに筋肉質だが、一方でどこかあどけない丸さを残している。
その美しさも異様であったが、服装もかなり変わっていた。腰のやや下で切り替えられたマーメイドライン(注1)のドレスで、上半身は白を主としている。
首を包み込む牡丹の花弁のような詰め襟の項にリボンが付いているのは、これが後ろで編み上げて着るタイプのドレスだからだろう。
両肩とケープスリーブ(注2)は二重で、下段は差し色に薄桃のオーガンジー(注3)が使われている。
シルクタフタ(注4)で織られた、体のラインにぴったり沿った身頃とバルーンスカート状の裾を持つミニドレスの下に、オーガンジーのロングスカートをくっつけたような異素材を組み合わせたドレスは、スカート部分の大半が袖飾りと共布の透けた素材であるせいで、脚がほとんど顕わになっている。
それでも着る者があまりに堂々としているせいか、下卑た感じはしなかった。
何より鎮神の目を引いたのは、膝あたりまで伸びたその髪だ。
風を可視化したかのように軽やかにふわふわと揺蕩うそれは、鎮神のものと同じ銀色をしている。
そして、太陽光を受けたところは萌黄色に、薄暗い部屋に灯された小さな電灯の光を受けたところは赤紫色にまるでCDの裏面のように輝いていた。
宝石のアレキサンドライトを思わせる髪。
鎮神は自分と同じ、むしろそれ以上に特異な髪と初めて出会った。
「私は
(注1)マーメイドドレス…上半身から膝までがぴったりしていて、膝下から下が広がっているラインのドレス。
(注2)ケープスリーブ…ケープを羽織ったように見える、ゆったりと広がった袖。
(注3)オーガンジー…透け感のある生地。
(注4)シルクタフタ…ウェディングドレスなどに使われる、光沢のある生地。
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