第19話
今日も有沙は、昼頃に目を覚ます。
きっちりと一日三食を摂る習慣も無いので、適当に食糧を掻き込むつもりで階下に下りる。
一応『夫』ということになっている真祈は、研究とやらで、詩祈山の神殿に、朝のお勤めを終えても引き続き籠っている。
義母にあたる艶子は、真新しい帽子を被って上機嫌で畑仕事している。
『夫の妻』である男、という訳の分からない関係性の鎮神は塞ぎ込んで部屋に引き籠っている。
愉快な家人どもを尻目に、台所でシンクを受け皿にしてパンを立ち食いすると、さっさと川釣りの仕度をして玄関へ向かった。
「釣り、されるんですか」
後ろから声が掛けられる。一昨日、ハウスキーパーとしてやってきた赤松深夜美だ。
太陽光が直には差さず、かと言って灯りを点けるには明るすぎるような仄暗い廊下で、赤い瞳が不気味に光っている。
女顔に華奢な体、長髪などは有沙の好みの男性像ではないが、均整のとれた肉体であることは認めてやろうと思う。
「ああ。釣ってもすぐ放しちゃうから、晩飯には勘定しないでよ」
「はい。楽しんできてください」
それで会話を打ち切ってしまっても良かったのだが、なんとなく気になって、深夜美が何度か荒津家を訪れていることについて訊いた。
「そう言えば赤松さん、荒津と親しくしてるんだって?
釣り餌買うときに、店のおっさんが噂してたけど」
「それがどうかしましたか」
「私はどうでもいいけど、あんまり良く思わない人も居るからさ……。
まあ、それについて島の連中から嫌味の類を言われても気にするなってこと」
適当に話を切り上げて、家を出て行く。
前庭を突っ切っていると、どこからともなく玖美がふらりと現れた。
『夫の妻(男)の母』という、有沙からすれば最もどう接して良いか分からない立場の人である。
「有沙さん、ちょっとお話が」
深刻そうな面持ちで、玖美が呼び止めてきた。
面倒だったが、長くなりそうなので釣り道具を傍らに置いて聞いてやることにした。
「話というのは、鎮神と真祈さんのことなんだけど……」
何も思い浮かばない。ミシンを前にしても手が動かない。
島に閉じ込められ、ファッションデザイナーになるという鎮神の夢は絶たれていた。
しかし、服を作ることに代わる心地良い苦しみと楽しみを知らない。
今日も懲りずにミシンの前に座って、布やデザイン画を広げてしまう。
たとえ仕事に出来なくても、趣味で洋裁を続けていればいいと考えもした。
しかし自分は、思っていたよりも服を作ることを生き甲斐にしていたらしい。
それをたくさんの人々に見てもらいたいという欲も自覚していた以上に強かったのだ。
曇るような思いが、創作を妨げている。
ぼんやりしていると、誰かが階段を駆け上がって来て、勢いをつけて襖を開けた。
母が、鎮神の部屋に入ってくる。
「鎮神、どういうこと」
ここまで母が眦を裂いて激怒しているところは初めて見た。
思わず椅子から腰を浮かせ、玖美と対峙する。
「なんで、まだ真祈さんと寝てないの」
玖美の言葉に、鎮神は硬直した。
「子どもを作るっていう目的が達成されないと、私たち追放されるか殺されるって言ったはずよね!
心配しなくても何とかするってあんた約束したでしょ!」
捲し立てる玖美から、鎮神は目を逸らす。
母の恩に報い、真祈を守りその目的を叶えるために、鎮神は名目や戸籍の上だけではなく、心身までをも妻として真祈に供さなくてはならない。
無論、忘れていたわけではない。
ただ、あれから真祈が妙に忙しそうにしていたうえに――何より、決心がつかなかった。
どれだけ自分が苦労してきたか、学もなく手に職もない者にいかに世間が冷たいか。
自分がどれだけ我が子の将来を心配し、我が子を愛しているか、母は叫ぶ。
突如として、赤い瞳が脳裏に現れて、鎮神をその色で包み込んだ。
『鎮神様……憐れみで人付き合いするのは、良くありません。互いの為にならない。たとえそれが肉親であったとしても』
鈍色がかっていた思考が、ぱっと晴れる。
毒々しいまでの晴れやかさに笑みが零れそうにさえなった。
おれは、自分が嫌いだ。
淫奔な男の血を受け継いだ自分が嫌いだ。
髪の色も、脆い心も、この『力』も、全て嫌いだ。
こんな自分が人の親になってはいけない。
父と母のような大人になりたくない。
気持ち悪い、汚い。
ああ、おれは、思っていたよりもずっと、母のことが嫌いだったようだ。
目の前から永遠に消え去っても惜しくない程度には。
「もういいわ、知り合いの男を呼んで、真祈を孕ませてやるから――」
玖美がそう口走った時、鎮神はすっと母を指差した。
呼応するように鋭い裁ち鋏が宙に浮く。
もはや母のために真祈はもちろん鎮神が犠牲になるという選択肢は無い。
そんな未来は今ここで潰す。
突如起こった、世の理に反する現象に、玖美は動けないでいた。
初めて味わう悍ましい力に、それも我が子が操るそれに、理解が追い付いていない。
育ててもらった恩という負い目。愛に擬態していた憐憫。
全て憎悪に塗り替わる。
獣じみた咆哮が喉を裂く。
指先に神経を集中し、母の目を正面から見据える。
鋏は刃を玖美に向け、宙を走った。
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