木曜日 22:05
飲んだお酒の量は大した量じゃない。
ふたりでビールの大瓶を二本。
その程度のお酒で酔っぱらったりはしないけど、アルコールの所為で舌が滑らかになってるのは事実で。
「社長は、あたしがずっと憧れてた人だったの」
「ずっと?」
その上、瀬能先生は職業柄か聞き上手だから、あたしはベラベラと自分の事を話してしまう。
「うん。専門学校行ってすぐくらいから」
「憧れの人と一緒に働けるって素晴らしいですね」
「でしょ!? 社長が独立した時、あたしちょうど就活してて、ダメ元で受けに行ったら受かっちゃって!」
「それは、よかったですね」
「先生は知らないかもしれないけど、社長ってこの世界じゃそこそこ有名な人でさ? だからあたし以外の社員もみんな社長に憧れて会社に入ったんだよね」
「へえ」
「だから忙しくて家に帰れない時があっても、全然苦にはならないし、誰も文句言ったりしない」
「いい職場環境ですね」
「そうそう。自分の家より家って感じ? 寛げちゃう職場なんだよね。その所為で仕事してて気付いたら終電終わってたって事も珍しくない」
「だから、痩せたんですか?」
「へ?」
「仕事に夢中で食事をする暇もない?」
「あー」
「久しぶりに会って、その痩せ具合に正直驚きました。僕が知ってる吉岡さんはとても健康的だったので」
「夢中になるのは夢中になるけど、痩せたのはまた違う理由」
「違う理由?」
「うん。要はお金の問題かな」
「お金というと……?」
「あんまこういう話って恥ずかしいからしたくないんだけど、給料が少なくてね。それで食費削ってたらいつの間にかこんな風になっちゃったんだよね」
「食費を削らなきゃいけないくらいなのに、会社を変わろうとは思わないんですか?」
「うん。ってか、それって社長の所為じゃないし」
「それはそうでしょうけど――」
「あのね。あたしのあとに入った子がいてさ」
「……え?」
「うちの会社に。あたしのあとに入ってきた子がいたの。男の子なんだけど、その子も社長に憧れて入ってきたって言ってた」
「はあ……」
「でも、それ嘘でさ? 社長が前に勤めてた会社って結構大きな会社だったんだけど、その会社から送られてきた謂わばスパイだったわけ」
「スパイ?」
「馴染みない言葉でしょ!? あたしも初めて聞いた時は『何だと!?』って思った。けど、大きな会社じゃそういうの普通にあったみたい。社長がそう言ってたから嘘じゃないと思う」
「それで、その人が何かを?」
「その頃は会社も軌道に乗り始めていい感じになっててさ。独立してからの事思えばそれって異例の速さなんだけど、社長も性格的に細かい感じじゃないから、ファイルとかデータをデスクの上に置きっぱなしでね」
「…………」
「その時の唯一のクライアントの資料と、受注してた仕事の出来上がったデータをデスクに置きっぱなしにしてたんだよね。……って言ったら、もう察した?」
「はい。何となく」
「あはははは。やっぱり?」
「笑い事ですか?」
「笑わなきゃやってらんないしね」
「…………」
「まあ、お察しの通り、スパイ君が全部コピーして持ってっちゃって。それってもう当たり前に信用問題でさ? クライアントとしては、うちの会社信用出来ないってなって、その仕事は社長が前にいた会社に持っていかれちゃった。しかもそういう噂ってすぐ広まっちゃうから、うちの会社仕事こなくなっちゃって。最近はようやく仕事も来るようになったんだけど、今度は人手が足りなくて」
「人手?」
「やっぱり、いくら社長に憧れて入社したって言っても、その事件で辞めていく人もいてね。それはもうみんなお金の事でっていうか、仕事がなくて給料がまともに貰えないから生活出来ないって理由でなんだけど」
「それでも吉岡さんは辞めなかった?」
「うん。実はその事件が起きてすぐの時、社長に『辞めるなら今だぞ』って言われたんだ。まだ噂も回ってなくて、別の会社に就職するのにも支障は出ないからって。噂が立ち始めると多少なり就職に響くだろうから、早く辞めろって」
「いい人ですね」
「いい人だよ。だから給料少なくてもやっていける」
「でしょうね」
「あたし、根っから体育会系みたいでさ。そういう事で逃げ出すって出来なくて、逆に立ち向かってやろうとか思っちゃって。周りには散々『辞めろ』って言われたけど、辞めなかった」
「吉岡さんらしいですね」
「そう? でもそれ、くるみと一葉にも言われた。あのふたりだけは辞めろって言わなかった」
「流石、友達ですね」
「うん。文句は言うけどね」
ぎゃはははは――って、あたしはもう一度笑ったけど、瀬能先生は笑わなかった。
複雑な表情をしてあたしを見つめるだけだった。
でもその気持ちは分かる気がする。
かつての教え子が――担任じゃなかったけど――食う物も食わない生活をしてるって聞けば複雑な心境になると思う。
特に瀬能先生は、優しいからそうなると思う。
「あっ、これ西村先生とかに会う事あっても言わないでね。瀬能先生だから言ったんだから」
あたしがそう言うと、ようやく先生は思い出したように笑みを浮かべて、テーブルの端に置いてある伝票に手を伸ばすと、「そろそろ行きましょう」と席を立つ。
だから。
「待って! 半分払う!」
レジに向かって歩き出した先生に追い付いて財布を取り出した。
「誘ったのは僕なので」
そう言って、あたしの動きを制しようとした先生の手。
だけどあたしは更にその先生の手を止めた。
「だから、教員って給料少ないんでしょ? 無理しなくていいじゃん。割り勘にしよ」
「ですが――」
「いいって! あたしもう学生じゃないし、ここの払い出来るくらいにはお給料もらってる」
受け手にとっても、それを聞いてた周りにとっても可愛げがないって思う事を口にしたあたしを。
「では、ここは割り勘で」
流石というべきか先生は弁えた態度で受け入れた。
人によっては気分を害しそうな言い方だったのに、先生はすんなりとそう言って、あたしの手から千円札を二枚取ってレジに歩いていく。
その背中を見ながら、やっぱり先生は大人の中の大人だと思った。
大人になって分かった事は、大人はみんながみんな大人じゃないって事。
むしろ自分を含め、子供みたいな大人が多すぎる。
だけど先生は大人だ。
昔からずっと。
高校時代に抱いていたそのイメージだけは覆らない。
その大人らしい紳士的な態度が、異国の王子様を思わせるのかもしれない。
「行きましょうか」
会計を済ませた先生は、教師らしからぬスマートな雰囲気で「店を出よう」とあたしを促す。
それに黙って従うあたしも、あたしらしからぬスマートな感じだったかもしれない。
店を出て、裏通りを駅に向かう道中は、特に会話をしなかった。
でもこの無言の時間に耐えられるのも大人同士だからなんだろうかなんて、悠長な事を思ったりしてた。
だけど、本当の大人はあたしに謎を吹っ掛ける。
「吉岡さん」
駅前でそう呼び掛けてきた先生は。
「明日こそ、僕にご馳走させて下さい」
その大人の本領を発揮させた。
「明日……?」
「はい。今日は突然だったので、吉岡さんの心構えが出来てなくても仕方なかったと思います」
「は?」
「ですから、今日は全て吉岡さんに合わせましたが、明日は僕に合わせて下さい」
「はあ?」
「明日は、今日行く予定だったレストランに行きましょう」
「はあ!?」
「もちろん、僕がご馳走します」
「はああ?」
「さっき僕は、吉岡さんに恥をかかさないようにと思って、お金を受け取りました」
「はあああ」
「なので、誘った僕に恥をかかさない為に、明日は僕に付き合って下さい」
「はああああ」
「それに僕はまだ返事を頂いてません」
「は!?」
「昨日言った事です。明日、返事を聞かせて下さい」
にっこりと、一葉以上の人畜無害な笑みでそう言った先生は、「では、明日八時に駅前で」と言うと、あたしの返事も待たずにまたさっさと去っていき——。
――言い逃げ……!
大人のズルさと巧みな話術をお見舞いされ、呆然としてたあたしがそう思った時には、もうその姿はすっかり見えなくなっていた。
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