金曜日 22:30
法外な値段を取るイタリアンレストランの料理の味は、瀬能先生には悪いけど美味しいかどうか分かんなかった。
着慣れない服が落ち着かなかったり、ギャルソンに見られてる気がして落ち着かなかったり。
しっとりって感じの雰囲気も落ち着かないし、店内に流れる普段は聞く事のないジャズも落ち着かない。
そして何より先生と付き合ったっていう現状に頭の中がフワフワしてて、それが落ち着かない感じに拍車を掛けた。
それでもやっぱり落ち着かないのはあたしだけらしい。
先生はキョロキョロもソワソワもしないで、あたしと向き合う。
「先生って仕事、大変?」
夢見心地って言葉が合ってるのかは分からないけど、ずっとそんな感じのあたしは、その状態にプラスして飲み慣れないワインを飲んだから、余計に頭の中がフワフワフワフワしてた。
だから自分で話してる言葉が他の誰かの言葉みたいな、何とも表現し辛い状態に陥ってた。
口を動かして声を出してるって分かってるけど、自分じゃないみたいな感じ。
冷静に考えれば、それはただ酔っぱらってるだけなんだろうけど、その事を理解出来ないくらいにフワフワしてた。
「大変ですけど、楽しいですよ」
「楽しいの?」
「はい。吉岡さんがご自分の仕事を楽しいと思うくらい楽しいと思います」
「そんなに先生って仕事が好きなんだ?」
「そうみたいです。それに気付いたのは教師になってからですけど」
「じゃあ、先生になる時は好きでもないのになったの?」
「いえ、好きだったんです。ただ、それが天職だと思うほどではなくて。上手く言えないんですが、改めて実感したというか……」
「あ! それ分かる!」
「分かります?」
「うん! あたしもそうだったから! って言ってもあたしの場合は、仕事ってより社長って感じだけどさ。前にスパイの話したでしょ? あの事件の時、改めて思ったんだよね」
「社長?」
「そうそう。やっぱ社長が好きだなって。それはもちろん仕事の面でね? この人の下でもっと勉強したいって思った」
「なるほど」
「先生もそう思う何かきっかけあった?」
「はい。ありました」
「そういうのって誰にでもあんのかなあ?」
「さあ、どうでしょう」
優しい笑みを浮かべた先生は、すっかり温くなったコース最後の珈琲を飲み干すと、「そろそろ出ましょうか」って言ってゆっくりと腰を上げる。
そして、あたしが酔ってる事に気付いてるのか、立ち上がるとすぐあたしの席まで来て、スッと手を差し伸べてくるから、あたしは迷わずその手に掴まった。
先生の紳士的な行動は、特別扱いされてる気分にさせる。
柄じゃないけど、姫だかお嬢だかになったような気持ちになる。
「先に出ていて下さい」
会計を済ませる為にレジの前に立った先生は、それまで繋いでた手をスッと離して、出口の方を指差すと、あたしを先に外に出させる。
そういう大人の態度に、先生に比べたら子供なあたしは「半分払う」って言いたいけど、言えるほどのお金を持ってなくて先生の言葉に従って店を出てすぐの所で足を止めた。
お店を出てすぐに広がるロビーには、週末なのにも拘らず誰もいない。
エレベーターがお客を乗せて上がってくる気配もない。
イタリアンレストラン以外にもこの階にあるお店はどこも値段が高そうで、こんな不景気にこんな高級志向な店がやっていけるのかなんて、自分には関係ない事を心配してしまった。
「お待たせしました」
背後の自動ドアが開いた気配と共に聞こえてきた先生の声は穏やかで。
「ご、ご馳走様でした」
振り返ってペコリと頭を下げたあたしに向けられた笑顔も穏やか。
優しさとか穏やかさって言葉は先生の為に作られたんじゃないかって思うくらいに、優しくて穏やかな雰囲気を醸し出す先生はまたスッとあたしの手を掴む。
その行動は凄くさりげなかったのに、あたしの心臓はそれとは反対に大きくドキッとした。
「吉岡さん」
エレベーターに向かって歩き出した先生の歩調は遅い。
「な、何?」
常に視界に入る距離にいたギャルソンがいなくなった店外で、ふたりきりになった事に緊張したあたしの声はちょっとだけ上擦ってる。
「教えて頂けませんか?」
「な、何を!?」
「スマホの番号を」
「え!?」
「連絡先を知らないので」
「あ――ああ、うん。だよね。そうだよね」
「差し支えなければ」
「な、ないない。そんなのない」
たかがスマホの番号を聞かれただけで、バカみたいにテンパッてるのは緊張の所為。
未だ頭の中がフワフワしてる感じが消えなくて、心臓のバクバクに呼吸困難に陥りそうになる。
自分じゃどうしようもない状態に、鞄からスマホを取り出すのに時間が掛かった。
何をそんなにモタモタしてんだって自分で自分を叱咤しても、手が震えてスマホが上手く掴めなかった。
エレベーターまで、あと十歩ほどの距離。
スマホを取り出す為に立ち止まったあたしの横は非常階段への入口。
高級なお店ばかりある階だからか、ロビーも少々薄暗い。
その薄暗い中で光る、非常階段の
「ご、ごめん、何か酔ってるみたい」
ようやく取り出したスマホのロック画面を解除しながら、そんな言い訳をしたあたしを、先生は「大丈夫ですか?」って心配してくれる。
だから密かに、こんな扱い初めてかもって思って、過去の男にこんな風に気を遣ってもらったり、女として扱ってもらった事がない事を思い出した。
過去の恋人たちは、恋人とは名ばかりのものだった。
友達の延長みたいな感じで、イチャイチャしたりする事もなかった。
あたしがそういうの苦手だってのもあるし、名ばかりの彼氏があたし相手にそんな気にならないって事もある。
社長の言う事は正しい。
あたしには色気がない。
男の目にはあたしって存在は女には映りにくいらしい。
女として「好き」って告白されたって、いつの間にかそれが人として「好き」って感情に変わる。
「いい奴だな」って言われた事はあるけど、「いい女だな」って言われた事はない。
それなら先生も、いつかはあたしを――。
そんな、くだらない不安に襲われたのは、経験した事のない現状とお酒の所為だと思う。
普段のあたしならそんな事考えたりもしないのに、沢山の「慣れない事」に普段とは違う自分がいた。
乙女な感じで気持ち悪い。
くるみじゃあるまいし、何考えてんの。
そう思ってるのに不安は全然消えてくれなくて。
「番号……」
そう言って顔を上げたあたしに、先生は「どうかしましたか?」って困惑した声を出した。
あたしは相当悲壮な顔をしてたらしい。
分かりやすく「不安」が顔に出てたらしい。
真正面に立って小首を傾げた先生は、困惑の表情で一歩あたしに近付く。
「な、何でもない。どうもしてない」
「でも――」
「何でもないって! ほら、番号」
「吉岡さん?」
「酔っただけ! 飲み過ぎたみたい!」
「…………」
「本当に何にも――」
言葉半ばで息を呑んでしまったのは、先生の両手で頬を包まれたから。
直視出来なくて逸らしてた目を強制的に合わせられて、アルコールの力以上に頬が赤くなってるのが自分でも分かる。
至近距離であたしを見つめる先生の目はどこか寂しげで。
「後悔してるんですか?」
そう聞いた先生の声も寂しげだった。
「後悔……?」
「僕と付き合った事をです」
「そ、そんなんじゃない」
「……本当に?」
「ほ、本当だって! あれだよ! 酔ってるだけ! ワインなんて飲み慣れてないから――」
二度目の、言葉半ばで声を失ったのは息を呑んだからじゃなかった。
先生に唇を重ねられて強制的に言葉を遮られた。
でも突然の事じゃない。
先生の顔が近付いてきてるのをあたしは分かってた。
分かってて避けないでいたのに、キスされて凄くびっくりした。
びっくりしすぎたから体が強張って、遠い過去のファーストキスの時よりもテンパってた。
そんなあたしの緊張を解すかのように、先生の舌がゆっくりと口の中に入ってくる。
――こんな所で深いキス!? 誰かに見られたらどうすんの!?
そう思ったのはほんの一瞬だけだった気がする。
入ってきた先生の舌があたしの舌を絡め取り、その動きを徐々に強くしていくから、酔いも手伝ってすぐに頭がポーッとしてくる。
何も考えられなかった。
熱に浮かされたように、あたしはいつの間にか先生の舌を自ら求めてた。
ロビーに反響するキスの水音に妙な興奮を煽られてた気がする。
だけどそれはあたしだけじゃない。
優しくて、穏やかで、常に落ち着いてる先生も、その雰囲気に理性を失い掛けてる。
気が付くとあたしの手は先生の背中に回ってた。
もっともっととせがむみたいに、ギュッとそこを握り締めた。
だから唇が離れた時は何だか寂しい気持ちになって——。
「どこか……」
「……へ?」
「どこかに泊まりませんか?」
鼻先をくっ付けたままそう言った先生の言葉に小さく頷いてしまった。
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