金曜日 20:20
――畜生、落ち着かない。
聞きしに勝る法外っぷりだった。
待ち合わせ五分前に着いたあたしを、既に待っていたスーツ姿の瀬能先生が連れてった駅前のビル。
映画館やらデパートが入ってるその高層ビルの、最上階にあるイタリアンレストランは前菜のサラダが二千円もする。
――ナメてる。
広いフロアにゆったり座れるように広い間隔で置かれたテーブル席は、空間の無駄遣いにしか思えないし。
ロマンティックな雰囲気を醸し出す為だかに薄暗くされてる照明の効果は、足元が見辛くて転びそうになるって効果以外を今のところ感じてない。
テーブルの中央に置かれた小さなキャンドルは、さながら停電みたいで落ち着かないし、用もないのに近くに立ってるギャルソンがウザい。
わざわざ予約してたらしい窓際の席に案内されて五分。
メニューを開くあたしの足は、貧乏ゆすり中。
だけど向かい側に座ってる瀬能先生は、いつもと変わらず落ち着いた感じでメニューを見てる。
チラリと背後に目を向けると、ギャルソン。
一瞬目が合ってこっちに来そうになったそのギャルソンから、あたしは慌てて目を逸らして開いてたメニューを閉じた。
「ね、ねえ、先生」
小声でも聞こえるように前のめりになってそう囁くあたしに、先生はメニューを下げて「はい?」と同じように少し前のめりになる。
それでもやっぱり先生の態度は落ち着き払ってる。
どうにもこうにも落ち着かないのはあたしだけらしい。
「こ、こういうトコよく来んの?」
「いえ。初めてです」
「それにしては落ち着いてない!?」
「そうですか?」
「慣れてる感じがするんだけど!?」
「そんな事ないですよ」
ニコニコと余裕の笑みを浮かべる先生は、またメニューに目を向けて、「何にするか決まりましたか?」なんて聞いてくる。
法外だとしか言いようがない値段の食べ物を「決まりましたか?」って、高架下の居酒屋で聞くかのように聞いてくる。
だからって、同じように居酒屋気分で「うん、決まった」なんて言えるほど、あたしって人間は図々しく出来てない。
奢ってくれるって分かってるから尚の事、そんな事言えない。
むしろ、何にも決まってない。
こんな所で何食えばいいのか分かんない。
二千円もするサラダに何が入ってんのかも想像出来なくて、さっきから思うのは「育て方!? 野菜の育て方が違うの!? 育て方の違いが値段の違い!?」って事くらいで、食べたいなんて思わない。
だから。
「ね、ねえ、先生」
あたしがまた小声で呼ぶと、先生は「はい?」ってメニューを下げる。
その顔は、明らかに「何にしますか?」って聞いてるから、あたしは周りを見回してギャルソンがこっちを見てない事を確認してから、
「あたし、こんな店じゃなくて普通の居酒屋でいいよ」
早口で囁いた。
「どうしてですか?」
「だって先生もこんなトコ初めてなんでしょ!?」
「はい」
「何もこんな無理しなくてよくない!?」
「無理はしてません」
「もっと行き付けの店とかでよくない!?」
「今日は特別なので」
「特別!? 先生、誕生日とか!?」
「いえ。違います」
終始ニコニコ笑ってる先生は、「決まらないようでしたら僕が決めてもいいですか?」ってメニューを閉じる。
そして、反射的に「あっ、うん」って言ってしまったあたしににっこりと笑ってから、軽く手を挙げて近くにいたギャルソンを呼ぶと、コース料理とワインを頼んだ。
注文を受けたギャルソンが先生とあたしからメニューを取って去っていく。
だから結局先生の頼んだコース料理がいくらなのかは確認出来なかった。
でも、その方がよかったのかもしれない。
確認したらしたで値段の高さに泡を食ってたかもしれない。
それでなくても落ち着かないのに、もっと落ち着かなくなってたかもしれない。
だからって、コース料理がいくらなのか分からないにしても、落ち着かない気持ちが減ったりはしないんだけど。
慣れない場所と雰囲気に、どうしても普段の自分が取り戻せなくて、何とか落ち着こうと目を向けた窓の向こうには夜景。
会社があるこの街を今まで綺麗だと思った事はなかったけど、高い場所から見るこの街は妙に綺麗だった。
こんなものなのかもしれない。
汚い部分は夜の闇に隠されて、どこの街もこんな風に綺麗に見える物なのかもしれない。
高い場所に行けば行くほど、細かい物は見えなくなって、全体としては綺麗な部類に入ってしまうのかもしれない。
そうだとしたら、あたしも先生にそう映ってるんだろうか。
先生っていう大人の高い位置から見れば、細かい部分はどうでもよくなって綺麗に見えちゃったりしてるんだろうか。
だから先生はこんなに色気も何もないあたしを――。
「
唐突な先生のその言葉に、ハッとして窓から正面に目を向けると、先生はあたしをジッと見つめてた。
ノンフレームの眼鏡の奥にある優しい瞳が、あたしだけを映して、他の何も映さない。
ユラユラと、空調で揺れるキャンドルの火が、まるで先生の瞳が潤んでるように見せる。
「聞かない事には落ち着かなくて」
「へ?」
「なので先に返事を聞かせて欲しいんです」
「返事……?」
「はい。僕が言った事へのです」
「あ……」
「もう一度言った方がいいですか?」
「え?」
「結婚を前提に僕とお付き合いして頂けませんか?」
「えっと」
「正直、少し期待してます」
「は?」
「今日は僕の為にその格好をしてくれたんですよね?」
あたしの服装を見つめて、優しい笑みを浮かべた先生は、本当に嬉しそうな顔してる。
その表情は、当たり前に服装の事を見抜かれた恥ずかしさから「そんなんじゃない」って言いそうになった言葉を止めた。
「あ、あたし――」
「はい」
「あたし……」
「はい」
「……何であたし?」
「はい?」
「何であたしにそんな事言うの?」
「何で……とは?」
「だ、だっておかしくない!? 七年振りに会って急にそんな事言うって」
「そうですか?」
「そうだよ。何であたしなのって不思議で仕方ないんだけど」
「何で……」
「うん。何で? そこ答えてくれなきゃあたしも何にも答えらんない」
「そうですか」
「うん」
「でも、それは困りました」
「……困る?」
「はい。何でと聞かれても、僕には好きだからという理由以外答えようがありません」
「は!?」
「それ以外にないんです」
「は!?」
「僕は吉岡さんが好きなんです」
は!?――って繰り返しながら、顔が赤くなってるのが自分でも分かった。
男に好きだって言われた事は決して初めてじゃないし、今まで何人かと付き合った事もあるから全く慣れてないって訳でもない。
だけど先生のそれは、今まで経験した「好き」って言葉や、それなりに甘い言葉とは違った。
どこが違うのか聞かれても明白な答えは出せないんだけど、何かが違う。
今までのとは、受け取る感じが違う。
真っ直ぐ向けられる先生の眼差しに、物凄く恥ずかしい気持ちになる。
明るい所で全裸を見られてるみたいな、恥ずかしさと照れ臭さが混じったような気持ちになる。
今までの経験も体験も全部吹っ飛ばして、それこそ
「失礼致します」
金魚みたいに口をパクパクさせるだけで何も言えないあたしを、助けるかのようにそのタイミングでギャルソンがワインを運んできた。
お陰で先生の気は逸れて、あたしからその熱い視線も逸らされて、ワイングラスに
「乾杯もまだでしたね」
ギャルソンが去ると先生はそう言ってワイングラスを掲げ、あたしに向かって傾ける。
倣うようにあたしもワイングラスを手に取ったけど、その手が微かに震えてたから恥ずかしかった。
「それで、返事は頂けますか?」
ひと口ワインを飲んだ先生はそう言ってあたしに視線を戻す。
ユラユラと揺れるキャンドルの火がまた先生の瞳を潤んで見せた。
「あ、あたし、仕事大事だし」
「はい」
「昨日も言ったけど、今仕事に夢中で」
「はい」
「それに社員も少ないから休日返上で働く事多いし」
「はい」
「デ、デートする時間とかなかったりするし」
「はい」
「だから」
「だから?」
「つまり」
「つまり?」
「あ、あたし」
「はい」
「あたし……」
「はい」
「……あたしでよかったら」
あたしのその言葉に、先生は「ありがとうございます」って柔らかく笑った。
照れ臭さからグイッと飲んだ赤ワインの渋みが口の中に広がった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。