金曜日 17:10


「おお! うまこにも衣装!」


「社長さん。それを言うなら『馬子まごにも衣装』ですよ」


 たまにではあるものの、年月を経てすっかり社長や社員と顔なじみになるくらいはうちの会社に来た事がある一葉が、メイク道具一式と服を持ってやって来たのは、三十分ほど前の事。



「流石、一葉ちゃん! 突っ込みどころを分かってるな!」


「社長さんは今日もとっても面白いですね」


 おじ様にしか興味がない一葉には珍しく、うちの社長とはそれなりにお愛想抜きで世間話が出来る。



 でも残念ながらその理由が「男に見えないから」だって事を、社長が分かってるのかは甚だ疑問で。



「おい、うまこ。一葉ちゃんにお茶を淹れて差し上げなさい」


 社長は一葉が来るとご機嫌が麗しくなる。



 ご機嫌麗しい社長は。



「うまこじゃないです。吉岡です」


「吉岡うまこ」


「吉岡うまこじゃないです。吉岡朱莉です」


「吉岡うまこ朱莉」


「そんなミドルネームはないです。ジャパニーズです」


「いいからうまこ、濃いお茶を淹れて差し上げろ」


 実に面倒臭い。



 多分、この人が今あたしの周りにいる大人の男の中で最も子供な大人だと思う。



 女の中では確実にくるみがそうだったりする。



 近しい存在の中に、手の付ようがないほどの子供な大人がいるからこそ、瀬能先生が物凄く大人に思えたりするのかもしれない。



「あっ、朱莉ちゃん、お茶淹れなくていいよ。わたし、もう戻らなきゃいけないし」


 近しい存在の中じゃ、あたしと同じくらい大人の一葉の言葉に、あからさまにがっかりした社長を尻目に、あたしは「今日はありがとね」と言って、身に纏ってる服を指差した。



 グレーのワイドパンツに、あたしが散々嫌だと主張した、胸元がちょっとだけヒラヒラしてるキャミソール。



 それを隠すようにして羽織るカーディガンはあたしじゃチョイスしそうにない白。



 流石の一葉は履物まで用意してくれて、足元には履き慣れてないあたしでも転んだりしないように踵がぺったりしたミュールがある。



 今のあたしは、普段からは想像も出来ない格好してる。



 社長が「馬子にも衣装」って言う気持ちも分からなくもない。



「服、明日返すから」


「あっ、そうそう。くるみちゃんからメッセージ来た?」


「来てない」


「じゃあ、夜にでも来るんじゃないかな?」


「飲みに行こうって?」


「うん。明日ね」


「また彼氏が出張?」


「ううん。休日出勤で帰りが遅いみたい」


 クスクス笑ってそう言った一葉は、「服はその時でいいよ」って言いながら事務所のドアを開ける。



 そして、「じゃあ、頑張ってね」って、本当の目的を知ってか知らずか、笑顔で手を振って事務所を出ていく。



 それを見送ってたあたしは、ドアがバタンと閉まった直後。



「んで、一葉ちゃんに仕事の為だって嘘吐いてまで服借りるデートの相手は誰だ?」


 聞こえてきた、意地の悪い笑いを含む社長の声に振り返った。



 振り返るとそこには、案の定意地の悪い笑みを顔いっぱいに作る社長がいる。



 詳細な事情を説明しないでとりあえず一葉に対して「仕事で服が必要だ」って口裏を合わせてもらった社長に、すっ呆けたところで誤魔化せないってのはその表情を見れば分かる。



 けど。



「……何がですか?」


 一応すっ呆けてみたら、社長は更に意地の悪い笑みを浮かべた。



「化粧が薄いなあ。一葉ちゃんにもうちょっと濃くしてもらえばよかったんじゃねえか?」


「は?」


「目の下の隈が隠しきれてねえぞ」


「…………」


「隈作るくらい睡眠不足か。それくらいデートについて悩んだか?」


「…………」


「行くか、行かないか」


「…………」


「ああ、もしかして今も悩んでんのか?」


「…………」


「うまこがそれくらい悩む相手って事は――」


「…………」


「――不倫か」


「はあ!?」


「あれ? 違う? じゃあ、ヤバい仕事してる奴か?」


「何でそうなるんですか!?」


「うまこの性格からして、悩むって事は道理に反してるからだろ? って事は不倫か犯罪者かそれとも……」


「どれも違います」


「なら、何悩んでんだ?」


「…………」


「むさ苦しい職場で働いてて出会いなんかねえんだから、もっと喜んでデート行けよ」


 職場の中で一番むさ苦しい社長は、そう言って煙草に火を点けるとパソコンの画面に視線を向ける。



 だから、しつこく追及されなくてよかったって思いながら自分の席に座ろうとした矢先。



「きっちりセックスしてもらってこいよ?」


 社長はこっちも見ないで、また意地の悪い笑いを含んだ声を出した。



「ヤりません」


「ヤれっての」


「そんなの社長に言われる事じゃないです」


「バカタレ。大人の恋愛なんつーのはヤって始まるもんだろうが」


「はあ?」


「セックスするまでなんてのはお遊びみたいなもんだろ。それで満足したりトキメいたり出来んのは学生のうちだけだっての」


「…………」


「手っ取り早く相手を分かりたいと思うなら、セックスするしかねえんだって。恋愛っつーのはセックスしてから始まるもんだ。ヤりゃ相手が何考えてっかすぐに分かる」


「…………」


「お堅いのがいい女だと思われんのはハタチまで。ハタチ超えてお堅い女はモテねえぞ」


「…………」


「柔軟性が大事よ、柔軟性が」


「…………」


「ヤる事に抵抗感じる歳でもねえだろ。チャチャッとヤってこい」


「…………」


「それにうまこは色気がねえ。たまに女って事忘れるぞ? ヤりゃ色気も出んだから、今日はきっちり――」


「セクハラで訴える」


「嘘お!?」


 ベラベラと、くるみ並の持論を説いてた社長は、おどけたようにそう言っただけでもう何も言わなかった。



――うまこの性格からして、悩むって事は。



 仕事用ソフトを立ち上げて、社長の言葉を反芻するあたしの頭の中には、その答えがちゃんとある。



 道理に反してるから悩む。



 それは合ってる。



 ただ、その道理は「世の中」のじゃなく「あたし」のだったりする。



 よく分かんないけど、何かがしっくりこない。



 恋愛は突然始まるもんなんだって思うくらいに恋愛をした事はあるけど、これは余りにも突然すぎる気がする。



 行くか、行かないか。



 昨日に引き続き悩んでしまうあたしは、それでも最終的には行くんだろうと、心のどこかで分かってる。

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