水曜日 18:30


「これマジなんだってば! 何かの本に書いてたし! 朱莉、あんたこのまま死んだら妖精になるよ! 妖精って柄じゃないでしょうに! あんたが妖精って想像しただけでキモいんだけど!? だからさっさと処女捨てなよ!」


 居酒屋の一角で向かい側に座ってる友達のくるみは、まだ注文した品物の全部が来てないうちから、バカな事をバカみたいな勢いであたしに向かってそう宣う。



 行き付けの――って程でもないけど、よく行くこの居酒屋は、平日って事もあってか客足は少ない。



 その客の少ない店内の六人掛けのテーブル席を三人で陣取るあたしたちは、もう八年だか九年だかの付き合いになるから、何を言うにしても遠慮も気遣いもない。



 だけどそれはお互い様で。



「マジも何も『妖精』っつってる時点でファンタジーでしょ。バカじゃないの」


 生ビールのジョッキを片手に、高校時代から変わらない色惚けバカなくるみにそう言い返してやると、くるみは鼻に皺を作って口をアヒルみたいに突き出して、憎たらしい顔をする。



 でもこれも――あたしにはバカにしてるとしか思えない表情も――男から見れば「可愛い仕草」に入るのかもしれない。



 あたしにはそういうの全く分かんないけど、高校時代からくるみはよくモテてて、今の彼氏も同じ高校の先輩だったりする。



 正直、くるみの何がそんなにいいのか分かんない。



 どうしてそんなにモテるのか分かんない。



 もちろんくるみがダメって訳じゃない。



 確かにくるみは顔が可愛い方だと思う。



 あたしが分かんないのは、こんなバカな言動ばかりしてるのに、それを「可愛い」って言う人間の心理。



 でも昔から、あたし以外の人はくるみの言動を可愛いって言う。



 男だけに限らず、女も言う。



 どういう訳か「処女のまま死んだら妖精になる」なんてバカな事を言うストーカー気質のくるみを可愛いって言う。



 その心理を理解出来ないあたしは、どうやら何かに対して「可愛い」って思う感情を持たずに生まれてきたらしい。



 服を買いに行って「コレ、可愛い」って思う事もないし、ましてやヌイグルミを見て「可愛い」って思う事もない。



 小動物にしたって「可愛い」って思った事は一度もなくて、周りが「可愛い」って言う子犬を見ても、「子犬だな」としか思わない。



 昔それをくるみに言ってみたら、「だからあんた処女なんじゃん」って言われたけど、逆に「だから何?」って思ったのは確か。



 そうなると、もしかしたらあたしは女としての何かが欠落してるのかもしれない。



 二十五歳で処女。



 その事実が気にならないのはあたしだけで、世間じゃ男も女も気になるどころか引くらしい。



「くるみちゃんは朱莉ちゃんの処女がとっても気になるんだね」


 ニコニコと、人畜無害な笑顔で話に入ってきた、あたしの隣に座ってる一葉は、蓄積された疲れと不規則な生活にプラスして、最近長い出張に行ってた所為で肌が酷く荒れてるらしく、それをいつもより濃い化粧で誤魔化してる。



 あたしには、こういうのもよく分かんない。



 肌が荒れてるなら化粧しなきゃいいのにって思うけど、一葉に言わせればそうじゃないらしい。



 化粧が面倒だからしないあたしには一葉の考えが分かんないけど、一葉にはあたしの考えの方が分かんないらしく、「お肌のお手入れは大切だよ!」って、しょっちゅう力説する。



 そんな一葉は、中学の時から化粧をしてたらしい。



「そりゃ気になるっての! 二十五で処女だよ!? いつ捨てるんだって話じゃん!?」


 あたしを放って進められるあたしの話は。



「くるみちゃんは朱莉ちゃんが心配なんだよね」


「そう! そうなの! あたし、朱莉が妖精になるんじゃないかって心配してんの!」


 このふたりにかかると、バカな方向に進んでいく。



 これを呆れて放置してた日には。



「でも朱莉ちゃんが妖精になったら、それはそれでいいと思うよ? とっても楽しそう」


「ダメだって! ピーターパンに出てくる妖精みたいになったとしてみ!? あの服、朱莉に似合わないでしょ!」


 バカに拍車が掛かる。



 放っておいたら何時間でもこのバカな話で盛り上がりそうなふたりに、あたしは大きな溜息を吐いて、



「ところでさ。瀬能先生って覚えてる?」


 妖精の話よりもしたい議題を口にしながら、煙草を取り出して火を点けた。



「瀬能先生って、?」


 一葉が目敏めざとを思い出した事はすぐに分かった。



 あたしに向けた目がキラリと光った気がした。



 瀬能先生が初恋の相手だって事は誰にも言ってないけど、一葉はあの当時から薄々それに気付いてた。



 あの当時に何度か瀬能先生を好きなのかと聞かれた事がある。



 だけどあたしはその時、自分にそんな乙女な部分があるって知られることが恥ずかしくて否定し続けてた。



 一葉は多分、それを思い出したんだと思う。



 そして同時に、どうしてこのタイミングで瀬能先生の名前が出てきたのか不思議に思って、何かあったんだって興味が湧いたんだと思う。



――けど。



「え? 瀬能先生って誰? 誰の先生? どこの先生? 『あの』って何?」


 くるみには、全く記憶がないらしい。



「くるみちゃん、覚えてない? あたしたちが高校三年の時に新任で来た数学の先生」


 あたしよりも先に説明をし始めた一葉は、早くこの話を先に進めたいのかもしれない。



「え? 男? 女?」


 だけどくるみは男か女かすら分からないくらいに記憶がなくて。



「男の先生! 眼鏡掛けててね? こう、おっとりした感じの先生だよ!」


 その記憶力のなさに、一葉は少し焦ったようだった。



「ええ? 眼鏡? もっと分かりやすい特徴ないの?」


「くるみちゃん! 眼鏡って結構分かりやすい特徴だと思うよ!?」


「顔はどんな風だった? 格好良かった? 年は? 若い?」


「瀬能先生は格好良いっていうよりも、可愛いって感じじゃないかなあ? 年も若かったよ」


「可愛い!? 男なのに可愛いの!? 可愛いってどんな風に!?」


「どんな風って言われても……」


「全然記憶にないんだけど!?」


「くるみちゃんのタイプではない感じだったかな」


「なら、記憶になくて当然なんだけど!?」


「でも――」


「あんたが『ベビーフェイス』って呼んでた先生よ」


 一葉が「でも」のあとに、「朱莉ちゃんの好きだった人」なんて言い出すんじゃないかと思って、話に割って入ったあたしの言葉に、くるみは「んー」ってうなって考えるように眉間に皺を寄せる。



 そしてその表情を数秒してからパッと閃いたように目を見開くと。



「分かった! やたらボーッとしてた先生だ!?」


 聞き様によっては悪口に聞こえなくもない言葉を口にした。



 でも確かにイメージとしては合ってる。



 実際ボーッとしてた訳じゃないけど、雰囲気が穏やかだからそんな印象を受ける。



 そういうところに、何事にも動じないような「大人」を垣間見た気がして、だからあたしは瀬能先生の雰囲気が好きだった。



 たまたまそういう大人の男が周りにいなかったからだと思う。



 あたしの周りにいた大人の男は体育会系ばかりで、ガサツでやたらと声が大きくて、無骨な人ばかりだった。



 だから、小さくても通る声とか、黒板に書かれる丁寧な字とか、シワのないワイシャツとかに落ち着いた大人の男を感じた。



 今にして思えば、「そんな事に?」って思う事に、あの頃のあたしは胸をトキメかせてた。



 でもあの頃の感情が、一番素直な感情だったと思う。



「で? その先生がどうしたの?」


 瀬能先生を思い出して、何の話なのか少しは興味を持ったらしいくるみは、あたしの枝豆に手を伸ばしながら聞いてくる。



 隣にいる一葉も、早く続きが聞きたいって感じで、ジッとあたしを見てくるから、逆に言い難くなった。



 どう言えばいいのか分かんない。



 自分でも理解出来てない事を言ったところで、このふたりが理解出来る訳がない。



 偶然会って、ちょっと話して、そしたら結婚前提に付き合ってって言われたって、そんなおかしな話、笑われるに決まってる。



 少なくてもくるみは笑う。



 指差して笑いやがるに決まってる。



 そう思うと、こんなバカげた話をふたりに聞かせる事もないかっていう逃げの気持ちが勝ってしまった。



 だから。



「昨日、偶然スーパーで会ったってだけ。あんたたちも覚えてるかなって思って聞いただけよ」


 それだけ言って煙草を灰皿に押し当てた。



 本当にバカげてる。



 何を真剣に考えてたんだろ。



 こんなの考えるまでもない。



 時間の無駄だ。



 そもそも「考えといて」って言われたけど、連絡先を聞かれた訳でもないんだから、もう先生に会う機会なんてない。



 また偶然に会う事があったとしても、いつになるか分かんない。



 いつになるか――。




 なんて考えは意外にも、恐ろしく早くに覆された。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る