日曜日 18:50


「え? 帰えらねえの?」


 頼まれた資料を社長に渡したあと、自分のデスクに座ったあたしに社長は困惑の声を出した。



 昨日は帰宅したんだか、それとも今朝一旦帰宅したんだかは分からないけど、社長は髭を剃って小奇麗にして、異臭も漂わせてない。



 そうやってちゃんとしてればイイ男の部類に入るのに、社長はそういうのには興味がないのか、



「なあ? 帰らなくていいのか?」


「鼻ほじりながら話すのやめて下さい」


 繕う事をしない。



 だからこそ邪念を抱く事なく、こうして仕事に対してだけの憧れを抱けるんだけど。



「何だ? 振られたのか?」


 もうちょっと気遣いって言葉を覚えてくれてもいいとは思う。



 子供な大人だから仕方ないとは思うけど、



「そうなんだな!? 振られたんだな!? ひとりで家にいたら泣いちゃうから、ここにいようって魂胆なんだな!?」


 もうちょっと優しさって言葉を知った方がいいと思う。



「あたしの事はどうでもいいから、仕事して下さい」


「ええ!?」


「それと、簡単なレイアウトなら出来るんで、こっちに回して下さい」


「ええ!?」


「暫く、会話はなしで」


「ええ!?」


「集中しないと仕事出来ないでしょう?」


「ええ!?」


「喋ったら、珈琲淹れてあげませんよ」


「ええ!?」


「はい、スタート」


 ええ!?――って声は出さなかったものの、社長の顔は完全にそう言ってた。



 だけど面倒臭がり屋の社長は珈琲を淹れてもらう為に本当に黙る。



 事務所にあるのはカチカチってキーボードを叩く音と、資料の本をめくる音。



 近くにいるのにパソコンに送られてくる社長からのメールには、簡単なレイアウトの指示と、カラーの指定。



 静かな家でひとりでいるのは嫌だけど、他の誰かがいる空間で静かなのは逆に気が休まる。



 仕事に集中してれば余計な事は考えずに済むし。



 それを知ってか知らずか社長から送られてくる指示は、あたしにとっては手間がかかる部類で、お陰で否応なしに仕事に集中出来た。



――けど。



【振られたのか!? マジで振られたのか!?】


 そんな時間は長くは続かない。



 一時間も経つと社長はだんまりに飽きたらしく、余計なメールを送ってくる。



 しかもそれを無視してたら、今度は【至急】ってタイトルを付けて、同じメールが送られてきた。



「社長! 仕事して下さいよ!」


「おっ! 喋った! そっちが先に喋ったんだからな!? 珈琲は淹れろよ!?」


 しつこさに業を煮やして社長に文句を言ったら、鬼の首を取ったかのような得意げな顔で返された。



「じゃあ、珈琲淹れるから仕事に集中して下さい!」


「俺、今うまこのレイアウト待ちだもん」


「なら余計に静かにしてて下さい! 喋りながら出来るほど、あたし器用じゃないです!」


「だって暇なんだもん」


「その言い方、物凄くイラつく!」


「イラつかせてんだもん」


「はあ!?」


「怒ってると、悲しい気持ちがなくなるだろ?」


 計算なのか天然なのか、心に沁み渡るような言葉をサラッと口にした社長は、ギシリと音を立てて椅子から立ち上がると、徐にあたしに近付き足を止める。



 そして。



「マジで振られたのか?」


 さっきまでとは違う、真剣な声を出した。



「……振られてないです」


「そっか」


「騙されただけです」


「騙された?」


「別にもうどうでもいいんですけど」


「騙されたって何だ? 金か? 金持ってかれたのか?」


「あたしに持っていかれるようなお金があると思います?」


「ないな」


「給料少ないんで」


「ええ!? まさかの嫌み!?」


「嫌みじゃなくて真実です」


「何て意地悪! 慰めてやろうと思ったのに何て言い草!」


「慰めなんていりません」


「騙されたのに?」


「はい」


「騙されたって、結局何されたんだ?」


「妖精になり損ねただけです」


「…………は?」


「妖精」


「妖精?」


「別になりたくもないけど」


「そ、その妖精はよく分かんねえけど、でも落ち込んでんだろ?」


「それもよく分かりません」


「ん?」


「何か、どこに傷付いていいのか分かんないくらいに色々あったから」


「色々ねえ」


「はい。色々」


「話してみるか?」


「はい?」


「その色々ってやつ」


「何でですか?」


「話せばどこに傷付いたか分かるかもしれねえだろ?」


「分かる必要ってあります?」


「分からん事には向き合えないだろ」


「向き合う?」


「向き合わないと先に進めねえ」


「…………」


 社長の言う事に一理あると思ってしまったのは、相当な落ち込みからの気の迷いかもしれない。



 子供な大人の言葉に諭されるなんて普段じゃ絶対にあり得ない。



 だけどこの時ばかりは社長の言葉に従った方がいいような気がした。



 事務所の端に置いてある、三人掛けのボロいソファに並んで座って、あたしが社長に話したのは、一週間前からの出来事。



 くるみや一葉に話すのを躊躇する内容を、社長になら話す事が出来たのは、友達じゃないからかもしれない。



 友達に対して持つプライドは持たなくていい。



 それに社長はあたしの中ではそういうのを掛け離れた存在で、スパイ事件があった時、物凄く落ち込んだ社長を見てるから、同じように弱い部分やダメな部分を見せる事に大した抵抗はなかった。



 相手が全裸ならこっちも全裸になれる。



 最初の方こそ躊躇ったけど、話していく内にその躊躇いは消え失せた。



 堰を切ったように話すあたしの言葉に、社長は「うん」とか「ふーん」って返事しかしなかった。



――けど。



「処女って面倒ですか?」


 話の最後にしたあたしのその質問には、「何で?」って驚いたように返事をした。



「処女だったから、やめておこうって言われたんです」


「え!? お前、処女だったのか!?」


「引かなくていいです。もう処女じゃないから」


「は!?」


「一応、貫通はしました」


「貫通!?」


「貫通」


「すげえ表現だな」


「で、処女って面倒ですか?」


「んー」


「適当に遊ぼうって思った相手が処女だったら、面倒だから手を出すのやめておこうって思います?」


「それは人それぞれだろ。俺なら気にしないかな」


「騙そうと思ってる相手でも?」


「俺、そういうの全然気にしない。ヤれんなら処女でも熟女でも何でもオッケー」


「最低」


「知ってる」


「最悪」


「知ってる」


「クズ」


「それは言いすぎじゃね!?」


 おどけたようにそう言った社長は持ってた煙草に火を点けて、何となくその場の雰囲気を変えようとしてる。



 確かにシモの話をされて、そうしたいって気持ちは分かるけど、あたしはまだこの話の続きをしたい。



 だから。



「あたし、分かんなくなっちゃって」


 そう呟くと、社長は「ん?」って小さく答えた。



「最初は騙す相手が処女だから面倒だと思ったと思ったんですけど、それって確定じゃないし」


「うん」


「社長みたいに処女とか関係ないって人もいるの分かってるから、色々考えちゃって」


「うん?」


「あたしがどこか変なのかもって思うんですよね」


「変?」


「そういうの初めてだったから、あたしが悪いのかも」


「んー」


「あたし、他の人に比べて何か変なのかもしれない」


「…………」


「そう考えたら、怖いなと思って」


「怖い?」


「多分、この先そういうのばっか考えて、次の機会が十年後とかになるかも」


「そりゃ怖えな」


「でしょ? それってヤバいでしょ。十年後だと三十五ですよ? 今より変になってそう」


「なら、俺とヤるか?」


「は?」


「変なら変って言ってやるし」


「はあ!?」


「それで変じゃなかったらお前が悪い訳じゃないし」


「はああ!?」


「俺、結構テクニシャンだぞ?」


「はあああ!?」


「時にはそういう慰めも必要だったりするし」


「慰め……?」


「心の傷を体で癒すって感じだな。他人の肌の温もりって結構安心したりする」


「…………」


「体の相性がよかったら、続けていけばいいし。そのまま続けてりゃ、いつかは結婚するかもしれねえぞ」


 煙草の煙を吐き出しながらそう言った社長は、持ってた煙草を床に落とすと靴で踏み付け火種を消す。



「こういう始まりも、ありって言や、ありだろ」


 独り言のように呟きながら近付いてくる社長の顔を、あたしはただぼんやりと眺めてた。





 その日、瀬能先生から連絡がくる事はなかった。

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