日曜日 16:25
――畜生。
頼まれた資料は、ここぞとばかりに重い物ばかりだった。
絶対に一葉相手になら頼みそうにない重量のある資料は、次の資料を探す為に本屋の中を持って歩くのも嫌になるくらいで、元々以上にやさぐれた気分で医学書の棚に向かった。
お風呂に入ったお陰で二日酔いは随分楽になったけど、気分が晴れるって事はない。
むしろ頭がはっきりしてきた所為で余計に色々考えちゃって、気分は最悪。
それにプラスしての資料の重量だから、本当に気分は最悪で最低だった。
それでも、他にも考える事はあるっていうのは多少なり気が紛れるもので、重い書籍を持ちながら医学書の棚で次の資料の表題をスマホで確認してる間は、先生の事を考えなくて済んだ。
頭の隅に重くて黒い感じの塊があるって感覚はあるけど、それについて深く考える事もない。
見て見ぬふりが――実際は気付いてて気付いてない振りだけど――出来るなら、このまま会社に居座って仕事を手伝うのもいいかもって思ってたくらいだった。
日曜の本屋は人が多い。
特にここの本屋は、日曜になると子供を集めて「絵本を読む会」があるからやけに賑わってる。
店内の隅にセットされた「絵本を読む会」の場所には、今日最後の朗読が始まったらしく、「桃太郎さん、桃太郎さん」と、聞き取りやすい朗読者の声が聞こえてくる。
数分前まで大騒ぎしてた子供たちの声も、絵本に夢中なのかその騒々しさは半減した。
だけどその所為で、聞きたくなかったものが聞こえてきた。
子供たちがまだ騒いでいてくれたら聞こえてくる事はなかったかもしれないその「単語」。
こういう時だからこそやけに耳につく単語は、一週間前なら聞き流してしまってたと思う。
「先生」
背の高い本棚の向こう側から、可愛らしい女の声が聞こえてきた。
でも多分それだけならよかった。
先生って単語だけなら気付きはしても流してたと思う。
だけどそう出来なかったのは、直後に聞こえてきた「会話」の所為で。
「本、あった?」
「ちょっと待って下さいね」
可愛い声の質問に答えた男のその声が、明らかに瀬能先生の声だったからビクリとした。
ビクリとしたのと同時に息を呑んだ。
持ってた資料を落とさなかったのが奇跡に近い。
思考回路は完全に停止して、今聞こえてきた会話を頭の中で反芻する。
高速で、何度も何度も反芻してから、体が勝手に動き出す。
少々の足音なんて聞こえる訳はないのに、あたしは何故か忍び足だった。
足音を立てずに本棚の一番奥まで回って、声が聞こえてきた向こう側を覗き込んだ。
そんな事しない方がいいって思ってる自分がいるのに、思考回路が麻痺したあたしは本能の
「まだ? どれでもいいじゃん」
「そういう訳にはいきません」
本当に、そんな事しなきゃよかったと後悔する羽目になった。
少なからずあった「もしかしたら」って逃げの考えは、確実なものに変わった。
そこには、目を細めて見たって、見開いて見たって、どんな見方をしたって、見間違う事なく瀬能先生いる。
そしてその瀬能先生の隣には、あたしより少し若い女の人がいる。
本棚を眺める先生の腕を引っ張りながら、「早く早く」と急かすその女の人は、あたしとは全然タイプの違う可愛い人。
ヒラヒラの服なんか着ちゃって、膝丈のスカートなんか穿いちゃって、踵の高いミュールなんか履いちゃってる。
どっちかと言えばくるみタイプのその女の人は、甘えるように先生を見上げて「早く早く」と繰り返す。
咄嗟に、さっきまでいた本棚の列に隠れたあたしは、この世が酷く酸素不足状態にある気がした。
妙に息苦しい。
眩暈がする。
思考回路が回復しない。
さっきまで感じてた資料の重さなんて吹き飛んで、片手で資料を持ったあたしは空いた逆の手でポケットからスマホを取り出した。
自分が何をしようとしてるのか分かってるのに、その自分の行動を止められない。
やめておいた方がいいって警告を出すもうひとりの自分は、誰かの為じゃなく自分の為にそう言ってる。
後悔する。
やめた方がいい。
これ以上傷付く意味はない。
そう思ってながらも取り出したスマホのアドレス帳を開いたあたしは、まだどこか期待してたのかもしれない。
こんな状況で何を期待してんのか分かんないけど、一発逆転を期待してた。
開いたアドレスの瀬能先生の番号を押すと、数秒後にピリリと本棚の向こう側から音が聞こえる。
その音を聞きながら自分のスマホを耳に押し当てたあたしは、先生が電話に出たら何を言おうかと考えてた。
「今、何してんの?」
「どこにいる?」
研修だって嘘吐かれてるくせに。
その時点で完全にアウトなのに。
逆転を期待するあたしが考えるのは、返事が怖い言葉。
だって、「まだ研修中です」とか「今、忙しいです」とか言われたら「あっ、そう」としか答えられないのに、この状況で嘘を吐くか確認しようとしてる。
でもそれは無駄だった。
そんな事するまでもなかった。
耳に押し当ててたスマホから聞こえてくる呼び出し音に交じり、
「先生、スマホ鳴ってるよ」
そう言った女の人の声の数秒後に、プツリと呼び出し音が途切れた。
だけどスマホから、先生の声が聞こえてくる事はない。
ましてや保留のアナウンスでもない。
ブツリと完全に着信を切られて、あたしのスマホはいつものホーム画面に戻ってた。
取ってももらえなかったスマホを見つめて呆然とするあたしに。
「切っていいの? 誰だったの?」
「誰でもないですよ。気にしなくていいです」
聞こえてくる言葉は残酷。
「えー? 怪しい」
「怪しくないです」
もうそれ以上は聞きたくないって思ってるのに、耳が勝手にその会話を拾う。
「本当にィ?」
「本当に」
もう沢山だって思うのに、会話は止まらない。
――辞めた理由。ヤバい。
思考回路は止まってるのに思い出すくるみの言葉。
――何か、女子生徒に手え出したんだって。
場違いなくらい、「ああ、これが」なんて思ってる自分がいる。
――何でバレたかっていうと、その女子生徒が妊娠したからなんだって!
ああ、この人が。
――結婚したらしいよ。
その相手。
子供は絵本を聞いてるんだか、どこかに預けてきたんだか、ふたりの姿しか見えなかったけど仲睦まじく本なんて買ってる。
研修は嘘。
そりゃそうだ。
結婚してて土日に出掛けるなんて然う然う出来る事じゃない。
ああ、バカみたい。
あたしとした事が、典型的な騙しに遭った。
希望の二割が消え失せる。
目を逸らしたい現実が目の前にある。
「まあいいや。それより先生、早く選んで、早く行こ? あたし喉乾いちゃった」
「じゃあ、これで」
「先生って本当、真面目だよね。一冊選ぶのに時間掛かり過ぎ」
「真面目じゃなく、慎重なんです」
「でも不真面目な先生って想像しにくいんだけど」
「というか、その『先生』というのはやめて下さい。僕はもう君の先生じゃない」
「あっ、そっか。ごめん。癖でね」
クスクスと楽しげに笑う女の人の声が遠ざかっていく。
だからふたりがその場を離れた事は分かった。
だけどあたしは動けなかった。
スマホを握り締めたままその場に立ち尽くしたままだった。
本当に自分の性格を残念だと思う。
くるみだったらあの場に飛び出して行って「その女、誰!?」って喚くんだろうなとか、一葉だったら素知らぬ顔してふたりの後ろを通り過ぎるんだろうなとか、あたしがやってやりたかった事を出来るふたりの性格を羨ましく思う。
どうしてあたしはここにいるんだろう。
ただスマホを握り締めたまま。
どうしてあたしは動けないんだろう。
ただスマホを握り締めたまま。
頭に浮かぶ言葉と言えば皮肉めいた言葉のみ。
――畜生、妖精になり損ねた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。