土曜日 18:20


「え? 何?」


 居酒屋の席に着いて間もなく。



 一時間くらい遅れるっていう一葉を置いて、先に注文した生ビールを飲みながら、「ああ、そういえば」って言葉から始まった、くるみの話に耳を疑った。



「だからさ? ほら、この間、朱莉が言ってたじゃん? 瀬能先生に会ったとか何とかって。それを何気に彼に話したら、彼が知ってたんだよね、瀬能先生の事」


「知ってたって、瀬能先生はあんたの彼氏が卒業してから赴任して来たんじゃん。何で知ってんのよ?」


「ほら、彼って野球部だったじゃん? だから、縦の繋がりっての? 卒業してからも後輩と会ったりしてたみたいで。あっ、今でもたまに会ったりしてるみたい。今度、元野球部の飲み会あるから一緒に行こうって言われちゃった」


「あんたの飲み会はどうでもいいし! それで、それってどういう事!?」


「どういう事も何も、言ってる通りだってば! 瀬能先生、先生辞めたんだって」


「は!? 何でよ!? 嘘でしょ!? あんた何言ってんの!?」


「嘘じゃないしね! 彼に聞いたんだし!」


「聞いたって、でも――」


「でももヘチマもないし! つーか、何で朱莉がそんなにムキになんのよ!?」


「ム、ムキになってる訳じゃないけど、あたしそんな事、先生から聞いてないから――」


「そりゃ言わないでしょ。スーパーで会って話しただけなんでしょ? わざわざ先生が近況報告しないっての」


「そ、そうかもしれないけど――」


「それにさ? 言える内容じゃないから」


「は!?」


「辞めた理由。ヤバい」


「ヤバい!?」


「うん。ヤバい」


「ヤバいって何よ!? どうヤバいの!?」


「何か、女子生徒に手え出したんだって」


「はあ!?」


「あたしたちが卒業した二年後くらいの話らしいんだけど。あの先生、女子生徒と付き合ってて、それが学校にバレて自分から辞めたんだって」


「はああ!?」


「それがさ? 何でバレたかっていうと、その女子生徒が妊娠したからなんだって! ヤバくない!? それってめちゃくちゃヤバくない!?」


「…………」


「教師としてどうよって話でしょ!? 先生のくせに何やってんのって話でしょ!? つか、先生と生徒が付き合うなんてドラマとかの中だけの話だと思ってたけど、マジにあるんだって感じ!」


「…………」


「ね!? ヤバいでしょ!? そりゃベラベラ喋れないって話じゃん!?」


「……それって、本当の話?」


「嘘吐いてどうすんの! 彼から聞いた話だってば!」


「じゃあ、そのあとどうなったの? 付き合ってた子、妊娠したんでしょ? どうなったの?」


「結婚したらしいよ」


「結婚した!?」


「そうそう。先生もそういう面ではちゃんと責任取ったんじゃない? 当然って言えば当然だよね」


「…………」


 絶句って言葉がぴったりだった。



 頭の中が真っ白で、何にも浮かんでこなかった。



 これがくるみだけが言ってる事なら全く信じなかったかもしれない。



 適当な事言ってるだけだって思ったかもしれない。



 だけど情報源が強すぎる。



 くるみの彼氏は適当な事を言ったりしない。



 特にこういう事に関しては、面白おかしく話を膨らませるタイプでもないし、くるみが言った通り、本当に縦の繋がりがある。



 だから、八割信じた。



 残りの二割は希望だった。



 それが嘘であって欲しいって希望しかなくて、嘘だって確信はゼロだった。



「朱莉? どうしたの?」


 黙り込んだあたしの顔を覗き込むくるみに、全てを言いたい衝動を必死に抑え込んだ。



 まだ確定じゃないって、まだ希望は二割あるって、自分に言い聞かせてたのは、プライドの所為だと思う。



 言えない。



 言いたくない。



 いくら友達だからって、この件はまだ言いたくない。



 いつかは全てを話すにしても、今はまだ「その時」じゃない。



 せめて十割確定してから。



 せめてそれから一ヶ月くらい経ってから。



 せめて今より気持ちを整理出来たら。



 せめてもう一度先生に会ってから。



 沢山の「せめて」っていう言い訳を心の中で繰り返して、



「そんな風に見えなかったから、びっくりしただけ」


 何とか笑ったつもりだったけど、ちゃんと笑えてたかは定かじゃない。



 多分、くるみはあたしの異変に気が付いた。



 あたしがくるみの異変にすぐ気付くように、くるみもあたしの異変に気が付いた。



 そしてそれが今の話に関係ある事だってのは、どれだけバカでも分かるはず。



 だけどくるみはバカじゃないから。



「それよりさ? あたし、彼と同棲したいんだけど、どう切り出せばいいと思う?」


 あたしが触れて欲しくないって事まで気付いて、話を逸らしてくれる。



 気を遣ってくれたくるみの言葉に、曖昧な笑いしか浮かべる事が出来なかった。



 それでもくるみは彼との同棲について熱く語ってた。



 あたしの反応が薄かろうと、分かりやすい生返事を口にしようと、くるみはその話をやめる事なく語り続けた。



 一時間半後に来た一葉も、すぐにあたしの異変に気付いた。



 そして、あたしの異変に気付きながらも普通に話をするくるみの気遣いにもすぐに気付いた。



 遅れてきたのに何も言わずとも全てを察して。



「くるみちゃんの話ってとってもファンタジックだから好き」


 普段通りに振舞ってくれる事を有り難いと思った。



 友達に対して、普段は感謝したりしない。



 いて当たり前の存在だと思ってるから感謝したりしない。



 だけどこういう時は有り難いと思う。



 有り難い気遣いを感じるくるみと一葉の会話を、まるでBGMのように聞き流しながら思うのは「だから」かって事。



 色んな「だから」が多すぎる。



 納得出来る事が多すぎる。



 くるみから聞いた先生の話は、納得せざるを得ない事だらけ。



 それでもあたしは心のどこかでまた先生を信じてる気がする。



 でもそれは、「信じてる」っていうよりは、「信じたい」って願望の気がする。

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