木曜日 20:35
「本当にここでよかったんですか?」
真向かいに座った瀬能先生は、騒然とした食堂の中を見回しそう言って、店のおばちゃんが入れてくれた薄いお茶をひと口飲んだ。
「見た目で判断しないで。ここ、美味しいんだから」
駅近くの裏通りにある古びた食堂は、常連客しかいない。
入口に「
斯く言うあたしも自分からこの店に入った訳じゃなく、社長に連れてこられたのがきっかけだった。
「いえ、決して味がどうこうという意味では……」
そう言って先生が再び見回す店内は外観同様超レトロで、壁に貼られてるおしながきの紙は日焼けして茶色くなってる。
テーブルも一応拭いてはあるものの、何の油か分かんないものでベタベタしてて、椅子はちょっと体勢を変えただけでギィギィ鳴る。
――それでも。
「ああいう店よりこういう店の方が好きなの」
ああいう店より全然いい。
無理矢理八時に待ち合わせを取り付けた先生が、悩みに悩んだ末に待ち合わせ時間から五分遅れて駅に行ったあたしを連れて行こうとしたのは、ちょっと高級なイタリアンレストランだった。
駅前のビルにそういう店があるっていうのだけは知ってたけど、行った事もないその店に行ってみたいと思った事はない。
無理矢理彼女に連れていかされた同僚のひとりが、「ありゃ法外な値段だ」って愚痴ってたのを聞いて、死ぬまで行く事はないだろうって思った。
だから、そんな所に誘われて、ホイホイついてはいけない。
高い店で食事が出来るっていう甘い誘惑に釣られないのも、大人になった証拠かもしれない。
「ああいう店は嫌いですか?」
「慣れない所で食べても味とか分かんないだろうし、イタリアンなんて食べ慣れない物食べたらお腹壊しそう」
「なるほど」
「ってか、あの店高いらしいよ? 教員って給料高くないんでしょ? あたしも人の事言えた義理じゃないけど。無理してあんな店行かなくていいじゃん」
「そんな気遣いしなくても……」
「しかもあたし、そういう格好してないんだけど」
「格好?」
「ああいう店って服装とか気になるもんでしょ」
そう言って指差したあたしの格好は、Tシャツとジーパン。
くるみが「おっさん」と呼ぶあたしの足元は、その呼ばれ方を肯定するかのように運動靴。
ミュールなんて一足も持ってないあたしは年中同じ運動靴で、この履き潰した靴も買って二年になる。
「そういうの気になりますか?」
「なるでしょ、普通」
「可愛いですね」
先生はクスクスと笑いながら、お絵かきをした子供に「上手だね」って言うような口調で、あたしが言われ慣れてない言葉をサラッと言ってのける。
だから不覚にも顔が赤くなったのが分かったから、それを悟られないようにポケットから乱雑に煙草を取り出し、
「それに、ああいう店って禁煙だし!」
精一杯照れを隠して火を点けた。
「煙草、吸うんですか?」
「意外だった?」
「そうですね」
そう言った先生は、テーブルの端に積んである灰皿のひとつを手に取って、あたしと先生の間に置く。
そして意外にもポケットから煙草を取り出し、スッとそれを口に咥えた。
「吉岡さんには驚かされっぱなしです」
それはこっちの台詞だよ――って、思う言葉を口にした先生は、あたしよりも全然慣れた感じで煙草の煙を吐き出す。
見た目は悪ぶって煙草を吸ってる学生みたいなのに、慣れたその仕草が長年の喫煙歴を物語ってて、昔から――あの頃から――吸ってたんだろうかと、妙な事が気になった。
覆される品行方正なイメージは、止まる事を知らないらしい。
「お薦めはありますか?」
「へ?」
「このお店のお薦めのメニューです」
側面の壁の上部にある日焼けしたおしながきを仰ぎ、そう言った先生は柔らかい口調で。
「焼肉定食」
そう、色気のない答えを出したあたしに、「では、それにしましょう」と、口調以上に柔らかい笑みを作った。
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