木曜日 15:40


 残暑が厳しすぎて秋の気配を全く感じない気候に、駅前の本屋を出た途端に舌打ちが出た。



 やる気満々の太陽の光が容赦なく照りつけ、ほんの数秒前に感じてた本屋の中の涼しさを一瞬で忘れさせる。



 吹き付ける風は、秋風と呼ばれてるもののはずなのに、生温くて気持ちが悪い。



 その上、頼まれた資料の本がここぞとばかりに重量のある物ばかで、イライラに拍車が掛かる。



「暑いし重い!」


 思わずそう独りごちたあたしは、本屋の前に置いてあった自転車が他の自転車と一緒に将棋倒れに巻き込まれてるのを見て、渾身の溜息を吐いた。



――誰の仕業!?



 今更自転車を倒した犯人が見つけられる訳でもないのに、とっ捕まえて説教してやりたいって思いから、周りをキョロキョロ見渡したあたしは、駅から南へと向けた視線を戻す途中でそれを止めた。



 そして、まさかねって思いながらもその視線をまた南に戻し、そこにいる「まさか」の人物を視界で捉えた。



 一度訪れた偶然は、時として連続でやってくるものらしい。



 そうなるとそれはもう偶然じゃなく――。



「運命でしょうか」


 にっこりと、温厚な笑みを顔に浮かべて、あたしが思った事を口にしながら、瀬能先生が近付いてくる。



 品の良さそうなパステルブルーのポロシャツが太陽の光を受けて輝いて見えて、思わず目を細めてしまったあたしの目の前で、先生は静かに足を止める。



 そして。



「運命……?」


「すぐにまた会えた」


 あたしの聞き返しに、やっぱりあたしが思った通りの事を口にして、さっきまで以上ににっこりと笑った。



 あたしがもっと子供だったらよかったと思う。



 中学生や高校生くらいだったらよかったと思う。



 ううん。これは年齢の問題じゃないかもしれない。



 あたしが、くるみみたいにバカがつくほど素直な性格か、一葉みたいにその場だけの愛想を可愛らしく振りまける性格ならよかった。



 だけど生憎あいにくあたしは大人で、性格も可愛くは出来てない。



 だから。



「こういうのは、運命じゃなくて、たまたまって言うんだよ」


 可愛げのない事を言ってしまう。



 思ってる事をそのまま口に出来ないのは、年齢の所為か性格の所為か。



――多分、その両方。



 だけど、そんなあたしの可愛げのない言葉に、先生はその表情を崩さなかった。



 それこそ、ダメな生徒を優しく見守る教師みたいに、優しい笑顔を持続させたまま、「確かにそうですね。ただの僕の願望でした」って笑う。



 その動じない対応に、「流石、先生だ」と感心してたから、あたしは先生の言った言葉の意味をすぐには理解出来なくて。



「はあ!?」


 ただの僕の願望でした――っていう言葉を頭の中で数回反芻してから、ようやく可愛げが全くない驚きの声が出た。



 でも先生は、あたしのその驚きにも動じなかった。



「今日のお仕事は何時に終わりますか?」


 眉の動きひとつ変えないであたしを見つめ、これまでのやり取りや、これからのやり取りを全部すっ飛ばして、突然そんな質問をしてくる。



 その余りの唐突さに。



「へ? 七時とか七時半とか……?」


 授業中に授業を聞かないで他の事をしていて突然「この問題に答えなさい」って指名された生徒の如く、無防備にその質問への答えを言ってしまった。



「はっきりとは分からないですか?」


「はあ……」


「もっと遅くなるかもしれない?」


「はあ……」


「八時くらいなら確実に大丈夫でしょうか?」


「はあ……」


「では、八時に待ち合わせをしましょう」


「はあ?」


「ああ、順番を間違えました。今日、夕飯を一緒にどうですか?」


「……はあ?」


「ご馳走しますよ」


「はあ?」


「ずっと気になっていたんです」


「…………は?」


「吉岡さん、食生活乱れているでしょう」


「は!?」


「高校生の時と比べて随分と痩せましたよね?」


「はあ」


「毎日きちんと三食食べてますか?」


「いえ……」


「やっぱり。そうじゃないかと思ったんです」


「はあ……」


「なので一緒に食事をしましょう。栄養のあるものを食べさせてあげますよ」


 最後の最後まで表情を変えなかった先生は、そこでようやく目を伏せて腕時計に視線を落とす。



 そして、「すみません。用があるのでもう行かないと」って早口で言うと、



「では、八時にここで」


 またにっこりと笑って、軽く手を挙げ行ってしまった。



 神出鬼没。



 偶然に会った先生は、いつも謎を残して消えていく。



 あたしを混乱させても何の得にもならないのに、混乱だけを撒き散らして去っていく。



 いくら考えても解けない問題を宿題に出されたみたいで落ち着かない。



 それでも、一瞬「気になってた」って言葉にドキッとした自分がバカだって答えだけはすぐに出せた。

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