月曜日 20:10


 自分の中に密かにある乙女の部分は、いくら年齢を重ねても消える事はなかったらしい。



――結婚を前提に。



 あたしは多分、その言葉にやられた。



 仕事に夢中で男と付き合ってらんないって思いながらも、隠し持ってる乙女の部分がそれに憧れてたんだと思う。



 くるみの事をバカだバカだって言ってるあたしが一番バカだ。



 結婚って言葉にまんまとノせられて、浮かれまくってた。



 先生からの話っていうのが別れ話だって事は分かってた。



 遊び相手だか騙し相手だかのあたしが処女だったからさっさと手を切った方がいいとでも思ってんだと思う。



 社長は処女って事は気にしないって言ってたけど、先生は気にするタイプなんだろう。



 多分それは結婚してるから。



 リスクの多い既婚者としてはもっと面倒臭くない相手がいいんだと思う。



 そこまで分かってるのに、会いに行くのが億劫だった。



 そこまで分かってるからこそ、会いに行くのが億劫だったのかもしれない。



 どんな言い方されるのか考えただけで憂鬱になる。



 まさか本当の事を話すつもりなのかと思う。



 最後は傷付けた方があっさり身を引いてもらえるなんて、そんなバカ男の常套手段を使ってくる気なんじゃないだろうか。



 そんな事を思ってたから、会社を出るのにモタモタした。



 覚悟は出来てるし、あたしも言いたい事は言ってやろうって思ってんのに、やっぱり「言われる」となると躊躇してしまう。



 わざわざ自分から傷付きにいく事なんてないって思ったりもするけど、それでも体育会系なあたしは白黒つけないとすっきりしなかったりする。



 やっかいな自分の性格に重い腰を上げた時には、待ち合わせ時間の五分前だった。



 その所為で待ち合わせの駅前に着いた時には、待ち合わせの時間を過ぎていた。



 駅前に立ってた先生は、あたしの姿を見つけて柔らかく笑う。



 その笑顔の下に最悪な男の仮面を隠し持って、当たり前みたいにあたしに近付く。



「こんばんは」


 目の前で足を止めて少し照れ臭そうに笑った先生の顔を、「照れ臭そうだ」と思った自分に少々呆れた。



 それは本当は「照れ臭そう」っていうよりも、「居心地が悪そう」だとか「言い辛そう」のはず。



 なのにあたしの目は未だ腐ったまんまで、本来の先生を違った形で見せる。



 ここまで来るとバカの極地だ。



「こんばんは」


 出来るだけ柔らかく、来るべき時が来るまではと愛想笑いをしたあたしに。



「食事は無理……なんですよね?」


 先生は表面上だけ「がっかり」した顔を作る。



 そして、上等だ――って、思うあたしにまた更に一歩近付き、



「お話があるそうですが、何でしょうか? カフェかどこかに入って話しますか?」


 ぬけぬけとそう宣った。



「そんなに長く話すつもりないから、ここでいいや」


「仕事が忙しい?」


「ううん。そんなに長く話すつもりないってだけ」


「はあ、そうですか」


「どうしよ。先に先生の話を聞くべき?」


「あっ、いえ。僕の話は今度でもいいんです。少し込み入っているので」


「……今度?」


「はい。なので吉岡さんの話を――」


「でも、今度はないよ」


「はい?」


「あたし、全部知ってるし」


「え……?」


「つか、聞いたし」


「あ……」


「先生、あたしに嘘吐きまくってるよね」


「…………」


 顔面蒼白。



 そんな言葉がお似合いだった。



 あたしが処女だって知った時よりも顔を強張らせた先生は、そこから一気に血の気を引いて、石化でもしたのかってくらいに体を硬くする。



 分かりやす過ぎるその態度に、騙すつもりなら最後まで騙し通してくれって、見当違いな事を思ったけど、それは本心でもあった。



 騙し通してくれれば、こんな惨めな気持ちになる事はなかった。



 それなりにいい思い出として、処女を捨てた記憶になる。



 なのに先生はあからさまな動揺を隠さないで、口を半開きにしたまま次に出す言葉を探してるみたい。



 だからあたしはその口から打撃的な言葉が出てくるよりも先に攻撃を仕掛けた。



「先生って、もう先生じゃないんでしょ?」


「あ――」


「辞めたんでしょ?」


「そ、それは――」


「辞めたんだよね? もう『先生』じゃないんだよね」


「ま、待って下さい。僕の話っていうのはその事で――」


「うん。知ってる。知ってるってか、そうだろうなとは思ってた。だからもう言わなくていいし、聞くつもりもないし」


「よ、吉岡さ――」


「生徒妊娠させたんでしょ?」


「え……」


「んで、責任取ってその子と結婚したんでしょ?」


「あ……」


「まんまと騙されたあたしが言うのもなんだけど、あたしって騙しやすかった?」


「ちょ、ちょっと待――」


「あ、嘘。今の質問には答えないで。答えて欲しいと思ってないし。慰め言われても信じられないし、正直に言われてもショックだし」


「吉岡さ――」


「でも思うんだよね。あの時、たまたまスーパーで会った事。何で会っちゃったんだろうって」


「そ――」


「会わなきゃこんな思いしなくて済んだのに。騙される事もなかったのに」


「吉岡さん、それは――」


「でも、仕方ないって思う事にした。そう思わなきゃやってらんないし。だから、お望み通り別れてあげる。あっ、別れてあげるって言い方変だよね? ちゃんと付き合ってなかったんだし。だからこれは『終わらせてあげる』が正しい?」


「待って、僕は――」


「言い訳とかいらない。つか、そういうの鬱陶しい。善人ぶらなくていいよ。もう分かってるし。それに、そんなに気にしなくてもいいよ。あたし、昨日社長とヤったんだよね」


「社長と……?」


「うん。だからまあ、お互い軽い気持ちだったって事でいいじゃん? 今回の事は蚊に刺されたくらいに思ってたらいいじゃん」


「あの――」


「って事で、話はここまで。もう話す事もないし、あたし会社戻るね」


 言いたい事はいっぱいあった。



 酷い言葉を言ってやりたかった。



 ふざけんなって殴ってやりたいとも思ったし、バカにすんなって蹴っ飛ばしてやりたいとも思ってた。



 だけどそれが出来なかったのは中途半端に大人になってしまってるから。



 沢山の人が行き来する駅前でそんな格好悪い事出来なかった。



 それに先生はズルい。



 一見真面目そうな容姿がズルい。



 色々嫌み言ってやるつもりだったのに、その無害な顔を見ていまいち言葉が出て来なかった。



 あたしは惨めじゃないって虚勢張るのが精一杯で、責め立てる事が出来なかった。



 お腹の底から込み上げてくる熱い何かが、喉元まで来たからあたしはすぐに踵を返した。



 あと一秒でもこの場で先生と対峙たいじしてたら、柄にもなく泣いちゃいそうで、逃げるように踵を返した。



――泣くな。泣くな。



 泣いたら今よりももっと惨めになる。



 そう分かってるから込み上げてくる涙を呑み込んで、早く駅前から立ち去ろうと足を速めたその時。



「待って下さい、吉岡さん! 僕の話を聞いて下さい!」


 周りを全く気にしない大人げのない大きな声と、それと同時に腕を掴まれ。



「何よ!? まだ何か――」


 勢いよく振り返ったあたしは。



「――え? 何で泣いてんの?」


 そこにいる先生の姿に怒りも涙も何もかもを忘れてポカンとした。



「僕は確かに嘘を吐きました。もう学校の先生じゃない。だけど僕があなたを想う気持ちに嘘はない!」


 号泣ってほどじゃないけどそれなりに涙を流す先生は、困惑するあたしを更に困惑させる言葉を吐く。



 そして。



「三十分下さい! ちゃんと説明しますから! だから終わりなんて言わないで下さい! 僕はあなたが好きなんです!」


 戸惑うあたしにそう言うと、あたしの返事も聞かないで、ギュッと強く手を握ったまま、駅の南側へと歩き出した。

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