月曜日 20:35


 瀬能先生が、半ば強制的にあたしを連れていったのは、駅から十分ほど歩いた場所にある、レンガ調のビルの前。



「ここです」


 あたしの腕を掴んだまま、反対側の手で先生が指差したそのビルの出入り口からは、沢山の「生徒」が出てくる。



「中で話しましょう。一応、僕にはオフィスが与えられてるので」


 そう言って先生がやっぱり半ば強制的にあたしを連れて入るビルの入り口には、デカデカと「予備校」と書かれた文字がある。



 ビルに入るとすぐにエレベーターがあって、その中に先生は慣れたように入っていく。



 そして三階のボタンを押すと、徐に「僕は」と口を開いた。



「僕はもう学校の先生ではありません。でもここで働いてるので先生には変わらない」


 エレベーターの扉が開くのと同時にそう言った先生は、「ここは、知り合いが経営してる予備校なんです」と付け加えたっきり話さなくなった。



 無言のあたしたちを乗せて上昇してたエレベーターの扉が、チンッと軽快な音と共に開くと、そこには静かな廊下が続いてた。



 決して広いとは言い難い廊下にはいくつものドアがある。



 先生はその整然と並んでるドアの、手前から三つ目の前で足を止めると、「ここが僕のオフィスです」と教えてくれた。



 確かにそれは本当らしい。



 ドアの前には『瀬能講師』って札がある。



 その名前の下には『外出中』って札もあって、先生はそれをそのまま変える事なく、鍵を開けて中に入った。



 部屋の中はお世辞にも広いとは言えなかった。



 元々の狭さにプラスして、本やらファイルやらが山積みになってるから、その狭さを増幅させる。



 その狭い部屋に何とか置かれたふたり掛けのソファとテーブルの応接セットに近付き、先生はソファにあたしを座らせると、「珈琲でいいですか?」と聞いた。



「あ……うん」


 急展開の状況に呆気に取られてるあたしは間抜けな声でそう返事するしか出来なくて、先生はあたしの返事に「待って下さいね」って言うと部屋の隅にある棚に近付く。



 上部にポットが置いてあるそのアルミの棚は、本来なら本だとか書類だとかを入れて使う物なんだろうけど、先生はそれをインスタントの珈琲やらコップやらを入れて使ってる。



 部屋の中を見回すと、最初に見た時よりもその乱雑さが目につく。



 本人からしたらそれなりの法則にのっとってるのかもしれないけど、あたしには何でもかんでも適当に置いてある気がする。



 窓際の、学校の職員室にあるようなデスクの上にはパソコンもある事にはあるけど、周辺には社長を彷彿とさせるほど、いつ雪崩が起きてもおかしくないってくらいに分厚い本が積まれていて、よくもまあこんな所で仕事が出来るもんだと呆れた。



「インスタントですが」


 その声に目を向けると、先生は珈琲カップを手に近くまできていて、それをあたしの目の前のテーブルの上に置くと、隣に腰を下ろす。



 何で隣に座んのよ!――と言いそうになったけど、この部屋にはソファがひとつしかないから仕方ないと言葉を呑んだ。



 先生は、すぐに話し出さないで自分の珈琲をひと口飲む。



 何となく居心地が悪くて手持無沙汰にあたしも珈琲に手を伸ばすと、



「僕がここで働いてるというのは信じてもらえましたか?」


 先生が小さな声でそう聞いた。



「それは……まあ……」


「ここで働いて三年になります」


「……そっか」


「学校の教師を辞めてから一度サラリーマンをしたんですけど、やっぱりどうしてもこの仕事が好きで」


「……へえ」


「前に話した事、覚えてませんか? 天職だと思えるきっかけがあったっていう話」


「あ、うん」


「それが学校の教師を辞めた時でした。勉強を教えるというのが僕は好きなんです」


「そっか」


「そんな折、さっきも言いましたが、この予備校の経営者が知り合いで、よかったらウチで働かないかと言ってもらえたんで、そうさせてもらったんです」


「へえ」


「……吉岡さん」


「何?」


「あなたが何をどう聞いたのか察しはついています」


「察し?」


「僕が学校を辞めた時、僕にまつわる色んな噂が立てられている事は知っていました」


「噂……?」


「その噂の原因も分かってるんです」


「は?」


「吉岡さん」


「はあ」


「僕はずっとあなたが好きでした」


「はあ!?」


「あなたが高校生の時からずっと。いつも明るく元気なあなたに惹かれてたんです」


「ずっと……?」


「あなたが高校を卒業してからもその想いは消えませんでした」


「え……」


「それが怖かったんです」


「怖い……?」


「教師としてあるまじき感情を、教師になったばかりの僕は抱いてしまった。それが僕にはとってもふしだらな事に思えたんです」


「…………」


「だから、学校を辞めました。二年ほどは頑張ったんですが、そんなふしだらな教師に教えられる生徒の事を思うと申し訳ない気持ちになって、辞める事を決めました」


「…………」


「その時に、ずっと西村先生が相談に乗ってくれていて」


「西村先生? バレー部顧問の?」


「はい。西村先生には全てを打ち明けました。もちろん、あなたが卒業してからですが、吉岡さんが好きだと、忘れられないと……結婚したいくらいまでに思ってると」


「け――」


「それが噂の原因です。西村先生がどこかでその話をしたのか、それとも僕たちの話を聞いていた人がいたのかは定かじゃないですけど、それが原因で噂が立ったんです」


「…………」


「噂は、こうですよね? 僕が女子生徒と付き合って、妊娠させて、学校を辞めて、結婚した」


「……うん」


「付き合ってもないし、妊娠もさせてませんが、結婚したいと思うくらいに好きで、それが理由で学校を辞めたのは本当です」


「…………」


「その女子生徒というのが吉岡さんなんです」


「で、でも昨日――」


「昨日?」


「本屋にいたでしょ? 女の人と一緒に。研修って嘘吐いて、一緒にいたじゃん」


「あ――」


「あたし、昨日あの本屋にいたんだけど」


「だから電話を……」


「そう! 先生が取らなかった電話ね! あたし、先生の言ってる事、信用出来ないんだけど!? そんなの口では何とでも言える事だし!」


「あれは――」


「あたしを惑わすのやめてくんない!? ひとつでも嘘があると全部が露見すんだからね!? 口先だけの言い分で騙されるほどあたし子供じゃないし! 処女だったからって子供だと思ってんなら――」


「あれは、去年までここの予備校に通っていた生徒です!」


 ええ!? 何ギレ!?――ってくらいに大きな声を出してテーブルをバンッと叩いた先生は、あたしが驚いた事に気付いたのか、すぐにハッとしたような顔をして、「すみません」って小さく謝ると気を取り直すように咳払いをする。



 そして。



「嘘は吐いてません」


 その言葉を皮切りに、あたしじゃ一生解けそうにもない謎の答えをくれた。



「土日は本当に研修だったんです」


「本屋にいたじゃん」


「あれは、授業の合間です」


「は?」


「予備校は土曜も日曜も授業があって、僕は基本的に土日は担当してないんですが、今は特別講習の時期で授業があるんです」


「研修じゃないじゃん」


「研修は夜。昨日も一昨日もここに泊まり込みで研修があったんです」


「…………」


「他の先生に会って確認しますか? 僕は絶対に嘘は吐いてない」


「そ、そこまでしないけど……」


「昨日はあの生徒が——いや、元生徒ですね。あの子がここに訪ねてきて、家庭教師をする事になったから、参考書を買うのにいいのを見て欲しいと言ってきたんです」


「参考書……」


「僕は参考書の棚にいたでしょう?」


「……そこまでは見てないけども……」


「いたんです」


「じゃ、じゃあ何で電話出なかったの? あたしの電話切ったじゃん!」


「懲りてるからです」


「は?」


「変な噂を立てられてる事に懲りたんです。学校を辞めた理由の性質たちの悪い噂は、吉岡さんの耳に入るとは思いませんでした」


「入ったけどね」


「はい。だけど、入るとは思わなかった。でも今は違う。僕たちは今こうして近い距離にいる。もしかしたら吉岡さんと一緒にいる時に街角でばったり生徒に会うかもしれない」


「まあ、なくもない話だよね」


「ここの予備校の生徒は、僕に纏わるあの噂を知ってる人もいるんです」


「へ?」


「もう何年も前の話なのに、どこからか聞いてくるんですね。いつまでも吹聴してるバカがいる」


「…………」


「それを吉岡さんに知られたくなかった。変な噂を知ってる生徒とばったり会ってそれを吉岡さんの耳に入れたらと思うと気が気じゃなかった」


「…………」


「昨日、一緒にいたあの子も、あの噂を知ってる子でした。あの時吉岡さんからの電話を取ったら、また変に噂をされかねないと思ったんです」


「だから、電話に出なかったって?」


「はい。そのあとは授業と研修で吉岡さんに連絡出来ないままで、気にはなっていたんですけど時間を作れなくて……。でもそれがあったから全て話そうと思ったんです。そうしないとこれからもビクビクし続けなきゃいけない」


「…………」


「信じて下さい。僕は本当にあなただけを――」


「でも、タメ口だった」


「……はい?」


「昨日の子! タメ口だった! 先生と生徒だった割にはおかしくない!? 本当にそうなんだったらタメ口じゃないでしょ!」


「……何口?」


「タメ口! 敬語じゃなかったって言ってんの!」


「では、吉岡さんが元数学担当だった僕に今話してるのは何口ですか?」


「あ……」


「今時の生徒っていう言い方をするととても年寄りくさいですが、今時の生徒は先生に敬語を使う子が少なくなりましたよね」


「……だね」


「他には?」


「へ?」


「他に、僕を疑ってる事は?」


「他……」


「他にないなら、もう僕を信用してくれますか?」


「…………」


「僕の言ってる事を信じてくれますか?」


「…………」


「僕の気持ちを――」


「ある! あった! あったし!」


「何でしょうか」


「あたしが処女って分かった瞬間、逃げた! それって面倒だと思ったからでしょ!? 遊ぶ相手に処女は面倒だって!」


「違います」


「違わない! 完全に引いた顔してた!」


「それは、場合が場合だったからです!」


「場合って何よ!?」


「初めては、あんな風に捨てるもんじゃない!」


「はあ!?」


「初めてっていうのはもっと大事なものでしょう? あんな風にその場の勢いで、しかもあんな汚いラブホテルで捨てるもんじゃない」


「どこの乙女!?」


「乙女だろうと何だろうと、そんな風に捨てるもんじゃないんです! 僕はあなたにそんな捨て方させたくない!」


「ええ!?」


「だから、改めてと思ったんです。ちゃんとした思い出になるような場所でと……」


「えええ!?」


「それでその……予約したんです」


「予約!?」


「今日、ホテルの予約を……」


「ええええ!?」


「食事をしてから行こうかと」


「えええええ!?」


「思っていたんですが、浮気をしたんですね?」


「え!?」


 ギラリ――と、先生の眼鏡が光って見えた気がしたのは、その奥にある瞳がギラリと怒りの光を帯びたからだと思う。



 どこからどう見ても怒ってる事間違いなしの先生は、さっきまでとは違う低い声で。



「他の男に抱かれたんですね?」


 怒った表情の中に悲しげな表情を作る。



 だから。



「ヤってないって言ったら信じる?」


 正直に、何もかもを話す覚悟が出来た。



「ヤってない?」


「実際は、ヤりかけてやめたっていうか、やめられたっていうか」


「はい?」


「社長に騙されたっていうか、試されたっていうか」


「は?」


「だからさ!? そういう雰囲気にはなったんだけど、雰囲気っていうか『ヤろう』って話にはなったんだけど!」


「それで?」


「キスする直前に、『どうだ?』って聞かれた」


「何がですか?」


「んと、ヤれるかどうかって事? このまま流されてヤれるのかって感じで」


「それで?」


「無理だと思ったから『無理』って言った」


「で?」


「そしたら社長が『だろうな』って笑って」


「笑って?」


「あたしは先生の事が好きなんだって言った」


「は?」


「いくら雰囲気がよくても、流されるのには理由があるって。それだけ相手の事が好きなんだって。だからあたしが騙されてたんだとしても、堂々と処女は好きな相手に捧げたって思えばいいんだってさ」


「…………」


「すぐには無理かもしれないけど、いつかはそう思うようにしろって」


「…………」


「じゃないと報われないぞって。最初から、社長はヤるつもりなかったみたい」


「…………」


「あたしの言ってる事信じる?」


「…………」


「あたしが先生の言ってる事信じたみたいに、信じてくれる?」


「…………」


「あたし――」


「良かった……」


 大きく息を吐いたのと同時に出てきた先生のその言葉は、心底ホッとしたって感じの渾身の言葉で、



「明日にでも吉岡さんの会社に行って、社長さんを殴ってやろうかと思ってました」


 柄にもなくそう言うから、思わず笑ってしまった。



「笑い事ですか?」


「笑い事だね」


「まあ、そうですね」


「でしょ?」


 クスクスと笑うあたしの唇に、先生の視線が向けられる。



「仕事忙しいですか?」


 そう聞きながらゆっくりと近付いてくる先生の表情は真剣。



「へ? 仕事?」


 そう聞き返すあたしは、その真剣な表情から目が逸らせない。



「これから食事に行きませんか? 出来ればそのあとホテルにも」


「んー、どうしよう」


「仕事に戻らないといけませんか?」


「ううん。仕事はないんだけど」


「でも嫌?」


「嫌っていうか、食事って気分じゃないからさ」


「はい」


「このまますぐにホテルに行かない?」


 そう言ったあたしに「是非」と言った先生の柔らかい唇が優しく重なった。

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