火曜日 18:25
夏の終わり。
世間じゃどこも禁煙運動が盛んなのにも拘わらず、視界を悪くするくらい紫煙が立ち込める職場から、社長に頼まれて買い物に出たあたしは、駅前のスーパーのお弁当売り場で初恋の相手を見つけた。
「もしかして、
ただ掛けたその声が遠慮がちで小さかったのは、百パーセント確信してる訳じゃなかったから。
いくら初恋の相手とは言え七年の歳月の所為でぼんやりとしてしまったその記憶に、今ひとつ自信がなかったからだった。
だけど、あたしの記憶力は満更でもないらしい。
声を掛けたその人は、眺めていたお弁当からあたしに目を向け、驚いたようにその目を見開く。
見開かれたその目には七年前と変わらないノンフレームの眼鏡があった。
「
相手も自信がないらしく、遠慮がちにそう言葉を発して、あたしの顔をしげしげと眺める。
そして。
「そうです。吉岡です。吉岡
あたしがそう笑うと、瀬能先生もホッとしたような笑みを浮かべた。
「覚えてますよ。これでも受け持ったクラスの生徒の名前は覚えてるんです」
「担任でもなかったのに凄いね、先生」
「特に吉岡さんの年の生徒の事はよく覚えてます。僕が初めて赴任した年だったので」
あの頃と変わらない、男の人にしては凄く穏やかで柔らかい物腰の瀬能先生は、見てくれもあの頃と変わらない。
確かあの当時で二十六歳くらいだったから、今じゃもう三十を超えてるはずなのに、元々童顔だからな所為か年相応には見えなくて、二十代って言っても通じる感じ。
ただあの頃より垢抜けた気がする。
あの頃の先生は新任だったからか、いつもどこか顔に緊張の色があった。
「先生、夕飯の買い物?」
先生が持ってるカゴを覗いてみると、中にはお茶のペットボトルとかカップラーメンがゴロゴロしてて。
「夕飯と夜食です」
先生は少し照れ臭そうにそう言うと、「吉岡さんは?」と聞いてくる。
その言い方にほんの一瞬、高校時代の淡い想いを思い出した。
「あたしも夕飯の買い物。って言ってもお弁当だけど。今日、仕事忙しくて遅くなりそうだからみんなの分を買いに来たんだよね」
「みんな?」
「うん。あたしが働いてる会社、従業員少なくて、忙しい時は総出で仕事しなきゃなんないから。で、あたしが一番下っ端だからこうやって雑用係になるってわけ」
「吉岡さんは確かウェブデザイナーを目指してたんですよね? そういう会社に入ったんですか?」
「うん。――って、そこまで覚えてんの?」
「吉岡さんの担任の先生がよく愚痴を零していたので覚えてるんです」
「愚痴?」
「吉岡さんは大学の推薦を蹴って専門学校に進んだでしょう? その事で担任の先生が職員室で愚痴を零してました。折角の推薦を蹴るなんてもったいない、と」
「ああ、担任の西村先生、バレー部顧問だったしね」
「相当、吉岡さんに期待してたようですよ」
「そういえば、何か色々言われた気がする。オリンピックを目指せとか何とか。熱い先生だったよね。そんなの普通に無理だっての」
ケラケラと笑いながら陳列されたお弁当に目を向けて、適当に見繕ってカゴに放り込んでいくと、先生も「のり弁」を自分のカゴに入れる。
そして一緒にって言った訳でもないのに、あたしたちは示し合わせたようにふたり並んでレジへと向かった。
「吉岡さんは、今も
「うん。くるみたちの事もよく覚えてたりするの?」
「もちろん。校内で三人でいるのをよく見かけましたから」
「性格は全然違うのに何でか気が合うんだよね。今、くるみはOLしてて、
「ファッション雑誌の編集者って、どんな仕事をするのかよく分かりませんが、何だか凄いですね」
「でしょ? でもかなり大変みたい。撮影だの編集作業だの出張だのって、あたしたちの中であの子が一番忙しいんじゃないかな?」
「吉岡さんも充分忙しそうですが?」
「あたしの場合はこんな雑用が中心だし、体力には自信あるしね」
「バレーはもうやってない?」
「うん。きっぱり辞めた」
「そうですか」
「もったいないって思う?」
「いえ。今とても充実されてるようなので、そうは思いません」
優しい笑みを浮かべた先生はそう言って、レジの前に出来た列にあたしを先に並ばせる。
タイムセールがあった所為で主婦たちがごった返すその場所で、先生はあたしの後ろに並んで立つと、不意に「ご結婚は?」と聞いてきた。
「あたし?」
「ええ」
「まだだよ。そんなの考えた事もない」
「そうですか」
「男作ってる暇ないし」
「暇がない?」
「今は仕事楽しいから仕事ばっかしてて男と出会う機会もないよ」
「へえ」
「先生は? 結婚したの?」
「いえ、まだです。結婚してたら夕飯にお弁当は買いませんよ」
嫌みなくそう言った先生に、「確かにね」って笑うと先生も小さく笑う。
少しだけ細められた目許に出来た笑い皺は、その温厚な性格を表してるようだった。
「先生はまだあそこにいるの?」
「あそこ?」
「あたしの母校。まだそこで先生してる?」
「いえ、もう
「そっか。学校変わったりだとか色々あって教員も大変だよね。ニュースで見た事あるけど『モンスター何とか』ってのがあるんだって? 先生は大丈夫?」
「モンスターペアレントですね。僕は運がいいらしく、まだそんな経験はありません」
「運じゃないでしょ。先生優しいし、真面目だから何も言われないんだよ」
「買い被り過ぎですよ」
「そんな事ないって! まあ、あたしが体育会系だったから余計にそう思ったのかもだけど、先生が赴任してきた時、世の中にはこんな優しい人いるんだって思ってたもん」
「僕は優しくもないし、真面目でもないですよ」
「そういう謙虚なところが真面目だよ。――あっ、五円あります」
話ながら順番が回ってきた会計で、レジの人にそう言いながら万札と五円玉を出して、もらったお釣りを財布に仕舞うと、あたしは先にカゴを持って袋に入れるカウンターに向かった。
先生もそのあとすぐに会計を済ませてあたしの隣に来ると、意外にも乱雑に袋の中に品物を入れ始める。
真面目って印象は変わらないけど、それと並行して抱いてた几帳面なんだろうなって思いは消え失せて、現実と想像のギャップに少しだけ笑ってしまった。
多分、ギャップに笑えるようになったのは、年齢の所為だと思う。
これが高校生の時だったら、想像とは違う現実に幻滅してたかもしれない。
だけど世の中はこういうもんなんだって――想像や理想通りにはならないんだって――年齢を重ねていく内に納得出来るようになった。
妥協とは違う。
現実を受け入れる力がついたんだと、あたしは思う。
それからお互い特に会話をする事なく品物を詰めてスーパーの出入り口に向かった。
何か話した方がいいって思いながらも、もう話すネタも思い付かなかった。
それは先生も同じなのか、気まずさから先生にチラリと目を向けると、先生も同じような目であたしを見て、眉尻を下げ「苦笑」って感じの笑いを作った。
「あたし、あっちだから」
スーパーの前に停めてた自転車のカゴに荷物を入れながら北側を指差したあたしに、先生は「逆方向ですね」って笑って、雑然と並べられた沢山の自転車の中からあたしが乗ってきた会社の自転車を引っ張り出すのを手伝ってくれる。
周りの自転車に引っ掛からないようにヒョイッと自転車を持ち上げた先生を見て、体の線が細い割には結構力があるんだなって、また想像と現実のギャップを感じた。
体育会系のあたしに対して文化系の先生に、あの頃は異国の王子様を見てるような気持ちを抱いてた。
今にして思えば、「恋」ってよりただの「憧れ」だったのかもしれない。
違う世界に住む大人の男の人に興味を抱いてるって感じだったと思う。
だからこそ、告白しようなんて微塵も思わなかったし、廊下ですれ違ったり、たまに話したりするだけで満足出来た。
先生が受け持つ数学の授業は楽しみだったけど、だからって成績がよくなる訳でもなかった。
ただそれを「初恋」だと思ったのは、男の人に対してそういう感情を抱いたのが初めてだったから。
これが初恋なんだろうなって、勝手に思ったってだけ。
恋を知らない時期だったからこそ、恋っていうのが分からなくて、これがそうだと自分で思えば、そういうものになる年齢だった。
でも何となく、今もそんな感じが抜けない。
七年振りに会った先生は、今も変わらず異国の王子様みたいな感じがする。
「会社はここから遠いんですか?」
「自転車で十分くらいかな?」
「気を付けて」
「先生も」
またね――って言葉は言わない事にした。
だって「また」があるような気にならなかった。
もし「また」があっても、それは何ヶ月後か何年後かの事で、この偶然は頻繁に起きるものじゃないと悟ってた。
だから。
「先生、元気でね」
自転車に跨り軽く手を挙げてそう言うと、あたしはペダルを踏み、いつもの世界に戻ろうとした。
――のに。
「吉岡さん」
二、三回ペダルを漕いだところで突然先生に呼び止められて、油を差してない所為でキィッとうるさく鳴るブレーキを掛け、その場で止まった。
振り返ると先生は、さっきと同じ場所に立ち、こっちを見てるけど近付いてくる様子はない。
だから聞き間違えたのかと、「呼んだ?」って聞こうとした矢先。
「さっきの話なんですが」
先生はやっぱりその場に
「さっきの話?」
「はい。仕事が忙しくて、男性に出会う機会がないという話です」
「あっ、うん。それが何?」
「本当ですか?」
「へ?」
「本当に彼氏がいない?」
「うん。本当。ってか、そんな事で嘘吐かないし。嘘吐いても何の得もないじゃん」
「なら、僕とお付き合いしませんか?」
「……は?」
「出来れば結婚を前提に」
「…………は?」
「考えておいて下さい」
は?――と、三度目の間抜けな声は、先生が踵を返して逆方向にさっさと歩いていったから、出す事が出来なかった。
その場に取り残されたあたしは、何が何だか分からなくて、狸に化かされたんだか、狐に抓まれたんだか、とにかく何が何だか分からない状態に陥ってた。
呆然と、自転車に跨って振り返った格好のまま、立ち尽くすあたしの視線の先の先生が人混みの中に消えていく。
すっかり先生の姿が見えなくなって、ようやくあたしの口から出てきたのは。
「………………はあ?」
今まで生きてきた中で一番間抜けな声だった。
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