今度食事に誘うと千石さんに言われてから3日後。



 本当に誘われるのよりも、噂の方が先行した。



「聞きましたよ! 志乃さん!」


 第一倉庫の外階段を物凄い勢いで駆け上がってきたキッコちゃんは、最後の一段でつまづいてツンのめりながらわたしの前に座り込み、



「千石さんと食事に行くらしいじゃないですか!」


 どこから仕入れたのか分からないけど、正確な最新のニュースを、つばをぶっ飛ばしながら口にした。



「え? マジで?」


 わたしが答えるのよりも先に渡辺さんが反応して、



「マジです! 千石さん本人が言ってたって言ってたから!」


 キッコちゃんが、何だか分かりにくい返事をする。



 そして好奇心いっぱいの二人の目がわたしに向けられ、



「え? 乗り換え?」


 何故だか渡辺さんが楽しげな声を出す。



 黙秘を行使したらとんでもない方向に行ってしまいそうな雰囲気に、



「食事には誘われたけど、乗り換えとかそういうのじゃ――」


 ない――とまで言いたかったのに、それはキッコちゃんの「やっぱり本当だったんですね!?」っていう歓声に近い声に遮られた。



「本当だけど、乗り換えとかじゃなくて、」


「いよいよなんですね!?」


「いよいよって何が?」


「いよいよ千石さんが動き出したんですね!?」


「う、動……?」


「恋の火花が散るのですね!?」


「は?」


「禁断の三角関係が始まるんですね!?」


 その脳内でどんな妄想を抱いてるのか分からないけど、キッコちゃんの目はわたしを見ながらもどこか遠い所を見つめてて、



「キッコちゃんは落ち着くところから始めた方がいいよ」


 わたしの手に負える状態じゃないと理解して、目を逸らした――先。



 今度は渡辺さんと目が合って、何を言われるんだろうかとヒヤヒヤした。



 だけど渡辺さんはいつの間にかその顔から楽しげな笑みを消して、じぃっとわたしを見つめ、少しだけ首をかしげてる。



 例えて言うならそれは、納得出来ないって感じの仕草。



「何か……?」


 どうしてそんな感じなのか不安になって問い掛けたわたしに、渡辺さんは「うん」と返事をして視線を空に向ける。



 何かを考えるようにしばらくそうして、



「前から疑問に思ってた事があるんだけど」


 視線を戻してきた渡辺さんは、不思議そうな声を出した。



「疑問?」


「うん。でもあんまり聞かない方がいい事なのかなとも思ってた」


「何ですか?」


「志乃って彼氏の話する時、反応悪いよね?」


「へ?」


「いや、普通さ? 例えば今みたいな時って、もっと否定したりしない? 『わたしは彼氏一筋だから!』とか、まぁそこまで言わないとしても『彼氏いるからそんな事はない!』とかさ」


「そんなんじゃないって言おうとしましたよ?」


「うん。そうなんだろうけど、前からそう思ってたから、今も反応が悪いって思っちゃったんだと思う。この前だってキッコに彼氏との事聞かれて『シリアス』なんて答えてたし」


「……」


「志乃が彼氏に対して、どっか冷めてる感じに見えるのは気の所為? 私の勘違い?」


「……」


「あっ、いや、だとしても何って訳じゃないんだけどさ? 何となく気になったっていうか、疑問に思ってたっていうか、不思議に思ってたっていうか――」


「渡辺さんが、」


「――ん?」


「渡辺さんがどういう感じで言ってるのかは分からないけど」


「うん」


「冷めてるって言えばそうなのかも」


「あっ、やっぱそうなの?」


「でもどっちかって言うと、冷めてるっていうよりも熱くないって感じに近い気が……」


「熱くない?」


「わたし、付き合った当初から彼の事好きでも嫌いでもないから」


 へ?――と、素っ頓狂な声を出したのは、いつの間にか妄想の世界から戻ってきてたらしいキッコちゃんだった。



 視線の先の渡辺さんは、驚きはなく納得したような表情をして、「なるほどね」なんて言いながら小さく何度も頷いてた。



 わたしとしてはただ本当の事を言ったってだけで、大それた告白をしたつもりはなかった。



――のに。



「そ、そ、そ、それってどういう!? な、な、何で!? え!? 何が!? え!? い、意味が分からないんですけど!?」


 キッコちゃんにとっては、天変地異を招くかの如くの告白に思えたらしい。



「意味も何も言ったままの通り」


「はい!?」


「だから、彼の事は好きでも嫌いでもないの」


「す、好きでもないのに付き合ったって事ですか!?」


「ううん、違う。嫌いじゃないから付き合ったの」


「はい!?」


「だって、そういうもんでしょ?」


「そ、そういうもん?」


「殆どの人がそうって事。世の中にいる恋人全てが最初から相思相愛な訳じゃないじゃない。自分の好きな相手が自分を好きでいてくれて付き合う確率なんて無いに等しいでしょ」


「そ、そうですけど、」


「好きじゃないけど付き合ってたら好きになれるかもしれないって思うから、言われた方は付き合うんでしょ? 嫌いじゃないから好きになる可能性は大いにある訳だし」


「だから志乃さんは今の彼氏と付き合ったって事ですか!?」


「うん」


「ちょっ、ちょちょちょちょっと待って下さいよ!? 物凄く立ち入った事聞いちゃいますけど、当然その彼氏さんとエッチはしてるんですよね!?」


「うん」


「ももももしかしてですよ!? 高校から付き合ってるって事はもしかして志乃さんの初めての相手は――」


「彼」


「す、好きでもないのに!?」


「うん」


「そ、それでいいんですか!?」


「いいも何も付き合ってたらいつかはするものだし、おかしい事じゃないでしょ」


「嫌だと思わなかったんですか!?」


「何とも思わなかった」


「じゃ、じゃあ、今は!? 今は好きなんですか!?」


「ううん。好きでも嫌いでもない」


「なら、何で別れないんですか!? 好きになれないなら別れた方がいいんじゃないんですか!?」


「何で?」


「何でって――」


「他に好きな人がいる訳でもないし、付き合ってるからってデメリットがある訳じゃないし」


「そ、そうかもしれないですけど、好きじゃない人と付き合ってるっておかしくないですか!?」


「普通だと思うけど」


「普通!?」


「相思相愛で付き合ったとしても、好きって気持ちはずっとある訳じゃないでしょ? 付き合ってれば薄れていくじゃない」


「薄れるとは限りませんよ!?」


「うん。限らないけど比較的、そっちの方が多いでしょ。長年連れ添ってる夫婦が、付き合い始めた時と変わらない気持ちってあり得ないでしょ?」


「そ、そうかもしれないですけど、」


「だからわたしと彼の付き合いってごく一般的だと思う。嫌いな訳じゃないし、これっていう別れのきっかけがなくて、ズルズルこの関係が続いてきたって感じ」


「ズルズルって……」


「でも近い内に別れるよ」


「え……?」


「今まではそういう機会がなかったってだけだから」


「機会?」


「お互い、気が付けば2年経ってたって感じだからね」


 彌と別れる事になる時期を、付き合った当初から予想してた。



 それが少しだけズレたのは、彌の異動の所為。



 予想ではもう少し早くその時が来ると思ってた。



 高校3年で付き合い始めたから、付き合ってすぐはお互い就職活動に忙しかった。



 就職先が決まって卒業して、社会人になった初めの年は会社に慣れる事に精一杯。



 心にも生活にも余裕なんかなくて、毎日が大変で現状を維持するだけで手いっぱいで、他の事に構ってられやしない。



 だから社会人としての生活に慣れてきた頃、何かが動き始めるとは思ってた。



 わたしと彌のどちらかに好きな相手が出来て、終わりが来るだろうと思ってた。



 だけど社会人1年目が終わろうとする頃。



 ようやく心に余裕が持て始めた時。



 彌が事業課から営業課に異動になって、また余裕のない日々が始まった。



 それさえなければ今頃はもう別れていたかもしれない。



 2年目のクリスマスイブを間近にして、プレゼントを買うべきかどうかなんて悩まずに済んだと思う。



 彌はもっと早い段階でわたしに飽きて、好きな人を作れただろうと思う。



 お互い2年っていう歳月を無駄にする事はなかったと思う。



「私は、志乃の言ってる事が分かる気がする」


 黙って話を聞いていた渡辺さんはそう言って、「そんなもんだよね」と付け加える。



「そうですよね」とわたしは答えたけど、キッコちゃんは納得出来ないようだった。



 わたしには、どうして納得出来ないのかよく分からない。



 相思相愛で付き合って、その気持ちがずっと続くなんてのは夢物語。



 現実の世界じゃ妥協っていうものが必要で、その殆どの人が妥協をして付き合い、結婚してる。



「ところでさ? 近い内に別れるって事は、何かきっかけが出来たって事?」


 興味があるっていうよりは不思議に思うって感じで聞いてきた渡辺さんに、「彼に女が出来たみたいなんで」と答えたわたしは、お弁当箱の蓋を開けた。



 その夜、家に帰って自分の部屋でテレビを見ていたわたしにメールが届いた。



【明後日だけど、どうする?】


 ずっと保留にしておいた、彌たちのプチ同窓会の誘いの返事をメールで聞かれて、【行く】と返信した理由は、まだ「彼女」という立場にいるからだった。



 他の人が恋人を連れてくるらしいプチ同窓会に、彌の彼女をしてるわたしが行かない為にはそれなりの理由がいる。



 タナキ君に会いたくないっていう、ちゃんとした理由はあるけどそんな事は言えないから行かない訳にはいかなくて、嫌でも行くって言うしかない。



 返信を送った憂鬱さに溜息を吐き、携帯をベッドの上に放り投げた。

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