16
相手の親に会った事があるのは何も彌だけじゃない。
当然わたしも彌のご両親と何度も会った事がある。
彌と外で会う事が増えたのはここ1年くらいの話で、それまではお互い経済的にゆとりがなかったから家で会う事が殆どだった。
わたしの家よりも彌の家に行く事が多かったから、彌がわたしの両親に会うよりも、わたしが彌の両親に会った回数の方が多い。
でも彌の家に泊まった事はないし、夜遅くまでいた事もない。
いつも夕方になれば帰るようにしてたし、夕飯に誘われてもお断りしてた。
だからこんな風に、夜の9時を過ぎて彌の家に来たのは初めてで、
「あら、志乃ちゃん。どうしたの? 何かあった?」
彌の家に着いて早々おばさんに心配された。
何かあった事はあったんだけど、そんな事言えるはずもなく、玄関先で「あの、」「その、」とわたしは口籠る事しか出来ない。
そんなわたしに助け船を出してくれたのは、もちろん家に連れてきた彌だけど、
「今日、志乃泊まってくから」
そんな「どっきり」は助け舟とは言わない。
でも、「え!?」と驚いたのはわたしだけだった。
おばさんは「あら、そう」とあっさり答えてさっさとリビングに引っ込んでいった。
わたしだけが唖然とその場に立ち尽くしてて、彌はさっさと家に入って階段の方に歩いていく。
「何してんだよ」
足を止めて振り返った彌は、まだ玄関先にいるわたしに声を掛け、「早く来い」と目顔で言う。
「で、でも――」
そう反論しようとした矢先に、「夕食は?」と、リビングからおばさんの声が飛んできて、わたしの言葉は宙ぶらりんのまま消えてなくなった。
「飯食うけど、後でいい」
リビングに向かって返事をした彌は、「志乃の分も」と付け加えて、階段を上がっていく。
完全に玄関先で放置されたわたしは、今更帰る事も出来なくて、家の中に入らざるを得なかった。
先に階段を上がった彌の姿はもう見えない。
追い掛けるように階段を上がっていくと、2階の廊下にも彌の姿はなく、彌の部屋のドアが少しだけ開き、そこから明かりが漏れていた。
「彌……?」
ソッとドアを開けて覗いた部屋の中。彌はこっちに背を向けて、スーツを脱いで着替えてた。
ひんやりとした部屋には点けられたばかりのエアコンの稼動音が妙に響き、
「入って」
その音に混じる彌の声は、少し冷たい。
ここに来るまでの間にすっかり冷静になってしまったわたしは、彌の言うがままに部屋に入ってドアを閉めた。
彌はわたしに背を向けたまま、スーツをハンガーに掛けて、
お互い何も話さないから、居心地の悪い空気が部屋に広がっていく。
だけど何を言えばいいのか分からない。
むしろ、言いたい事は全部言った。
だからわたしは彌が口を開くのを待つしかなくて――…
「誤解してるんだろうと思うけど、違うから」
待った
「違うって何が?」
「あの子」
「あの子?」
「さっき会った子」
「あの子が何?」
「浮気してるとかそういうんじゃない。あの子とは何にもない」
「……」
「ただちょっと……気に入られてる……」
「は?」
そう聞いたのは、聞き取り辛いくらい彌の声が小さかったから。
聞こえた事は聞こえたけど、絶対って自信が持てなかった。
特に後半部分が聞き取り辛くて、語尾なんて完全にエアコンの音に掻き消されて、だからその声の調子で感情を読み取る事は出来なかった。
「何て言ったの? ちゃんと聞こえなかったんだけど」
「だからその……」
「何?」
「ちょっと……気に入られてる……」
「気に入られてる?」
「……うん」
「気に入られてるって何? 好かれてるって事?」
「……多分」
「多分ってどういう意味?」
「告られた訳じゃないから、絶対って事でもないって意味」
「でも彌は、あの子に好かれてると思うんだ?」
「……うん」
「で?」
「え?」
「それで?」
「それで……?」
「それで、どうしたいの?」
そんなつもりはなかったのに、口から飛び出した言葉は吐き捨てるような感じだった。
何が言いたいのか分からない、はっきりしない彌にイライラする。
その感情を、声の感じから読み取ったらしい彌は、慌てたようにこっちに振り向き、
「どうしたいって何だよ?」
少し怒ったような声を出した。
「そんな話するって事は、先があるんでしょ? 好かれてると思うからどうなのって聞いてるだけ」
「どうもこうもねぇよ。事実を言ってるだけで、あの子とどうにかなろうなんて思ってねぇし、彼女いるって言ってるし」
「でも腕組んで仲良さそうだったじゃない」
「そ、それは向こうが勝手に――」
「楽しそうに笑ってたじゃない」
「俺は愛想笑いしてただけで――」
「マフラー貸してあげてんでしょ? 今日だけの事じゃないよね」
「あ、あれも勝手に――」
「勝手にされて黙ってるからあの子も期待するんじゃないの? それとも期待させようとして黙ってるの?」
「そんな――」
「でもそんな事どうでもいい」
「――は?」
「あの子はわたしに関係ない」
「志乃……?」
「早く言って」
「な――」
「別れようってわたしに言って」
ドアの前に立つわたしと、反対側の壁の前に立つ彌の視線がちょうど真ん中辺りで絡み合う。
見開かれた彌の目が、ゆっくりと細められていき、睨むようにわたしを見据える。
「俺と別れたいのか?」
投げ掛けられた問いの声は、低く威圧的なもので、その感じは声だけじゃなく全身から醸し出されてた。
「嫌いになりたい」
「何で」
「好きになれないから」
「何で」
「そんなの知らない」
「何で」
「知らないものは知らない」
「いつから?」
「何が?」
「いつから好きじゃない?」
「付き合った時から」
「今までずっと?」
「うん」
「俺の事、ずっと好きになれなかったのか?」
「うん」
「なら何で付き合ったんだよ?」
あり得ない――と思ったのは、彌の声が非難するような声だったから。
自分の事は棚に上げて、わたしばっかり悪者にする、その態度が絶対にあり得ないと思った。
だから。
「じゃあ、彌は?」
わたしの声も非難めいていた。
あんたに言われたくないって。
そもそもあんたの所為でしょって。
自分ばっかりが好かれようと思う神経があり得ないでしょって。
そんな思いを込めて出した声は、ほんの少し喉の奥に詰まって震えて出た。
「俺が何?」
「わたしを好きになった事ある?」
「は?」
「一回でも本気でわたしを好きだと思った事ある?」
「何だよ、それ」
「ないでしょ?」
「はぁ?」
「ないんでしょ?」
「俺は――」
「誰でもよくてわたしと付き合ったんだから、好きになる事なかったでしょ!」
持ってた鞄を投げ付けてやろうかと思ったけどやめた。
でも、やめて正解だった。
投げなくてよかった。
だってもしも投げてたら、
「俺は最初からずっと志乃の事が好きだぞ?」
間抜け過ぎるくらいに困惑に彩られた声の、その言葉を聞く事が出来なかっただろうから。
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