14


「怒り」っていうものは、どれだけ強くてもずっと持続するものじゃなく、謂わば波のように上がり下がりする。



 しかもその波を何度も繰り返してると、いずれ波は小さくなって、最終的に「怒り」はなくなってしまう。



 それは「人」として仕方のない事だし、生きていく為にはそうでないと立ち行かなくなる。



 抱いた時のままと同じ強さの怒りを永遠に持ち続けると、人はおかしくなってしまう。



 だから、「怒り」は上がり下がりする。



 人間のことわりなんだと思う。



 そう分かってるから、彌の会社に向かう電車の中で波が下がりそうになる度に、わざとタナキ君の言葉を思い出して怒りを持続させた。



 彌に言うまでは強い怒りを持続させておきたかった。



 どうしてわたしがタナキ君にあんな言い方されなきゃいけないのとか。



 どうしてわたしがタナキ君にあんな事言われなきゃいけないのとか。



 そもそもは彌が悪いのに、何でわたしが悪者扱いされなきゃなんないのとか。



 彌の尻拭いを何でわたしがしなきゃなんないのとか。



 思い出しては次々と溢れてくる、今にも飛び出してしまいそうな怒りを、無理矢理腹の中に押し込んで彌の会社に向かった。





 電車を乗り継いで着いたオフィス街が閑散かんさんとしてたのは、土曜の夜って事以上にクリスマスイブの夜だからだと思う。



 土曜出勤がある会社の社員も、この日ばかりは残業しないで早くに帰ったのか、電気が点いてるオフィスビルも少なくて、通りに人影はない。



 ポツン、ポツンと等間隔に設置された街灯だけが、通りを明るくしてる。



 その通りを、彌の会社に向かって歩くわたしのヒールの音は、一歩一歩が妙に強くて、その音だけで怒りの度合いを測れる気がした。



 繁華街にいた時には痛いとすら感じてた冷たい風は、怒りのお陰で何とも思わなくなってた。



 怒りの所為で歩調は自然と足早で、怒りで上がった肩がグングンと風を切る。



 何を言ってやろうとか、どうしてやろうとかって考えはなかった。



 何も考えなくても、どうせその時が来たら自然と口が動いて、自然と体も動くと思ってた。



 殴ろうと思ってた訳じゃないけど、殴ってしまうかもしれないとは思ってた。



 喚こうとは思わなかったけど、罵るだろうとは思ってた。



 ビュービューと耳元で風の音が聞こえる。



 それがまるでエールのようにも思える。



 そんな心持ちで彌の会社に着いたのは、9時10分前だった。



 オフィスビルの正面玄関は当然既に閉められてて、会社の裏手にある通用口に向かう事を余儀なくされた。



 でもその方がいい。



 正面か通用口のどっちから出てくるか分からない状態よりは、出てくる場所が確定してる方がいい。



 後は彌がまだ帰ってない事を願うだけ。



 オフィスビルをグルッと回り込んで表通りから裏通りに入ると、裏通りに面してるある通用口のドアが正面に見えた。



 一度立ち止まった場所から見える光景に、寒いから奥に引っ込んでるのか守衛さんの姿はない。



 見えるのは通用口のドアの上にある電灯が、切れ掛けてるのかチカチカと瞬きをしてるだけ。



 ビュービューと風が吹き荒ぶ。



 コートの裾や髪がなびく。



 時計を見ると9時5分前。



 少しだけ不安になった。



 もしかしたら彌はもう帰ってるかもしれない。



 いくらタナキ君に「9時に会社を出る」って言っても、9時ちょうどに出るって訳じゃない。



 仕事が早く終わればさっさと会社を出るだろうし、相手の女にせっつかれれば仕事が片付いてなくても会社を出るだろうし。



 もしそうだったら無駄足もいいところ。



 そんな事になったりしたら、笑うに笑えない。



 来る時まではエールに思えていた風の音が、今じゃせせら笑いに思えてくる。



 頭が痛くなるくらい体が冷え切っていて、怒りじゃなく寒さから肩が上がる。



――何時まで待てばいいんだろう。



 もう無理だと諦める時間を決めないままに、通用口に向かって歩き始めた。



 5割くらいの確率で、彌はもう帰ってしまってるんじゃないかと思ってて、そうだったら今以上に惨めな気分になるんじゃないかと思った。



 けど。



 そんな心配はする必要がなかった。



 通用口に向かって歩き始めた直後。



 ギィッと重量感のある音がして、数十メートル先にある通用口のドアがこっちに向かって開いてくる。



 ドクンッと大きく心臓が鳴り、その後の心臓はドキドキドキドキと早鐘のように打つ。



 彌じゃないかもしれないと、なるべく期待しないようにしながら、足を止めて見つめる先。



 半分開いたドアの向こうに、わたしを嘲笑あざわらうかのように楽しげに笑う、女の子の姿が見えた。



 すぐにその子が彌の相手だと分かったのは、首に巻かれてるマフラーのお陰。



 チカチカとする電灯に照らされるマフラーは、彌のマフラー。



 楽しげな笑い声を出す女の子は後ろに振り返ってる格好で、顔ははっきりと見えないけどきっと可愛いんだと思う。



 半分開いたところで止まってたドアがまた動き始める。



 女の子の視線が、後ろから少し斜め後ろに変わる。



 ギィッとさっきよりも長く音を立てて通用口のドアが全部開き、女の子の斜め後ろにいる彌の姿がはっきりと見えた。



 彌が女の子に笑い掛ける。



 二人は目を合わせてるからわたしに気付いてない。



 女の子は手を彌の腕に掛けて通用口から出てくる。



 半分引っ張られるようにして出て来た彌は――



「志乃……?」



――2歩ほど進んでようやくわたしの視線に気が付いた。



 ビクリッと分かりやすいくらいに彌の体が強張こわばる。



 薄暗くても分かるくらいに彌の体は強張った。



 隣にいる女の子はそんな彌を見て驚いたようにこっちに目を向け、わたしの姿を確認するや否や、彌の腕を掴んでる手を離す。



 途端にわたしの中の「怒り」は冷めてしまった。



――バカバカしい。



 自分でも驚くくらいに怒りは完全に消え失せて、こんな事をしても虚しいだけだと強く思った。



 こんな茶番を見る為にここに来たのかと思うと今までの時間を勿体なく思う。



 何も言う気にならないし、何も聞く気になれない。



 ただただ温かいお風呂にゆっくり浸かって体を温めたいと思うだけ。



 だからわたしは何も言わずに踵を返して、来た道を戻り始めたのに、



「志乃!」


 彌の声が追ってくるから、うざったい。



 バタバタと追ってくる足音を聞きながら、それでも止まらず歩き続けた。



 そんなに距離はないからすぐに捕まると分かってても止まる気にはなれなかった。



 これ以上時間を無駄にしたくないし、バカに付き合うつもりもない。



 修羅場なんてバカみたいな茶番を起こす気にもならない。



 だから。



「志乃、」


「言いなさい」


 肩を掴まれ引き止められた直後に、わたしはビシリと言葉を発した。



 無理矢理体を反転させられたわたしの目の前には彌。



 彌と一緒にいた女の子は通用口の前にいる。



 当然居心地が悪いらしい女の子は、絶対耳をそばだててるに違いないのに、顔だけはそっぽを向いて、私は関係ないって態度をしてる。



 でも、関係ない。



 確かに関係ない。



 わたしには端っから、あの女の子は関係ない。



「し、志乃……?」


 わたしの言葉の意味が分からないらしい彌は、焦りの表情に困惑をプラスしてわたしを見つめる。



 そんな彌を睨み上げ、



「言いなさい」


 わたしは言葉を繰り返した。



「し――」


「はっきり言いなさい」


「あの、」


「わたしに別れようって言いなさい」


「え……」


「あんたの中に少しでもわたしに対して情があるなら、あんたから言いなさい」


「……」


「この2年間がそれなりに意味があったんなら、あんたから言いなさい」


「……」


「言い訳はしなくていい。説明もしなくていい。ただ一言だけ、別れようって言うだけでいい」


「……」


「それくらい出来るでしょ?」


「……」


「それも出来ないの?」


「……」


「あんたにとってわたしって存在はそうする価値もないって事?」


「……」


「言いなさい」


「……」


「言え!」


「……」


「最後くらいはわたしにちゃんと本音を言え!」


「……」


「言いなさい!」


「……」


「言ってよ!」


「……」


「何で言ってくれないの!?」


「……」


「どうしてそんなに意地悪なの!?」


「……」


「あんたがそうやって言わないから、」


「……」


「あんたがはっきり言ってくれないから、」


「……」


「あんたが終わらせてくれないから、」


「……」


「あんたを嫌いになれないでしょ!!」


 キンッ――と、自分の声で耳鳴りがした。

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