12月に入ってからは、いつ雪が降ってもおかしくないって思うくらいに寒い日が続いて、必然的に銀行回りという仕事が、事務員の中では一番入社が遅いわたしに回ってくる。



 不況の煽りでわたしの会社の事務員は、わたしが就職した翌年から雇用していない。



 だから当分「真冬の銀行回り」の仕事は、わたしの係になると決まってる。



 北風が吹きすさぶ中、お金と通帳が入った鞄を胸に抱き、これでもかってくらいに身を縮めて銀行に向かっていると、



「志乃ちゃん!」


 後ろから声を掛けられ、振り向くと一台の車がスーッと静かに近付いてきていた。



 横付けされた車の運転席の窓がゆっくりと開く。



 そこから顔を出した営業の千石さんは、窓から吹き込んできた冷たい風に小さく体を震わせ、



「どこ行くの?」


「寒いね」と言わんばかりの声を出した。



「銀行に」


「駅前の?」


「そうです」


「俺もそっち行くから乗ってく?」


「いいんですか?」


「いいよ」


 彌の「営業ぶってる笑顔」とは違って、自然な笑みを浮かべる千石さんは、「おいでおいで」と手招きをして中から助手席のドアを開けてくれる。



 前からグルリと助手席の方に回り込んだわたしは、開いてるドアから中に滑り込み、暖房の暖かさに息を吐いた。



 珈琲と煙草の匂いが微かに混じる車内は、お世辞にも綺麗だとは言い辛い。



 後部座席は座る場所がないってくらいに、資料や何が入ってるんだか分からない段ボール箱が置かれてる。



「汚くてごめんな。会社の車だから適当に使ってて」


 思わず後部座席を見てしまったわたしに、千石さんは屈託のない笑みを浮かべて、「出すよ」と一言断ってから車を発進させた。



 さっきまで本当に前に進んでるのかどうかも分からないくらいゆっくりと流れてた景色が、車のスピードが増すにつれ次々と流れていく。



 暖かい車内の窓から見る外は見てるだけで寒くなるほど風が強くて、会社に戻る事を考えると憂鬱になった。



「にしても」


 千石さんに話し掛けられ、窓の外をジッと眺めてたわたしが「へ?」と運転席に目を向けると、千石さんはチラリと腕時計に視線を落とし、「珍しいね」と笑う。



 その笑顔はやっぱり彌のそれとは違って、とても自然で親しみの持てるものだった。



「珍しいって何がです?」


「こんな中途半端な時間に銀行に行くってのが」


「中途半端な時間?」


「もう後30分で昼休憩だからさ。休憩終わってから行けばいいのにと思って」


「あー…、ちょっと色々ありまして」


「色々?」


「はい」


「あぁ、分かった。また事務長と喧嘩した?」


「喧嘩はしてません。っていうか、『また』って何ですか?」


「志乃ちゃんが事務長としょっちゅう喧嘩してるって課の中で有名だから」


「喧嘩なんてした事ないです」


「でもしょっちゅう言い合ってるだろ?」


「それは事務長が悪いんです。納品書を言われた通りに作成したのに『俺はそんな事言ってない、君が聞き間違えてる』って言ったり、自分が請求書持ってるはずなのに、わたしに渡したとか言ったりするから」


「でもこの会社で正面切って上司に文句言えるのは志乃ちゃんくらいだよ。普通は理不尽だって思ってても黙ってるもんだから」


「黙ってられない性格なんです」


「俺はその性格いいと思うよ。はっきりモノ言う人って見てて気持ちいいし」


「もしかして嫌みで言ってます?」


「いやいや。褒めてる」


 心外だなって感じのわざとらしい表情を作った千石さんは、



「今もそんな感じで言い合いして出て来た?」


 クスクスと笑いながら問い掛けてくる。



 その千石さんから正面に目を向けて、フロントガラスの向こうの景色を眺めながら「いえ」と小さく答えたわたしは、大きな溜息を吐いて、



「わたしは何も言ってません。事務長がまた訳の分からない事を言い始めてイライラしたから出て来ただけです」


 事の成り行きを説明した。



「何も言い返さず?」


「そうです」


「何で言い返さないの? 体調でも悪い?」


「体調はいたって良好です。何も言わなかったのは無駄だからです」


「無駄?」


「そうです。何を言っても無駄なんで事務長にはもう何も言わない事にしたんです。言うだけ損」


「あぁ、志乃ちゃんってそういうタイプ?」


「はい?」


「こいつもうダメだって思うと文句も言わなくなるタイプ」


「あー…、そうかもしれません。この人の為に口を動かして体力を使うのがバカバカしいって思ったりするんですよね。あと、面倒臭い」


「いるね、そういう人。まさか志乃ちゃんがそのタイプだとは思わなかったけど」


「そうですか?」


「うん。いっつもニコニコ笑ってて明るいから、そういう冷めた部分があるとは思わなかった」


 ずっとクスクスと笑ってる千石さんに目だけを向けると、千石さんが正面を見つめたまま、



「時間も時間だし、駅前で一緒に昼飯どう? 俺が奢るからさ」


 サラッと。



 本当にサラッとそう言うから、思わず「はい」と言いそうになってしまった。



 急に話題が変わった所為もあるけど、言い方が凄く優しくて、よく考えない内に答えそうになってしまった。



 これも「営業」って仕事が作り出す技なのかと妙に感心しながら、



「やめておきます」


「はい」と言いそうになってしまった言葉を呑み込んだわたしに、千石さんはチラリと目を向け口角を上げる。



 そして、



「真面目なんだな」


 意味ありげな言葉を口にするから、「は?」と眉間に縦皺を刻んでしまった。



「他の男と飯食うのは、彼氏に対して後ろめたく思うタイプなんだろ?」


「はい?」


「彼氏。志乃ちゃんには高校から付き合ってる彼氏がいるって聞いたけど?」


「いますけど、それが何か?」


「その彼氏に対して悪い事してる気持ちになるから、飯断ったんじゃないの?」


「ご飯を食べるだけなのに悪い事してる気持ちにはなりませんし、そんな理由で断った訳じゃありません」


「なら、何で?」


「お弁当を持って来てるからです」


「弁当?」


「はい」


「確か志乃ちゃんって実家暮らしだよね?」


「そうです」


「って事は親に弁当作ってもらってんの?」


「いえ。社会人になってからお母さんが作ってくれなくなったんで自分で作ってます。……お父さんの分も」


「料理出来るんだ?」


「出来ないように見えますか?」


「いや、そんな事はないけど」


「そう言ってるように聞こえます」


 その言葉に、「悪い悪い」と笑った千石さんは、スッと顔から笑みを消すと車を止めた。



 どうして止まったのかと外の景色に目を向けると、いつの間にやら駅前に着いていて、



「あのさ、志乃ちゃん」


 ロータリーで停車した車から下りようと、ドアノブに手を伸ばしたわたしに、千石さんは首を捻って顔ごと向けた。



 この距離で――しかも正面から――千石さんの顔を見たのは初めて。



 挨拶したり仕事の事で何度か話した事はあるけど、わたしはいつも長身の千石さんを見上げるばかりで同じ目線になった事はない。



 こうして見ると、千石さんはキッコちゃんが言ってたように格好いい部類に入ってるとしみじみ思う。



 彌とはまた少し違う、大人の色気を纏う部類。



 顔そのものの造りもいいけど、それを増幅させて見せる雰囲気も持ってる。



 多分この人は自分の事を凄く理解してて、どうすればよく見えるかまでも分かってる。



 だからこそ自分の外見にちゃんと合った雰囲気を纏い、自信に満ちた強い瞳をしていられる。



 誰かに作られたものじゃなく、自分で作ったものだから、揺るぎない自信に充ち溢れてる。



 千石さんは、その自信に満ちた瞳でわたしを見つめ、



「本当に俺と飯食うの、彼氏に悪いとかは思わない?」


 自信に満ちた声を出す。



 だけどそこには、



「思いませんけど」


「んじゃ、俺が飯に誘っても平気?」


 腹立たしい強引さも、横暴さもない。



 千石さんの中にあるのは、確信だけ。



「お弁当があるから無理です」


「いや、今じゃなくて今度。しかも晩飯」


「予定がない時なら行けますけど」


「彼氏、怒ったりしない?」


「何で怒るんですか?」


「男と二人で飯に行く事が許せない人もいるでしょ」


「怒ったりしないですけど、二人で行くんですか?」


「嫌?」


「別に嫌じゃないですけど」


「じゃあ、今度誘ってもいい?」


「はぁ」


「ありがと」


 場馴れしてるらしい千石さんは、にっこりと笑う。



 その場ですぐに誘ったりしない、余裕のあるところが流石だと思う。



 車から降りたわたしに「気を付けて」と言った千石さんは、そのまますぐに車を走らせ、仕事に行った。



 走り去る車のテールランプを見つめていたわたしは、駅前が妙に華やかに飾られている事に気付き、クリスマスが近い事を思い出した。




 クリスマスイブまであと2週間とちょっと。



 彌へのクリスマスプレゼントを買うべきなのかとっても悩む。



 買って無駄になる可能性があるからどうすべきなのか悩む。



 悩むのがわずらわしいなら、わたしから終わらせるのがいいのかと――悩む。

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