人間関係において、世間一般では付き合いが長くなると慣れ合いが強くなってしまう可能性が大きいらしい。



 恋人でいえば、会う回数が減ったり、電話の回数が減ったり、優しい言葉を言わなくなったり、分かりやすい気遣いをしなくなったり。



 そして人はそれに対して不満を持つものらしい。



 2年という歳月が恋人として長いのか短いのか、誰かと付き合うのは彌が初めてだったわたしには分からない。



 だけど仮令たとえ長いんだとしても、わたしと彌の間には「慣れ合い」というものはない。



 ただそれは「慣れ合い」というものに代表される事柄が最初からないって事なだけ。



 付き合った当初から、約束をして会うというのは週に1度あるかないかだった。



 電話もお互い滅多に掛けないし、メールもほとんどしない。



 優しさや気遣いに関しても、付き合い始めた頃に恋人だからって特別に優しくしたり気遣ったりする事もなかったから、それらが増えるも減るもない。



 だから付き合いの長さから生じる不満を感じる事はない。



 お互いに楽といえば楽なんだろうと思う。



 それが余計にこの関係を続かせているのかもしれない。



 そんな関係で2年を過ごしてきたから、【今夜、久しぶりに一緒に飯でもどう?】と、会社のお昼休みに彌からのメールが届いたのが、最後に会ってから10日後の事だったけど、いつもの事って感じだった。



【いいよ】と返信すると、【じゃあ、いつもの店に7時に】と1時間の間を開けて返信がくる。



 滅多にない、仕事が忙しいらしい彌とのメールのやりとりは毎回簡潔で、わたしは2度目の返信をしない。



 それも変わらない。



 最初からずっと変わらない。





 いつもの――と言うほど頻繁に来てる訳じゃなく、社会人になってから夕食を一緒に食べる時によく行くってだけで「いつもの」という言葉を使う洋風居酒屋は、彌が営業先の部長さんに教えてもらった、お洒落で料理が美味しいお店。



 品数がかなりあって、雰囲気もいいそのお店は、お酒が飲めない人達にも人気らしく、平日でも結構混んでる。



 テーブル席は4人掛けからしかなくて、2人で行くわたし達がテーブル席に座れる事はほぼない。



 カウンター席に並んで座るのが当たり前になってる。



 だけど今日はたまたまテーブル席に空きが多くて、運よくそこに案内された。



 ザワザワとした店内で、正面にいる彌が半分になった生ビールのグラスをテーブルに静かに置く。



 高校生の頃茶色かった髪は就職活動を機に黒く染められ、前髪を後ろに流すようにしてセットしてある。



 付き合いの仕方は変わらないけど、「彌」という人間は変化してる。



 ビールを飲み、いつの間にか煙草も吸うようになった。



 仕事柄か少し垢抜けた感じもするし、顔付きも微妙に変わった気がしないでもない。



 大人になってきてるって事なのかどうかは分からないけど、確実に成長してるんだろうと思う。



「それで、“キッコちゃん”に何を聞かれたって?」


 ビールで喉が潤ったお陰か声の通りがよくなって、彌の言葉はさっきよりも聞こえやすくなったのに、



「何か色々。彌の年齢とか仕事とか」


 わたしの声は周りのお客の話し声に紛れて消えそうになる。



 それでも彌は何とかわたしの声を聞き取ったらしく、



「何でそんな事?」


 二重瞼の目を細めて笑うと、テーブルの端に置いてあった煙草に手を伸ばした。



「キッコちゃんが言うには、わたしが誰かと付き合ってる事がまず想像出来ないんだって」


「何で?」


「さぁ」


「それで、何で俺の年齢とか仕事を聞くんだ?」


「イメージを固める為にって言ってた。どんな人か想像しやすいようにだって」


「イメージなら、写真見せた方が早いんじゃないか?」


「写真持ってないし」


「高校の卒業式の日、二人で撮ったのあるだろ?」


「あれ、どこに仕舞ったか分かんなくなったから」


「メモリに残ってると思うから印刷しようか?」


「ううん。いい。探せばあると思う」


「“キッコちゃん”の写真は持ってる?」


「うん。家にある」


「んじゃ、今度“キッコちゃん”の写真見せて。いつも志乃の話で聞くだけだから、俺もイメージ固めたい」


 終始にこやかに話す彌のその表情は、社会人になってから見るようになった。



 営業って仕事がどんなものか詳しくは分からないけど、そういう表情を定着させるものではあるらしい。



 穏やかで、どこか押しの強さが垣間見える、独特の笑い方。



 ただそれが、真実「営業」という仕事のみでつちかわれたものなのかは分からない。



 違う要因もあるという事に、わたしは薄々気付いてる。



 要はそれをどちらが先に口にするかって事で、秘め続ける意志はどちらにもない。



「あぁ、そうだ。志乃、タナキって覚えてる? 高校の時、俺がいつも一緒にいた友達」


「……うん」


「そのタナキがさ? 今度プチ同窓会するから、志乃も一緒にどうかって言ってる」


「わたし……?」


「志乃も知ってる奴ら何人かいるし、彼女いる奴は連れてくるらしいから、志乃もどうかって」


「……」


「無理強いはしないけど、時間があるなら一緒に行こう。タナキ、会いたがってるし」


「……何で?」


「ん?」


「何でタナキ君がわたしに会いたいの?」


「卒業してからずっと会ってないだろ? タナキ、しょっちゅう『志乃ちゃん元気にしてんの?』って聞いてくるし、こういう機会がないと会えないから久しぶりに会いたいんだろ」


「……」


「来週の土曜にするって。行けそうなら連絡して」


「……うん」


 いつの間にか落としてた視線は、手元にあるシーザーサラダのレタスを捉えてた。



 無意識に動いてた手は、箸でクルトンを掴んだり離したりしてて、とっても落ち着きない感じになってる。



 だけど彌はその動きを「落ち着きない」とは捉えなかったらしく、



「腹いっぱいになったなら、そろそろ出ようか」


 満腹からの手持無沙汰てもちぶさたと思ったのか、彌はギッと椅子の足を床にる音を立てて椅子を引くと、おもむろに立ち上がって、テーブルの脇に置いてあった伝票を手に取った。



「半分出す」


 静かに椅子を引いて立ち上がると、彌は「俺が払うからいいよ」と笑う。



 それでもわたしは鞄から財布を取り出し、レジに向かう彌の後ろをついて行った。



 同い年の彌と、高校3年のクリスマスイブに付き合ったから、学生としての恋人期間は短かった。



 その短い期間の中で、少ないけどしたデートでは、いつも割り勘だった。



 社会人に成り立ての頃もそう。



 だからそうするのが当たり前だと思ってて、おごってもらおうなんて思った事はない。



 なのに最近彌は当たり前みたいに自分だけが払おうとする。



 誰に教えられたのか知らないけど、



「志乃、いいよ。俺が払うから」


 男が払って当然だって態度をする。



「……」


「外で待ってて」


「……うん。ありがとう」


 割り勘にしようよ――と、言う事は出来た。



 だけどそこまでムキになって言うのは逆に失礼だから、言われるままに店を出たわたしは、外気に当たり、寒さに身を縮めた。



 吐く息は白く、自然と首をすくめるように肩が上がる。



 店先でコートの前を合わせて背中を丸めるわたしの背後にある扉が開き、



「寒いな。中で待ってもらえばよかった」


 流れ出てきた店内のざわめきに混じって彌の声が聞こえ、振り返ると彌は「すげぇ寒い」と言いながら後ろ手に扉を閉めた。



 ざわざわとした雑音が遮断され、「この後どうする?」と言う彌の声がクリアに聞こえる。



「うん」と返事をしたわたしは、一歩前に踏み出し12月の寒空を見上げた。



 高い夜空に少しだけ星が見える。



 地上にある人工の光が邪魔をして微かにしか見えない星は、どこか頼りない。



 おぼろげにしか見えない月は、一本の筆で書いたように細く、それもまたどこか頼りない感じを醸し出す。



「寒いだろ。これ使えよ」


 言葉と共に首に巻かれた彌のマフラー。



 グルグルと適当に巻き付けられたそれは口許くちもとまで覆う。



 鼻の真下にあるそれから、微かにする匂いは、彌が使ってるコロンとは違う、甘い女物の香水の香り。



「で、この後どうする?」


 その質問が、この後ホテルに行くかどうかを聞いてるって意味なのは付き合いの長さから分かってる。



 だからわたしは、



「今日は帰る」


 マフラーに鼻を埋めて俯き加減でそう答える。



 答えたわたしに、「じゃあ、駅まで送る」と彌は笑って歩き出し、その後ろをついて行くわたしは、駅に着いたらマフラーを返そうと強く思う。



 別れが近い事は分かってる。



 別れの話をどっちが先に切り出すのかの問題なだけで、カウントダウンはもう始まってる。



 それに関しては何も思わない。



 早いか遅いかってだけで、そうなる事は分かってた。



 だけど、別れ話が出るまでの期間を都合のいいセフレ関係のように使われたくなくて、彌がヤりたい時にいつでもヤらせるような女に成り下がるつもりもないから、何度かに一度は彌の誘いを断ってる。



 好きでも嫌いでもない彌と付き合ってるわたしにも、それくらいのプライドはある。



 ただそれを、彌が気付いてるかははなはだ疑問。




 夜空を見上げると、月が雲に隠されてすっかり見えなくなっていた。

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