9
また当たり前に彌から何の連絡もないまま、特別何も起こらない日々が続いた。
珍事として起こった事といえば、何も言わなくなったわたしに対して事務長が妙に顔色を伺ってくるようになったくらいで、年末が近付き
会社という所は、近付いてくるクリスマスよりも、そのすぐ後にある年末に向かってバタバタとする。
そんな風に、仕事に終われる毎日を過ごしていたから忘れてた。
忘れてたというよりは、「ない」と思ってて記憶に止めるまでもないと思ってたのかもしれない。
だから正直、昼一で在庫確認の為に倉庫に向かってた時、
「志乃ちゃん、明日どう?」
小走りに近付いてきた千石さんの、その質問の意味が分からなかった。
天気のいい午後。
空気は冷たいけど太陽の日差しは暖かく、風さえなければ心地好い。
その心地好い日差しに似た笑顔を維持したまま、
「あれ? もしかして忘れてた?」
千石さんは、ポカンとしてるわたしを見て小首を傾げる。
「えっと……」
「あー…、マジで忘れてる?」
「……」
「忘れてんだ。ショック」
そうは言うものの、顔は笑ったままでショックを受けてはいなさそうな千石さんは、
「この間、飯誘うって行ったの覚えてない?」
特別気分を害した様子もない。
まるでそうである事を予想してたかのようにニコニコとして、
「あぁ、それ本気だったんですか?」
「そう言われるんじゃないかと思った」
口を大きく開けて笑った。
「俺の誘い冗談かと思ってた?」
「冗談っていうか、社交辞令かと思ってました」
「残念ながら本気」
「残念とは思ってないですけど、わたしでいいんですか?」
「うん。志乃ちゃんがいいんだ」
「明日?」
「そう。22日だけど空いてる?」
「空いてますけど、どうして明日?」
「明後日から3連休だし、休みの日にわざわざってのも悪いじゃん。しかもクリスマスだし」
「クリスマスだと何か?」
「予定あるでしょ?」
「特にないですけど」
「よく言うよ」
クスクスと笑みを
別に何の予定もないから断るつもりはなかったけど、そうニコニコと笑って誘われると普通断り辛い。
どうしようかと迷ってたら、笑顔に釣られて「はい」って言ってしまうだろうし、断ろうと思ってても、そんな事思う必要はないのに申し訳ない気がしてしまう。
真実計算ずくの作戦なのか、天然的要素なのかは分からないけど、流石だな――と妙に感心した。
「クリスマス過ぎたら俺が仕事忙しくて無理になるしさ。だからって年明けまで待つのは長すぎるし。そういう訳で明日どうかなって誘ったんだけど」
「なるほど」
「で、空いてるって事はオッケーって事?」
「はい。いいですよ」
「じゃあ、明日」
言いながら千石さんはポケットに手を入れて、「一緒に出ると同僚に冷やかされるから」と、取り出した店の名刺をわたしに渡した。
「8時に予約しておく」
終始笑顔を貫き通して約束を取り付け営業先に出掛ける千石さんの背中を見つめるわたしは、千石さんが誘ってきた理由を何となく察してるからか、少しだけワクワクした。
勝手な憶測だったけど、クリスマス直前っていうのも手伝って、千石さんが予約した店は洋風な所だと思ってた。
渡された名刺にも店名が英語で書かれてたから、すっかりその気になってただけに、店に行って驚いた。
千石さんが予約してくれてたのは大きな小料理屋さん。
店名もただ『
ちゃんと読まないで字面だけでイメージを作ってただけに、店の前まで行った時は間違えたのかと思ったくらいだった。
ひと目でそれと分かるくらいに和な造りをしてるそのお店は、タナキ君の料亭ほどではないけど立派な構えで、扉を開くとカウンター席は無く、全てが小さな個室になっていた。
入口から奥へとズラリと並ぶ障子の数は圧巻で、通路を挟んだ反対側に椅子の設置してないカウンターがある。
その向こうには料理人たちが料理を作ってて、大きな
店員さんに案内されて店の奥へと進み、開けられた障子の向こうには
「今日、直帰出来たから思ったよりも早く着けてさ」
そう笑う千石さんは、まだ飲み物も頼んでいないし、テーブルの上にはお通しっぽい物すら置かれてなくて、随分と待たせたんなら申し訳ないなと思った。
「このお店、よく来るんですか?」
生ビールとチューハイのレモンを頼んで、案内してくれた店員さんが下がってすぐ、備え付けのハンガーにコートを掛けながら問い掛けると、「まぁ、たまに」と返事がくる。
笑って言われたその返事に、「そうなんですか」と答えながら卓を挟んだ反対側に腰を下ろすと、
「密会にはいい場所だろ?」
千石さんは
「という事は、たまに密会に使ってるって事ですね?」
「そうきたか」
「密会する相手がいるんですね」
「仕事でね。商談とか接待とか、そういう時に使ってる」
「私生活では使わないんですか?」
「密会したい相手はいるんだけどね」
「へぇ」
「志乃ちゃんは意地悪だな」
クスクスと笑った千石さんは、「分かってて言ってるだろ」と目尻を下げる。
大人っぽかったり、子供っぽかったり、コロコロと表情を変える千石さんは見てるだけで楽しい。
「分かってなくもないです」
「ほら、意地悪だ」
そう言って、千石さんが満面の笑みを浮かべた時、障子が開いてようやく飲み物とお通しが運ばれてきた。
「そういえば、キッコちゃんに聞いたんだけど」
千石さんがそう言ったのは、2本目の熱燗が運ばれてきた直後。
日本酒が美味しいと有名らしい『陽炎』で、千石さんは二杯目から熱燗を飲み始めた。
「酒は強いから安心して」と、元々何の心配もしてなかったわたしにそんな事を言う千石さんは、わたしよりも色々な事が気になってるらしい。
「何を聞いたんです?」
「志乃ちゃんの彼氏の話」
「いい話じゃなさそうですね」
「まぁそれは、受け取り手次第じゃないか?」
食事がほぼ終わった卓の上は随分と片付けられ、残ってるのは漬け物の盛り合わせと、焼き鳥が何本か。
わたしの前には最初に頼んだチューハイが、まだ3分の1ほど残ったままになってる。
「彼氏、浮気してるんだって?」
追加で何かを頼むつもりなのか、千石さんはメニューを開き、そこに視線を落として何気ない感じで聞いてくる。
だけど質問の内容的には、どう頑張っても何気なくはなりきれなくて、少しだけ部屋の空気が重くなったように感じた。
「浮気かどうかは分かりません」
「うん?」
「本気の可能性もあるでしょ?」
「まぁ、そうだな」
「むしろわたしはそっちの可能性の方が大きいと思ってます」
「だから、別れが近いと?」
「そうです――って、キッコちゃんそこまで話してました?」
わたしの問いに、苦笑いを作った千石さんは、「悪気があって言った訳じゃないだろうから、勘弁してやって」と、まるで自分の粗相のように謝ってくる。
でもわたしは最初から怒ってないし、人に話した時点でいつかはどこかに漏れる話だと思ってはいた。
人の口に戸は立てられない――と、それは本当にそうだと思うし、それがお喋り好きのキッコちゃんなら尚更そうだと思う。
千石さんの言う通り本人に悪気はないんだろうし、わたしも口止めをした訳じゃない。
だから「別に怒ってません。本当の事だし」と半分笑って答えると、千石さんは「苦笑い」の「苦」を消し、「そっか」とさっきまでと同じ笑みを浮かべた。
――ただ。
「でも今の話聞いて、ちょっと不思議に思った」
その笑みはスッと煙に巻かれたように消えた。
真剣な――ってほどでもないけど、神妙な面持ちをした千石さんは、少し下にズラしたメニューの向こうからわたしを見つめる。
そして、
「不思議?」
聞き返したわたしに「うん」と返事をしてお猪口に入ってたお酒をグイッと飲み干し、
「キッコちゃんから話を聞いた時、浮気だから我慢してるのかと思ってたからさ」
コトンとわざと音を立てるようにして、お猪口を卓に置いた。
「我慢?」
「うん。だってさ。マジで彼氏が本気で他の女を好きになったと思ってるなら、普通はこっちから別れ話を切り出したりするだろ?」
「そうですね」
「なのに志乃ちゃんから言わない訳だろ? だから浮気を我慢してるのかなって思ってたんだよ。キッコちゃんたちには強がって、別れが近いって言ってるだけかなって」
「強がってはいないです」
「みたいだね。話聞いててそう思った。だから何で自分から言わないのか不思議に思ってさ。まぁ、事情はよく分からないし、それだけ彼氏の事が好きなのかもしれないけど――」
「好きじゃないです」
「――ん?」
「わたし、彼の事は好きでも嫌いでもないです」
「なら何で別れない?
「それもあります」
「それもって事は他にも理由がある?」
「はい。一番の理由はそれじゃないです」
「じゃあ、一番は何?」
「願望……かな?」
「願望? 戻ってきて欲しいって?」
「そうじゃなくて、彼から言って欲しいっていう願望です」
「へ?」
「最後くらいはちゃんと言って欲しいんです。それが言い辛い事だと分かってるから余計に。じゃないと今までの時間が本当に無駄になっちゃうから。わたしは彼に誠意を見せて欲しいんです」
「誠意ってどういう事?」
メニューを卓に置いて、話が見えないって表情でわたしを見つめる千石さんに、わたしは小さく微笑んで、チューハイグラスに手を伸ばした。
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