七月(5)

どんなに嫌なことがあっても帰る場所はここにしかないと気づいたのは小学生のときだった。

小学校も学童もいつかは閉まって追い出される。赤いランドセルを背負いながら嫌そうに実家を見つめたことがある。何かの理由で母親と喧嘩して家を飛び出した朝、どうしても家に帰りたくなかった。

まだお母さんが怒っているんじゃないか。私のことを一生許してくれなかったらどうしよう。考えれば考えるほどドアに手をかけられなくなり、時間だけが過ぎていき、家の前に着いたのにドアを開けられなかった。父親が仕事から帰ってきて、梨沙と一緒にドアを開けてくれた。母親も笑顔で梨沙を迎えてくれた。


大人になってから同じことを思うなんて、あの時は想像もしなかった。

今は誰も助けてくれない。自分でなんとかしなければいけない。


深呼吸をして解錠し、ドアを開ける。玄関は暗く、リビングからは明かりが漏れている。家の中は静かで、子どもたちが寝ていることを察した。

スリッパを履いてリビングへ向かうと、巧がソファで本を読んでいた。リビングもダイニングもそれなりに片付いていた。三人で協力して片付けをしたのだろうか。


「落ち着いた?」


巧が本を置いて梨沙に聞く。落ち着いた?という質問は梨沙の中で違和感として残った。でもなぜ違和感になったのかが分からない。


「…うん。日葵は?」

「あのあと大泣きしたけど反省してたよ」

「そう」

「疲れてたのはわかるし、日葵もわがままだったけど、あんな風に出ていかれたら子どもたちもびっくりするよ。せめて次からは」

「ねえ」


梨沙は巧を睨みつけながら、ご高説を止めた。


「橘さんから聞いたんだけど、あなた海外転勤の話が来てたんだって?」


巧が動きを止めて梨沙を見る。なぜ梨沙がそれを知ったのか、と驚いている。巧の動きを見て、梨沙の表情がさらに硬くなる。


「ずっと断ってたんだって?私が英語喋れないから嫌がっていて、家族を大事にしたいからって周囲に言い訳してたんですって?」


家族を大事にしたいなんてどの口が言うんだろう。子どもたちの習い事にも興味を示さず、学校行事も顔を出さない。面倒なことはすべて義母や梨沙に任せて自分は楽なところだけをやって、家族から逃げているこの人が、なにを言っているんだろう。


「自分の英語力が足りないだけでしょ?なんで私のせいにしてんの?」

「あのさあ」


わざとらしくため息をつかれる。


「それが原因で怒ってんの?だったら子どもに当たる必要なかったよね?」

「今はそんなことを話してるんじゃない!」


日葵に当たったわけじゃない。バーベキューの間中巧に怒っていた。代わってくれないで一人で飲み食いしていた巧。家族を、子どもたちを、梨沙を、ただのアクセサリーのように見せびらかしたかっただけの巧。都合が悪くなると家族のせいにして逃げていた巧。


教えてくれたのは橘だけじゃない。バーベキュー会場で挨拶をして、世間話をした人がいろんなことを教えてくれた。


残業を断って家族のために早く帰宅している。

子どもの体調が悪いと自分が帰宅する。

学校行事もすべて自分がやっている。

同僚に嫌味混じりで「いい旦那さんですね」と言われ、そのすべてに「それは主人の話ですか?」と聞き返した。

巧はいつも家族には「残業があって帰れない」と言っていた。梨沙が仕事をしていても、子どもたちが体調を崩してもそうだった。定時で帰宅したことなんか一年で十日もないはずだ。梨沙が残業続きで忙しかった時でさえ義母にすべてを任せ、巧は協力してくれなかった。


「都合が悪いことは全部私たちのせいなのね?それがあなたのやり方なのね?」


沈黙が流れる。巧は足元を見ていて何も言わない。こんな人だったなんて思いもしなかった。裏切られたという気持ちでいっぱいだった。


「海外赴任の可能性があるって、結婚前に梨沙に言ったの覚えてる?」

「覚えてる」

「海外赴任って言っても、英語圏に行けるわけじゃないんだよ。会社が行けって言ったら基本的に行かないといけない。俺の先輩は中国に行ったし、後輩はタイに行った。梨沙は行けるの?例えば来月からインドに行ってねって言われて、はいわかりましたって、準備して行けるわけ?俺が行きたくないって言うより、家族が嫌がってるって言ったほうが、角が立たないんだよ。それに大事な話も全部俺無しで進めるじゃん。俺だって大事な話を勝手に進めて何が悪いの?」


巧の言っていることが理解できず、梨沙は立ち尽くしていた。巧が言っていることが、頭に入ってこない。


なぜか体育大会でバトンを落とした時を思い出した。今の梨沙はあのときと同じだ。バトンを落としてもすぐに動けなかった十四歳の頃と、二十年近くたっても何も変わっていない。


あの時と違って、隆弘はここにいない。鼓舞してくれる人は誰もいないのだ。

動かないと。歩かないと。何かしゃべらないと。でも何をしゃべるのだろう。


「あなたの言う通りね」?

「そうだとしてもひどいよ」?

「一言相談してほしかった」?


もう、どんな言葉を言っても巧には届かないのだろうと梨沙は悟った。この十年で巧は驚くくらい意固地になり、巧が嫌だと言えば外野がなにを言っても聞かなかった。そのうちみんな巧に期待することを諦め、巧を入れずに物事を進めていった。大事な話を巧なしで進めることなんてない。

子どもたちの習い事も、義母は巧の意見を聞いてから梨沙に相談した。梨沙のところに来た時点ですでに決定事項だった。梨沙が仕事を再開するときも巧に話をして、巧が同意してから決めた。

梨沙の実家に行くときも巧が「体調が悪い」と言ってこなかった。仲間外れにしているのではなく、巧が家族の輪に入らないだけなのに、それをどうして「仲間外れ」と感じたのか。


なんでここまで巧との関係がこじれたのだろう。


梨沙が巧の変化に気づいたら変わっていたのだろうか。今日のバーベキューで梨沙は会社での巧の立場を感じ取った。会社での出世争いに敗れ、会社では家族のために出世コースから外れたと言い訳し、家族には出世コースに乗るために仕事をしていると嘘をついていた。会社で自分の存在を見いだせず、家に帰れば「名古屋から来たお嫁さん」は上手にこの地域や近家に馴染んで巧の立場をなくした。


他の家庭とは違い、梨沙は働いて外の世界に出ていった。外の世界に出た梨沙は巧の薄っぺらさに気づき、次第に期待もしなくなった。そのすべてが巧を意固地にさせたのか。


どこかで立ち止まって、話をすればよかったのだろうか。話し合いをする気がない巧の機嫌を損ねないように、丁寧に話をして、より良い夫婦関係を作ればよかったのか。


「もう、いい」


口から言葉がこぼれ出た。思ったよりも大きな声になったのに、巧はまだ気づかないふりをしている。


「もういいよ。パパの言う通りだよ」


巧は梨沙の言葉には答えず、リビングを出ていく。洗面所のドアが開き、水の音がする。

リビングに一人取り残されて涙がこぼれてくる。私は巧が渡すバトンをちゃんと受け取っていたのだろうか?巧に正しくバトンを渡していたんだろうか。葵が、日葵が渡すバトンを受け取っていたんだろうか。大久保さんが渡してくれたバトン。仲田さんにもらったバトン。義母から受け取るバトン。そのすべてを正しく理解して次の人に渡せていたんだろうか?


たとえ巧にひどく傷つけられても、こんなことで離婚なんかできないのはわかっていた。巧に浮気をされたわけでも、暴力を振るわれたわけでも、家にお金を入れなかったわけでもない。梨沙が巧のことが理解できないだけで、おそらくどこの家庭でもある些細な衝突。

どれだけ泣いても声を上げる訳にはいかない。きっと葵はまだ起きていて、両親の喧嘩の成り行きを見守っている。泣いている姿を子どもに知られたくなかった。


ずっと前、両親が梨沙に聞こえないように喧嘩をしていたことがある。なぜ争っていたのかは聞こえなかったが、温厚な母が声を荒げていたのが恐ろしかった。離婚したら名字は何になるのか、自分は母に引き取られるのか、もう両親は二度と仲良くしてくれないのかと子どもながらに不安だった。


翌朝、リビングの空気は友人の家に泊まった時のようによそよそしかった。そんな空気を一掃するため、いつも以上に明るく振る舞ったが、調子に乗っていると思われた両親にたしなめられた。

私に子どもが産まれたら、こんな思いは絶対にさせたくないとその時梨沙は誓った。子どもに聞こえるように喧嘩をした親も、子どもがわざと明るく振舞わないと成り立たない気まずい朝も、普段梨沙のことを放っておいているくせに、こんな時だけ利用する両親みたいにはなりたくなかった。


明日にはいつも通りにならないと。明日、日葵にごめんねと謝って、葵に心配させてごめんねと伝えて。私はお父さんとお母さんみたいに勝手な大人になんかならないと決めたはずだったのに、両親以上に勝手な大人になっている。


私はどこで間違えたんだろう。


スマホを充電しておこうと思い出し、カバンからスマホを取り出す。いつの間にか隆弘からのメッセージを受信していた。アプリを開いてメッセージを呼び出す。


『あの指輪、昔一緒に見た指輪のデザインに似てるよな。覚えてる?ダイヤみたいな石がついてたやつ』


その指輪のデザインは忘れてしまったが、隆弘とウィンドウショッピングをしたことは鮮明に覚えている。大人になったら働いてダイヤの指輪を買おうと、子どもっぽい約束をした。あの指輪に似ていたから惹かれたのか。だから衝動買いをしてしまったのか。


高校でできた友達と一緒に行った繁華街はすべてが刺激的で新鮮だった。高校生になったことが嬉しくて、大人ぶりたくて隆弘を街に連れ出した。そんなことをしたら受験生の隆弘を追い詰めてしまうと少し考えればわかったのに、あの時は考えることもしなかった。


『四月はまだ、俺にとって特別な月だよ』


梨沙の目からまた涙があふれた。たった今巧に傷つけられたのに、隆弘からのこんなメッセージですべて吹き飛んでしまった。


『梨沙にとってはどうかな』


スマホを右手に持ち替え、結婚指輪しかはまっていない左手の薬指を見つめる。私はまだ隆弘を忘れていないんだ。そして隆弘も、梨沙をまだ忘れていないとわかった。梨沙が勝手に書き換えた都合のいい結末が今、自分の手の中にある。

涙を流しながら、梨沙は返事を打ち込む。


『覚えてるよ。四月は私たちの記念日だからダイヤだね、って言ったよね。私にとっても、四月は特別なままだよ』


「まだ起きてたの?」


洗面所から巧が戻ってきた。もう寝るつもりらしく、パジャマに着替えている。泣き顔の梨沙を見て、巧はうんざりしたような表情を浮かべた。


「もう寝るところ」

「そう。お休み」


お休み、と巧の後ろ姿に声をかけると、巧はリビングを出る前に立ち止まった。


「あのさあ。梨沙は俺の考えてることわかんないでしょ。それでいいんじゃないの?夫婦って言っても、もともとは他人なんだし、全部理解し合ってる方が気持ち悪くない?」

「…それが巧の考えなの?」

「そうだよ。だから俺も梨沙を百パーセント理解できないと思う。それでいいんじゃないの?」


それだけ言うと巧はリビングから出て行った。階段を上る音が聞こえ、寝室のドアが開き、閉まる。巧が言いたいのは、俺の考えが理解できなくてもしょうがないだろうということだろう。だから俺の考えを否定するなと言いたいのだろう。


「…なんだ。だったらいいじゃない」


梨沙が巧を理解できないのであれば、その逆もまた然りだ。梨沙が隆弘とやり取りをしているのを巧が理解できなくても、それは致し方ないことだと、巧が今認めた。


私は家族を裏切っていない。子どもを放っておいて男と会っているわけじゃない。仕事をして、子どものことを第一に考え、家事をして、生活を回している。旦那以外に好きな人がいて何か悪いのだろうか。アイドルにはまっているママ友や、漫画にはまっているママ友と何が違うのだろう。他の人と同じように、私の生活にだって少しの彩りがあってもいいじゃないか。


芸能人や知り合いから不倫の話を聞くたび、みんなどこで相手を見つけるのか疑問だった。バレたときを考えたら家族や職場から離れたところで調達するしかない。でも気がつけば自分の周りは家族関係でがんじがらめになっていた。


隆弘なら萩原梨沙の知り合いは誰も知らない。内田梨沙だった頃の知人だ。誰も気付けない。隆弘と一緒にいるところを見られても、なんとでもごまかせる。


いや、違う。私のこれは不倫じゃない。

隆弘と一線を越えることはこの先もないし、二人で会うこともないだろう。私たちはただ会話をしているだけ。会話をしながらお互いのことを思いあっているだけ。誰からも理解されなくても、それでいい。

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