五月(5)

必要以上に明るいオフィスでは自宅では見つけられない枝毛がよく見つかる。授業中によく枝毛を探していた学生時代を思い出す。きれいに分かれた髪の毛をハサミで切り、最後に美容院に行ってから半年ほどたったことを思い出した。そろそろ髪の毛を切りたい。


学生時代といえば、昨日SNSで見つけたあのアカウントは隆弘だったんだろうか。急に思い出してSNSを開くと、通知が来ていた。投稿にコメントが付いたりリアクションをされていることを知らせるバーに、「リクエストがありました」とある。


Takahiro Sからの友人承認リクエストだ。メッセージもついていた。


『梨沙で合ってる?この前公園で会った隆弘です』


どうやら隆弘も同じことを思ったらしく、一足先にSNSで連絡を取ってきていた。承認リクエストを許可してメッセージを送る。


『合ってるよ!内田梨沙だよ!』


久しぶり、と続けるか、今何してるの?と続けるか。少し考えて文章を打ち込んだ。


『隆弘、元気だった?すごく久しぶりだよね』


SNSが発達した今日、メッセージを読んだら既読となる機能は当たり前になった。梨沙が送ったメッセージは既読にならず、数分待っても「送信済」から変化はなかった。

なにか変なことを送ったのだろうか。何か気に触ったのだろうか。

学生のようにスマホばかり触っているのが惨めになり、スマホをポケットにしまった。本当はカバンの中に入れてしまいたいが、小学校から電話連絡が来ることもあるので手元に置いておく必要がある。


昨日と比べたら穏やかな午後を過ごし、定時で退勤する。電車に乗り込みSNSを開くと、隆弘からメッセージが来ていた。


『なんとか元気だよ。今休憩中なんだ。俺接客業だから休憩時間が毎日違うんだよ。梨沙は何やってるの?会社員?』

『そうなんだね。私はただの派遣社員だよ。下の子が幼稚園に入ったタイミングで仕事に復帰したから、三年目だよ』


送信する前に読み返してみたが、下の子の行はいらないだろう。文章を校正する。


『そうなんだね。私はただの派遣社員で貿易事務やってるよ。毎日名古屋まで通ってるんだ。隆弘はどこで働いてるの?』


送信したら意外にもすぐに既読のマークへとステータスが変わった。返事がすぐに来るかと思ったが、一駅分画面を見ていてもそれ以上の動きはない。きっとメッセージを見た後忙しくなったのだろう。


電車が駅に到着し、高校生の集団が電車に乗り込んできた。彼らは入口付近に円陣を組むように固まり、話しながらスマホを触っている。梨沙が高校生だった時もああやって入口付近に固まっていた。時代も住んでいる地域も、通っている高校さえも違うのに、高校生というだけで同じ行動をするのが不思議だった。

そういえば、明日は晴れるのだろうか。天気予報を確認しようとスマホのロックを外すと、開きっぱなしにしているSNSがメッセージの受信を知らせてきた。


『おかげで休みも不定期だよ。事務ってことはカレンダー通り?』

『貿易事務は本当にカレンダー通りだよ。おかげで祝日じゃないお盆は休めない…』


電車が駅に到着し、高校生が何人か降りていく。入れ替わりにジャージを着た高校生が乗車する。部活帰りなのだろうか、背中には「TRUCK AND FIELD」の文字。陸上部だ。


『陸上部の高校生が電車に乗ってきた。隆弘と話してると、昔を思い出す』


見知らぬ高校生たちの紺色のジャージは梨沙が着ていたジャージと全く違うのに、梨沙を学生時代に引き戻すのに十分だった。あれから二十年もたったのに、まだ昨日のことのように思い出せる。埃っぽいトラック、倉庫に押し込められていたから独特の匂いがあるゼッケン、石灰でラインを引いていた時の感触。部活の時間にあったいろいろな事。思い出が梨沙に襲い掛かってくる。




「梨沙ー。この次走り込みだよー」


すでに練習を始めていたサッカー部に遠慮しながら部活の準備をしていた梨沙に、絵理香が声をかけてきた。クラスは一度も同じになったことはないが、大切な友人だ。


「えー。走り込みかあ」

「文句言わないで。私だってやりたくないよ」


梨沙たちの中学校では、運動部の中でも陸上部はヒエラルキーが一番下だった。強豪のバドミントン、それなりに強いサッカー、強いのか弱いのかわからない剣道部、無駄に部員が多い卓球部と続き、いつも走ってるだけの陸上部だった。従ってトラックの使用権もサッカー部が優先されていた。

当時は「陸上部への迫害だ」と怒っていたが、サッカー部が活動するのにはそれなりのスペースが必要だからしょうがないのだと今はわかる。陸上部にスペースを割り当てても意味がないのは大会結果で証明もされていた。


陸上部で「走り込み」は中学校の敷地内をひたすら走る行動のことを指していた。敷地外に出てしまうと危険なので、敷地の中を大回りで走るだけだ。舗装されている箇所とグラウンドの部分、たまに段差があるので注意して走らないと転ぶ。


「陸上部ー、準備体操するよー」


絵理香が散らばっていた部員に声をかけて集合させる。いちにーさんしー、ごーろくしちはち、にーにーさんしー、ごーろくしちはち。やる気のない声で準備体操をする梨沙たちを見て、サッカー部が「今から準備体操かよ」と聞こえるように嫌味を言う。あれは三組の伊藤だ。去年同じクラスだったが、事あるごとに梨沙のことを馬鹿にしてきた嫌なやつで、クラスが離れた今も梨沙を馬鹿にしてくる。


陸上部が準備体操を終えて走り込みを始める時、サッカー部は二人一組でなにかの練習をしていた。おそらくパスの練習だろうが、梨沙にはわからない。

走り込みのために並んでいた梨沙の背中に衝撃が走り、「痛っ」と声が出た。サッカーボールが足元に転がっている。これが当たったのか。


「わりーわりー。当てちゃったよ」


伊藤が悪いと微塵も思っていない、ヘラヘラした顔で謝ってきた。伊藤はレギュラーメンバーのはずだから、コントロールが出来ずに当たったのではなく、わざと梨沙に当ててきた可能性が高い。下手くそと言ってやろうかと思ったが、こいつに関わりたくない。梨沙は伊藤もサッカーボールも無視して走り出した。


「謝ってんだから返事くらいしろよ!」


伊藤が叫んだが、梨沙はそのまま走り出した。背後でおい伊藤、何やってんだ、練習中だぞと誰かの声が聞こえる。

グラウンドから始まり、校舎裏を通り、体育館裏へ行き、格技場の前を通り、グラウンドの一番外側を走る外周では、陸上部の部員が固まって走る。強豪校になると全員のペースが乱れず同じペースで進むのだが、梨沙たちはすでに一周目の途中くらいからバラバラになる。三年生になって部長になった絵理香は先頭になり、副部長の片岡、二年生が数人、一年生が集団でしゃべりながら続く。梨沙は短距離専門なので外周では一番最後をゆっくり走ることが多い。


「よう」


珍しく隆弘が梨沙の隣に来た。隆弘はいつも先頭集団にいる人間だ。


「珍しいね」

「たまにはお前も先頭走れって、副部長が」


三年生がビリだと見栄えが悪いと言いたいのだろう。大きなお世話だ。


「ほっといてって、言っとく」


体育館裏に来た。ここから舗装されていない道になる。足元を見ながら走っていて、隆弘の左足にテーピングがされているのに気づいた。


「足。どうしたの」

「痛めた」


走りながらの会話だとどうしても単語ごとになる。隆弘が体育の時間にやったバレーボールで足をひねったと知るまで半周かかった。


「無理に、走んなくても」

「だから、お前のペースで走ってる」


目の前を走っている一年のペースが落ちた。よくあることなので黙って抜かす。

半周走っている間にサッカー部の練習が違うものに変わっている。何をしているのかは相変わらずわからない。サッカーのルールは複雑すぎる。隆弘と走っているところを見られたら伊藤になにか言われると思ったが、サッカー部もそこまで暇じゃないらしい。すでに陸上部のことなど歯牙にもかけていない。


「さっき、大丈夫だった?」

「何が?」

「ボール、当たっただろ」


ボールを当てられたことさえも忘れていた。


「平気」


走るたびにポニーテールが揺れ動く。たまに顔に当たってくすぐったい。二周目になると息も上がってくる。話し続けるのが辛くなってきた。


「あいつ、いつも梨沙に、ちょっかいかけるよな」

「先輩」

「内田先輩に、ちょっかい、かけますね」

「別に、平気」


隆弘はまだ息が上がっていない。さすが先頭集団。


「私、あいつ、嫌いだし」

「へえ」


また体育館裏へ来た。隆弘は段差をジャンプで飛び越え、ペースを上げた。足を痛めてるんじゃないのかと聞きたいが声を出したくない。グラウンドに出る頃には、隆弘は遠くを走っていた。



部活は六時で終了となる。六時になってから片付けを行う部活と、片付けを終わらせておいて、六時になったら帰宅ができるかは各部活に委ねられているが、強豪であればあるほど六時まで活動を行う傾向にある。


陸上部はもちろん前者なので、五時半をすぎると片付けに入る。今日の活動は外周だけだったので片付けも特にない。顧問に任命されているはずの教師もやる気がなく、部活に顔を出したり出さなかったりする。顧問は今日顔を出さなかったので、絵理香が六時数分前に部員を集合させ、締めの挨拶をして解散となった。部活後に体操服から制服に着替えるのが面倒で、ほとんどの生徒は体操服で帰宅する。


梨沙も制服を通学リュックに詰め込み校門を出た。絵理香と一緒に帰ることもあるが、彼女は職員室に行ったようだ。今日は一人で帰宅になる。夕暮れになると少し肌寒くなるので長袖のジャージを着て正解だった。

少し歩いたところで後ろから「内田先輩」と声をかけられた。隆弘だった。


「お疲れ様です」

「お疲れ様。足、大丈夫なの」

「大丈夫です。テーピング取りました」

「無茶しないでよ」


まだ五月にもなっていないが、目標は七月にある区大会だ。隆弘は区大会を突破できるかもと期待がかかる選手に分類される。ここで怪我を拗らせたら面倒だ。


「にしても、先輩すごいっすね」

「何で」


今日の外周でも安定の最下位を走っていた梨沙を褒める要素などないはずだ。


「外周終わったあと、先輩だけへばらずに涼しい顔してる」


今日の外周は十周を何セットか行った。ワンセット終わる事に十分ほどの休憩を取った。みんながグラウンドに倒れ込んだり座り込んだりする中、梨沙は立ったまま談笑していた。


「持久力の使い方だよ」


分岐点の横断歩道まで来た。この横断歩道で隆弘は左に曲がり、梨沙は直進する。同じ学区でも方向が違うため、帰りが一緒になるときはここで別れる。

隆弘は曲がらずに梨沙と一緒に横断歩道の信号が変わるのを待っている。


「帰んないの?」

「漫画貸して」


同じ学年だったら漫画の貸し借りは教室に行けば事足りるが、梨沙と隆弘は学年が違う。一年生は三階、二年生は二階、三年生は一階にそれぞれ教室があり、他学年に用があるときはフロアの移動が発生する。それだけならいいが、学校の上靴代わりに使われているスリッパは学年事に色が別れているので、違う学年がいるとすぐに分かるようになっている。梨沙たちの学年カラーは赤色で、学年中で一番ダサい色だ。隆弘たちは青色で、一番マシな色を使っている。


部活で漫画を渡すこともできるが、屋外で活動する陸上部にはなかなかハードルが高い。漫画を借りたければ直接家に行くしかない。

当時学校で流行っていた少女漫画はドラマ化されたことで人気に火がついた。買い揃えようにもすでに十八巻まで出版されていて、中学生のお小遣いではなかなか難しかった。


「いいよ。何巻まで読んだっけ」

「八巻まで」

「いいところだよね。九巻からまた面白くなるんだよ。あのね、主人公がね、」

「ストップ!俺まだ読んでないから」

「そうだった、ごめんね」

「ドラマ観てる?」

「観てる!漫画のイメージそのまんまだよ。泣けるよ。隆弘は観てる?」

「観たいけど、その時間は親がテレビ観てる」

「えー、残念だね」


漫画の話を続けたかったが、前方に中学校の制服を着ている集団が見えた。おそらく唯一ある文化部、美術部連中だ。

梨沙と隆弘は会話をやめた。梨沙は足早に歩き出して隆弘を置いていく。隆弘はわざとペースを落としてゆっくり歩き始める。男女が二人で下校しているだけで「付き合っている」と見なされ、すぐに根も葉もない噂が流れる。


「隆弘ー!」


美術部連中が隆弘に気づき声をかけ、大声での会話が始まる。美術部は今年から新設された部活で、三年生は誰も在籍していない。梨沙に気づいた生徒はいないだろう。ほっとして通学路を歩いた。梨沙の自宅がある近所は少子高齢化を体現している地域で、子どもよりもお年寄りが多く住んでいる。昔ながらの長屋がまだ存在していて、昭和にタイムスリップしたような気になると言われたことがある。


隆弘は無事に梨沙の後ろを着いてきているが、隣には並んでいない。

梨沙はリュックからキーホルダーを取り出し、鍵を開けた。この時間、まだ両親は帰宅していない。あと十分もすればどちらかが帰宅するが、中学生になっても相変わらず梨沙が一番に帰宅する状況が続いている。


「ちょっと待ってて、すぐに取ってくる」

「はいよ」


靴を脱ぎ捨て、二階にある自分の部屋に入る。隆弘を部屋に入れたくないのは、自分の部屋が絵に書いたような子ども部屋だからだ。薄いブルーのストライプの壁紙は小四の時に張り替え、壁紙に合わせてカーテンもブルーを基調としたものに変えた。当時は気に入っていたが、今では子どもっぽいと思うようになった。こんな部屋に隆弘を入れたら馬鹿にされるのが目に見えている。


本棚から漫画を三冊ほど取り出して袋に入れる。漫画を入れるのにちょうどいい袋がなく、仕方なくお気に入りの雑貨屋の袋に入れる。階段を駆け下りていると、玄関から声が聞こえた。母が帰ってきたのだ。あら、隆弘君じゃない、久しぶり。大きくなったのねえ、と母が話しかけている。大人はどうして同じことを言うのだろう。


「お母さん、おかえり」

「梨沙もおかえりなさい。さっきも言ったけど、隆弘君、大きくなったのねえ。何センチなの?」

「178になりました」

「すごい、もうすぐ180の大台に乗るじゃない」


あまり意識しなかったけれど、言われてみれば隆弘は背が高い。小学校で同じ部活をしていたときはそうでもなかったのに、隆弘が中学生になった時にはすでに梨沙の身長を抜かしていた。


「お母さん、隆弘もう帰るから。はいこれ漫画。この袋お気に入りだから無くしたり破ったりしないでね」

「サンキュー。って、袋の心配かよ。まあいいけど。すみません、お邪魔しました」

「はーい、気をつけて帰るのよ」


隆弘は先程来た道を戻っていった。角を曲がって隆弘の姿が見えなくなったのを確認してから梨沙も家に入る。


「隆弘君、久しぶりに見たわ」

「生意気にも大きくなったよね」


梨沙は六年生まで学童に通ったが、隆弘は小学四年生で学童をやめた。部活を始めたのと、塾に行き始めたのが理由だった。学童をやめると保護者がその子どもに会う機会は激減する。母の中で隆弘はまだ小さな男の子だったのだろう。


「もう街で会ってもわかんないわね。梨沙も着替えてらっしゃい」


母がエプロンをして鍋を取り出す。今から夕食を作るのだろう。この分じゃご飯が食べられるのは二十時近くなりそうだ。母は食事にこだわっていて、どれだけ遅くに帰宅しても出来立ての食事を出す。それはいいが、一時間待っても晩ご飯ができていないこともあった。たまには学校から帰ったらすぐにご飯が食べたいと思った。手作りの夕食を食べさせたいと思うのなら仕事をやめて家でご飯を作っていればいいのに、と思う。

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