隆弘

初恋の人はいつまでたっても特別な存在だと昔誰かが言っていた。ドラマだったか、漫画だったか思い出せないけれど、あの時は理解ができなかった。人生経験をそれなりに積んだ今、その言葉を実感できる。


兄弟がいなかった隆弘にとって、梨沙は少し先の未来を見せてくれる人だった。修学旅行、受験の模試、受験など、身近な体験談を聞かせてくれる頼れる存在。滅多にデートなんかできなかったが、学校に行けば姿を見ることはできたし、部活に行けば一緒に過ごすことができたので気にしていなかった。


夏が終わって、梨沙たちは部活を引退したあたりから雲行きが怪しくなっていた。時間ができた梨沙とは違い、部長として陸上部をまとめることになった隆弘は一気に忙しくなった。今までは先輩の言うことに従っていればよかったのだが、今度は自分たちが部を導いていく必要がある。部長である自分と副部長の意見を合わせ、それを一年生たちにも従わせるのは予想以上に大変だった。

西脇絵理香が下級生に嫌われても自分を貫き通していたのはこういうことだったのかとやっと理解した。

何度も壁にぶち当たり、何度も仲間と喧嘩に近い言い争いをした。何とか陸上部がまとまってきた頃、梨沙は卒業した。


なぜかは知らないが、在校生は半分ほどしか卒業式に出席できない決まりがあった。その半数は合唱要員として扱われ、卒業式の練習にも駆り出された。要員に選ばれた隆弘は、寒い三月の体育館で、梨沙が卒業証書を受け取る姿を後ろ側から見た。


内田梨沙、と担任教師から呼ばれ、はい、と響く声で返事をし、壇上に上がる梨沙。いつも見ていた部活の表情とも、二人でいる時に見ていた表情とも違い、間もなく高校生になる女子生徒の顔つきだった。


隆弘はこの時初めて、同じ空間にいるのに、俺はこの場所に残って、梨沙はこの場所からいなくなると理解した。卒業前に梨沙は地元の中堅高校に無事合格し、高校はブレザーだからネクタイの練習をしないといけないとか、自転車通学をするなど、嬉しそうに言っていた。梨沙の部屋には高校で買いそろえた教科書やスクールバッグが準備されていて、何度も行った部屋なのに、知らない人の部屋のようだった。


梨沙が中学生になるときはこんな風に思わなかった。一年すれば隆弘も同じ学区内の中学校に進学するとわかっていたし、すぐに会える距離という安心感があった。

でも今は違う。梨沙の進学先は隆弘の志望校とは異なっている。このまま隆弘が志望校へ合格したら、今までのように校内で姿も見れなくなる。途方もない不安が隆弘を襲った。


四月になり、梨沙と会える日は目に見えて少なくなった。その代わりに今までのように梨沙の家に行くのではなく、土日に二人で出かけることが多くなった。梨沙の私服はどんどん垢抜けていき、中学生の地味な梨沙の影はなくなっていった。梨沙に連れられて地下鉄に乗り、大須や矢場町を歩いていると、高校生くらいのグループがたくさんいて驚いた。

自分の知っている世界とは全く違って圧倒されるとともに、受験生なのにこんなところに来ていいのかとモヤモヤした。自分の知らない世界を当たり前に知っている梨沙がまぶしく、そのまぶしさが疎ましかった。


本当に自分勝手な話ではあるが、自分は受験勉強で苦しんでいるのに、梨沙が新しい世界を謳歌している事実を受け入れたくないと思ったのは事実だ。


だから梨沙が付き合って一年の記念にペアリングを買おうと提案した時、「勘弁してくれ」と思った。ペアリングなんか買っても着けていく場所がない。中学校に着けて行ってもすぐに没収されてしまう。梨沙が見せてくれたアクセサリーショップは隆弘からすれば手の届かない場所だった。ショッピングモールのアクセサリー売り場とは違い、ショーケースに指輪やネックレスが陳列され、きれいな店員たちが微笑みかけながら接客をしてくれる。

お年玉の残りなどとっくになくなっていた。お小遣いを二カ月は使わずに貯めて、やっと一番安価なものに手が届くかどうかで、とてもじゃないが中学生に手が届くものではなかった。


梨沙が気に入っていたデザインの指輪は七千円程度のものだった。キュービックジルコニアがついているシンプルなデザイン。右手の薬指にその指輪をはめた梨沙の表情が一段と明るくなる。素敵ですよ、と店員が梨沙を褒める。いいなあ、かわいいなあ、と梨沙が嬉しそうに独り言を言う。


「俺が買ってやるよ」と言えなかった自分を隆弘は心から恥じた。なんで俺は中学生なんだ。なんで梨沙が欲しがる指輪を買ってやれないんだ。なんで俺はこんなにも子どもなんだ。好きな女の欲しがるものを買ってやれない自分が情けなかった。


梨沙もその場で指輪を買うつもりはなかったようで、二人でなにも買わずに売り場を後にした。帰りの地下鉄で隆弘は指輪について質問をした。


「あの指輪、ほしいの?」

「かわいいよね。ほしいけど、指輪なんかして学校に行ったら没収されちゃう」

「え?高校生なのに?」

「高校生でもアクセサリーは禁止だよ」

「なんだ、そうなのか」


根本的な校則が中学校と変わらないことに安心した。


「私があの指輪を見せたかったのはね、あれについていた宝石を見せたかったの」

「なんで?」

「あの石、ダイヤモンドみたいじゃない?私たちが付き合い始めたのって四月じゃん。この間知ったんだけど、四月の誕生石ってダイヤなんだって。二人の関係の誕生日で、ダイヤみたいな石ほしいなって思っただけ。でも高すぎて買えないよ。いつか、大人になって、二人でお金貯めたらダイヤがついているペアリング買おう」

「梨沙、お前、ロマンチストだな」


どこか冷めた目で現実をじっと見つめていた中学生の梨沙からは想像もつかない言葉で、隆弘は思わず笑ってしまった。


「いいよ。二人で働いて立派なダイヤがついているペアリング買おう」


夏休みに二人は破局して、梨沙が提案した可愛い約束は果たされることはなかった。スランプに陥った隆弘は高校生になった梨沙と向き合うのが怖くなり、受験に集中したいと言って一方的に別れを告げた。話し合いたいと泣く梨沙を無視して連絡を絶ち、受験勉強に集中した。猛勉強の末志望校に合格した後、梨沙に連絡を取ったが、梨沙はメールアドレスを変更していた。「宛先不明」で返ってきたメールを見て、梨沙が完全に別の世界へ行ってしまったことを思い知った。



そんな昔の甘酸っぱい思い出が呼び起されたのは、梨沙が久しぶりに更新したSNSを見たからだ。自分へのご褒美で指輪を買ったとコメントともにアップされた写真。

梨沙が何気なく選んだデザインなのか、それともこういうデザインがもともと好きなのかはわからない。結婚指輪の上にある新しい指輪は、あの時買えなかったペアリングのデザインに似ていた。


高校を卒業し、大学受験で失敗し、滑り止めで入った大学で知り合った奈緒美と付き合いはじめ、そのまま結婚した。奈緒美は不満があったら腹の中にため込まずポンポンと口に出すタイプで、「察して」と怒る人ではなかった。女性の気持ちを察することが苦手な隆弘にはとっつきやすく、一緒にいて気が楽だった。自分のキャリアを大事にしたいと主張した奈緒美の希望もあり、キャリアを確立してから子供を持った。


もう一人子供をと考えたが、年齢や仕事のこともありこれ以上は難しいだろうという空気が夫婦間に流れている。

自分のキャリアをあきらめ、家庭に重きを置いた自分の選択が間違っているとは思っていない。日々成長していく沙織の姿を見るのはこの上ない喜びだし、愛している女性がやりたいことをやって嬉しそうにしている姿を見ると隆弘も嬉しくなった。けれど社会で活躍している同級生の話を聞くと、本当に自分の選んだ道は正しいのだろうかと考えることもあった。


そんな時、地元の公園で梨沙と再会した。外見は梨沙の母親にそっくりだが、中身は相変わらず内田梨沙のままで、隆弘を一気に中学二年生にタイムスリップさせた。ひどく自分勝手な別れ方をした隆弘を責めるわけでもなく、昔と同じように接してくれた梨沙に救われた。

沙織が途中でぐずったため連絡先も交換できずに終わったが、ダメもとでSNSを検索したら梨沙を見つけた。ダイレクトメールでやり取りをはじめたのはただの挨拶のつもりだったが、久しぶりに昔の知人と話すのは予想以上に楽しく、隆弘の生活の中でささやかなスパイスとなった。


もし梨沙とあの時別れていなければ違う未来があったんだろうか。

あの時、指輪を買っていたら、梨沙との関係は何か変わっていたのだろうか。


そんなことを考えながら隆弘はスマホをロックし、休憩室を後にした。

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