七月(1)

仲田さんが在宅勤務から戻ってきたのは七月第二週だった。いつものように梨沙が出社したら仲田さんの席にパソコンが戻っていて、ゆったりしたワンピースを着た仲田さんがキーボードを叩いていた。


「おはようございます」

「おはようございます。萩原さん、長い間不在にしててすみませんでした」


そう言って仲田さんは梨沙に小さな包みを渡した。


「萩原さん、このコーヒー好きでしたよね。よかったら飲んでください」

「気にしなくていいのに。でもありがとう」

「大久保さんが退職されたって聞いて驚きました」

「ご家庭の事情みたいですよ」


梨沙もパソコンの電源を付け、メールをチェックする。始業時間まであと十分ほどあるので、この時間にコーヒーを淹れに行こうかと思っていたら、社内チャットが届いた。仲田さんからだった。


『萩原さん、この間は取り乱しちゃってすみませんでした』


この間とは何の事だろうと思ったが、トイレで仲田さんがパニックになっていたことかと理解した。あれから一カ月程度しかたっていないのに、随分昔のことに思える。


『あの後、彼と話をして、赤ちゃんを産むことにしました』


思わず斜め前に座っている仲田さんの顔を見るが、彼女は黙ってパソコンに向き合っている。


『おめでとう!よかったよ、心配してた』

『私たちまだ若いし、未熟だし、社会経験もそんなにないんですけど、でも』

『うん』

『せっかく授かった命を私たちの勝手で終わらせるのも何か違うって話になって。復帰したんですけど、また不在にしてしまいます。ご迷惑おかけします』

『気にしないで。おめでたいことなんだから堂々としてればいいんだよ。何かわからないこととか、体調が悪いときはすぐに教えてね。できる限りカバーするから』

『ありがとうございます』


始業時間になり、朝礼が始まる。係長から仲田さんのことが連絡され、全員が驚いた表情を浮かべた。仲田さんの表情はどこか晴れやかだった。



仲田さんの体調は完全に回復していないとはいえ、オフィスに人が一人いるだけで梨沙の業務はかなり楽になった。仲田さんの抱える案件が必然的に少なくなったためか、積極的に電話対応や来客対応を行ってくれた。仲田さんのおかげで梨沙の業務はかなり捗り、久しぶりに定時で帰宅ができた。


たまには贅沢してデパ地下のお惣菜でも買おうと決め、駅にあるデパートへ向かう。葵の好きなトンカツ、日葵の好きな卵焼き、自分が好きなサラダなどを少しずつ買っていたらいつの間にか両手はいっぱいになっていた。買いすぎたと少しだけ反省して、人込みをすり抜けて上りエスカレーターへ向かう。


乗るエスカレーターを間違えたと気づいたのは、アクセサリー売り場に出てきてからだった。平日夕方のアクセサリー売り場は独身のOLや大学生であふれていて、カップル連れも何組かいる。それでも休日と比べると客数が少ないのか、ショーケースの中にいる店員たちが手持ち無沙汰にケースを磨いたり陳列を直したりしている。


流行りの洋服を着た若い子たちに囲まれ、エコバッグに入った総菜を持っている自分がひどく場違いに思える。私だって十年前はあっち側だったと自分に言い聞かせ、足早にフロアを横切る。ショーケースの中にあるアクセサリーたちは色とりどりに光っていて魅力的だった。アクセサリーを使わなくなってからどれくらいたっただろう。仕事に復帰してやっとピアスを着けるようになったが、子どもが生まれてから、ペンダントも、ネックレスも、ブレスレットもしなくなっていた。宝飾品自体、いつの間にかほしいと思うことがなくなっていた。


だからその指輪が梨沙の目に留まったのは全くの偶然だった。


時間を確認するため左手首に目をやった先に、ダイヤだろうか、キラキラと輝く石が付いた指輪が陳列されていた。もう少し見てみたいと思い、ショーケースのそばに行く。


「いらっしゃいませ。何かお探しでしたらお出しいたしますので」

「いえ、見てるだけです…」


答えながらも梨沙はその指輪に目を奪われていた。ゴールドがきれいだ。店員もすぐに梨沙の目線に気づき、「こちらの指輪ですか?先日販売された夏の限定品です」と言いながらショーケースから指輪を出した。


「よろしければお試しください」


繊細な細身のデザインの指輪をそっと持ち、結婚指輪の上に重ね付けする。結婚指輪と同じゴールド素材のため、違和感なく見えた。よくあるデザインのはずなのに、なぜか懐かしい気持ちになる。


「素敵です!細身のデザインなので、お客様の結婚指輪にきれいに馴染んでいますね」


仲田さんと同い年くらいだろうか、若い店員が嬉しそうに指輪について語るが、梨沙はその半分も聞いていなかった。値段を見ると、二万五千円とある。奇しくもその金額は、数日前に確認した自分の給料明細にあった残業代と同じ金額だった。あんなに大変な思いをした労働の対価が二万五千円か、と悲しくなった。


この二カ月、大変な思いをしていたんだから、そのお金を使ってこの指輪を買ったって誰も怒らないんじゃないか。


萩原家の家計は共通の口座に巧と梨沙が決まった金額を入金し、そこからやりくりしている。梨沙は巧の給料を何となくしか知らないし、巧も梨沙の給料は知らないだろう。巧に「この指輪が欲しい」と言えば、巧は詳細を聞かずに「買っていいよ」と言うだろう。俺の稼いだ金で余計なものを買いやがってと言われたことなど一度もない。


ただ、梨沙はこの指輪を自分のお金で買いたかった。「萩原巧が妻の梨沙に贈った指輪」ではなく、「萩原梨沙が自分で買った指輪」として手に入れたかった。


「すみません、これ、ください。このまま着けて帰っても大丈夫ですか?」

「ありがとうございます。もちろん大丈夫です。今ケースなどお包みしますね」


空っぽのケースをきれいにラッピングしようとする店員を止め、本当に急いでいるから袋にだけ入れてほしいとお願いした。慌ただしくクレジットカードで決済をし、そのまま売り場を後にして、名鉄乗り場へと急ぐ。名鉄電車に乗り、西尾駅までの間、梨沙は指輪を眺めていた。


十年。


結婚して、子どもが生まれて、アクセサリーを自分で買えるようになるまで十年かかった。内田梨沙から萩原梨沙になってから十年で、私はいろいろなものを失って、いろいろなものを手に入れた。誰が共感してくれるだろう。誰が私の気持ちを分かってくれるだろう。


スマホを取り出し、揺れる電車内でさっき買ったばかりの指輪の写真を撮る。電車の揺れのせいでうまく撮影できず、何度か挑戦してやっと納得がいくものが撮れた。いつも隆弘とメッセージをやり取りしているSNSを開き、写真を付けて投稿をする。


『一目ぼれした指輪買った!衝動買いだけど後悔してない』


指輪のケースや保証書は自宅ではなく、グローブボックスへ入れた。週末にクロゼットへ移動させよう。せめて今週だけでも、自分だけのものにしておきたかった。

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