六月(8)

「どうかしたの?」


子どもたちを寝かしつけたあと、梨沙はダイニングで雑誌をめくっていた。通勤服の参考になるかと思って少し前に買ったファッション雑誌だったが、子持ちの母親にとっては何一つ参考になるファッションはなかった。さっさと捨てればいいのに、なんとなく捨てるタイミングを失っている。


「なにが?」

「ページめくってないから。なにか欲しいの?」


梨沙が開いていたページは「モデルのバッグの中身を拝見します」と書かれたページで、ブランドバッグに詰め込まれた私物が載っている。こんな小さなバッグを持てる時代は終わってしまったし、何十万もするブランドバッグを買える時期でもない。そんなお金があったらまず貯金する。


「そのバッグかわいいんじゃないの。来月にはボーナスが出るし、買っちゃってもいいんじゃない?」


巧は最近人気が出てきた女優のバッグを指差す。私物紹介のページだからバッグの値段が書いていない。


「このバッグ、五十万はするよ」

「は!?こんなちっこいのに?」

「ブランドだから。ボーナスがあっても無理だよ。それに今欲しいものはないから大丈夫」

「本当に?バッグは無理でも、なんか欲しいものあったら言えよ」


ありがとうと言ってまともに読んでもいなかった雑誌を閉じた。巧が梨沙の正面に座り、TOEICの参考書とノートを広げる。


「TOEIC受けるの?」

「受けさせられるんだよ」


巧の会社ではある程度の年齢までは一定のスピードで昇進するが、そこから先は社内試験の合格やTOEICのスコアが必須となってくる。巧の年齢を考えると、彼の昇進スピードは若干遅いと義母から聞かされたことがある。巧の仕事ぶりについては知らないが、彼の性格を考えると、昇進が遅い理由も納得できる。


巧の参考書は600点を目指すものだった。彼は英語が得意ではないので、TOEICは鬼門だろう。知らないうちにTOEICも色んな種類が出ていて、試験内容も少しずつ変わっている。


「私も久しぶりに受けてみようかな」

「いいんじゃないの。一緒に勉強する?」

「考えておく」


家事に育児に忙しい梨沙がTOEICを受験しても巧には敵わないと思っているようで、巧は「無理すんなよ」と言って問題に向き合い始めた。

邪魔しちゃ悪いからお風呂行ってくると言い訳をしてダイニングから逃げ出した。


梨沙が最後に受けたTOEICは十年程前ではあるが、スコアは現在巧が目指しているものより遥かに高かった。結婚するまで勤務していた会社の規模は小さかったけれど一応商社で、梨沙は当時海外とのやり取りを任されていた。英語を忘れないために自発的にTOEICを受験していた。巧にもそう伝えた記憶があるが、きっと本人は忘れている。


今の梨沙の仕事も、世界に散らばった支店の人間とやり取りをしているから英語を使用しているのに、なぜ自分のほうが優れていると思えるのかがわからない。

昔は気にならなかったが、最近巧は何かにつけて梨沙より自分のほうが優れていると言いたげだった。

大企業の正社員である巧は社会的ステータスも信用も梨沙より上だ。だが、そのステータスを享受して働けるのは、梨沙や義母が家事育児を担っているからだ。面倒くさい近所付き合いも、PTAも、子どもの習い事も、巧はノータッチだ。巧のほうが早く帰宅しても夕食の準備ができず、お腹が空いたと喚く子どもたちに何もできず当たり散らしていたこともある。男というだけで「やらない」選択肢をもらえていいわね、と何回も言いかけた。


お風呂から出ても、巧はまだ参考書に向き合っていた。ダイニングテーブルに放置していたスマホを取った時、問題が見えた。前置詞を問う問題で、梨沙が見た限り巧が選択した答えは間違っていた。口を出すのも面倒だったのでスマホを持って洗面所に戻る。

髪の毛を乾かしながらスマホを見ると、隆弘からメッセージが来ていた。沙織の保育園では、かたつむりの工作をしたらしい。二歳児らしい作品の写真が送られていて、思わず微笑む。返信メッセージを打ち込んだあと、少し考えて文章を続けた。


『旦那がTOEICに挑戦するみたい。私も久しぶりに受けてみるつもり笑』


隆弘は知っているけれど巧は知らない、秘密とも言えない事実がまた一つ増えた。伝え忘れてた、ごめん、と言い逃れができるような小さな秘密。


小さい秘密を積み重ねたらいつか不倫だとなじられるのだろうか。私のこれが不倫なら、巧がやっていることはなんだろう。妻と自分を比較して、自分のほうが優れていると暗に示しているのはモラハラになるんじゃないのか。


髪の毛を乾かし、リビングに戻ると巧が問題の答え合わせをしていた。先程の問題はやはり間違えていて、少しだけ溜飲が下がった。


先に寝ると伝えたが、集中している巧には聞こえていないようで返事はない。気にせず二階の寝室に向かうと、葵の部屋から足音が聞こえる。もう寝ると言って自室に言ってから一時間は過ぎている。まだ起きていたのかと呆れるが、思春期に足をつっこみはじめている息子に口うるさく言っても意味がないだろう。あえて気づいていないふりをして、日葵の部屋に入る。日葵はベッドの上で布団を蹴飛ばして寝ていた。小学校入学を機に子ども部屋を与えるのは早いと思っていたが、こうして一人で寝てくれるならなんでもいい。梨沙の両親に買ってもらったシステムベッドは机とベッドが一体化していて、机とベッドを別々に購入するより部屋に統一性が出た。ベッドもそこまで高さがないので安心できる。


布団をかけたそばから日葵はそれを蹴飛ばす。部屋が少し暑いのだと気づき、換気扇をつけた。週末にでもタオルケットを出しておこう。


寝室に入り、ベッドに寝転がる。大したことをしていないのにとても疲れていた。目を閉じるとすぐに眠れそうだった。

一人で寝るダブルベッドは広くて快適だ。隆弘が上がってくる前にさっさと寝てしまおうと考える前に、梨沙は眠っていた。




大久保さんが今月いっぱいで退職することが正式に決定し、またミーティングが行われた。代わりの派遣社員を募集すると係長が伝えたが、それまでは梨沙や他の社員で大久保さんの仕事を引き継ぐことになる。大久保さんが退職するまでに補充が間に合えばこの限りではないが、そんな奇跡が起こることはないと全員が知っていた。


大久保さんが抱えている担当が予想より少なかったのは幸運だったが、梨沙の負担が一気に増え、残業をする日が少しずつ増えていった。残業時間は一日に多くて三十分程度だったが、慣れない業務と慣れない残業で疲弊していき、心がすさんでいくのがわかった。葵と日葵の対応もどんどんおざなりになり、家でイライラすることも増えた。つまらないことで二人を叱りつけては毎日後悔した。


なんとか仕事を覚え、一人でも回せるようになった頃、大久保さんは退職した。最終日に二人でランチを食べた時、大久保さんからプレゼントをもらった。


「萩原さんっぽいって思って買ったんだけど、イメージが違ったらごめんね」


お礼を言って開封すると、きれいなハンカチが出てきた。黒字にピンク色の星がプリントされている、女性ブランドのものだった。梨沙が使用している財布と同じブランドのもので、ハンカチが出ていたことを初めて知る。


「嬉しい。大切にします」

「大変な時にいなくなってごめんね」


大久保さんが退職するのは彼女のせいではない。仲田さんが在宅勤務をしているのも、仲田さんのせいではない。しょうがないことだ。


「萩原さんなら大丈夫だよ」


自分では絶対に選ばないような柄のハンカチは、大久保さんからもらった通知表のようで、不思議な気持ちになった。

大久保さんからみた萩原梨沙はどんな人間だったのだろう。

大久保さんから引き継いだ作業はまだメモを見ながら行わないと不安だし、顧客対応も満足にできていない。梨沙の何を見て「大丈夫だよ」と言ってくれたのだろう。


大久保さんと最後に連絡先を交換したが、きっと個人的に約束を交わしてランチに行くことも、隆弘としているように、他愛もない話をすることはないのだろう。職場という鎹がなくなったら切れてしまう縁をさみしく思いながら、餞別のハンドクリームを大久保さんへ渡した。

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