六月(7)

「隆弘と同じ学年になりたかったよ。テスト範囲について話したりとか、修学旅行について話したりとか。受験のことだって」

「アメリカだと九月に学校が始まるから、俺ら同い年になるらしいぜ」

「へえ。一緒にアメリカ行こうか」


隆弘と同じ授業を取って、一緒に下校できたらどれだけ楽しいだろう。実際にアメリカに行けるわけもないのに、考えただけで梨沙は楽しくなった。

ゆっくり歩く通学路はいつもの倍以上時間がかかったが、誰かに見られても言い訳ができるため、梨沙も隆弘も意識してゆっくり歩いていた。できるだけ帰宅時間を引き延ばしたが、家の前に到着してしまった。隆弘から荷物を受け取って鍵を開けるが、なぜか手ごたえがない。玄関のドアを引くと簡単に開いた。


「梨沙!」

「お母さん?」


いつもこの時間には帰ってきていない母が家の中から出てきた。いくらゆっくり帰っていたと言っても、母の仕事はまだ繁忙期だからこんな時間に帰宅していることなどないのに。


「梨沙が部活中に怪我をしたって、学校から電話があったのよ。怪我は大丈夫?」

「うん。学校で手当てしてもらったよ」

「よかった。でもとりあえず病院に行こう」

「えー、転んだだけだしいいよ」

「でも万一のこともあるから…」

「先輩。病院行ってくださいよ。中条先生も言ってたでしょ」


隆弘が後ろから口をはさんできた。母も梨沙も隆弘に気づき、我に返る。


「隆弘君、梨沙を送ってくれたのね。わざわざありがとうね」

「いえ、こう言っちゃ悪いですけど、部活サボれてラッキーだったんで。じゃあ先輩、お疲れ様です」


隆弘を見送った後、梨沙と母で近所の整形外科へ向かった。やっぱり擦りむいただけで大した処置はされずに終わったが、後日伊藤の両親と梨沙の両親で話し合いが行われた際に治療費の清算が行われた。医者に行くことで後遺症などの二次トラブルを防ぐ意味もあるのだと父がこっそり教えてくれた。


日曜日にわざわざ両親と謝罪に来た伊藤は学校で見る姿とは違い、ずっとうつむいていた。梨沙のことを馬鹿にするでもなく、見つめるでもなく、申し訳なさそうに謝ったあとはずっと黙っていた。


大人たちは当事者である梨沙のことも、伊藤のこともいないかのように扱って大人同士で会話をしていた。もうお気になさらず、と母がにこやかに言うと、伊藤の母親が申し訳なさそうに何度も頭を下げていた。私たちのことを無視するなら、私がここにいなくてもよかったんじゃないの、と思ったが、そんなことを言える空気ではなかった。

それ以来伊藤は梨沙に突っかかることはなくなった。




始業後の朝礼で、仲田さんが体調を崩しているので在宅勤務を行うことが係長より連絡された。いつの間にパソコンなどを運んだのか知らないが、気が付いたら彼女の机はきれいになっていて、残っているのは備品のボールペンやホチキスだけだ。在宅勤務ではあるが体調優先となるため、負担は梨沙や大久保さん、他の社員たちに行く。

仲田さんは辞めるわけではないので、新たな人員補充はない。いつかは戻ってくるからそれまで耐えてほしいと係長が締めくくり、朝礼が終了する。

仕事が増え、午前中は余裕なく終わった。自分だけこんなに忙しかったのかと思っていたが、昼休みになってもまだ何人かは仕事をしていた。チームチャットを見る限り仲田さんはオンラインだが、仕事をしている気配はない。


適当に詰めた弁当をインターネットのニュースを見ながら食べ終わり、コンビニへ行くために席を立った。きっと午後も忙しくなる。お気に入りのインスタントコーヒーを買っておきたかった。

財布だけ持ってオフィスを出てエレベーター前に行くと、大久保さんが追いかけてきた。


「外行くの?」

「はい、コンビニに」

「一緒に行っていい?」

「どうぞ!大丈夫ですよ!」


ビルの外は天気が良かった。ランチ帰りのサラリーマンたちが今日の日替わりは当たりだったと言い合いながら歩いている。お昼休みの街はどことなく開放感がある。コンビニに行く間、大久保さんに「なにを買うの?」と聞かれ、インスタントコーヒーだと答える。コーヒーチェーンのインスタントコーヒーで、高いが美味しいのだと説明する。


「そっか」


梨沙が商品を選び、レジに並んでいる間、大久保さんは別のレジでアイスコーヒーを購入していた。梨沙の会計が終わったタイミングで大久保さんもコーヒーを手に取り、コンビニを後にする。


「仲田さん、在宅になるんだね」

「そうみたいですね」

「さすが正社員だよね」


大久保さんの声が予想外に冷たく、思わず彼女の方を見る。


「私もさ、ずっと在宅勤務したいって言ってるんだけど、この会社は派遣には在宅させてくれないんだよね」


派遣社員が在宅勤務を行うためには派遣元の許可を得る必要があるが、この派遣先は一貫してそれを認めていなかった。


「今は旦那が陸にいるけど、来週にはまた出港するんだ。そうすると、芽衣の体調不良の時とか、保育園の行事とか、在宅勤務で対応できればだいぶ違うんだけど」

「大久保さん、ご自宅って確か大垣の方ですよね」


大垣から名古屋駅まではJRを使えばそこまで遠くないが、強風で電車が止まることも多い。皆事情を知っているから遅刻してもそこまで怒られることはないが、その分時給が減る。大久保さんは減った分を残業でカバーすることもできない。


「そう。芽衣が体調崩すと私が迎えに行くんだけど、帰るのも時間がかかるし」


嫌な予感がした。大久保さんが何を言わんとするのか予想がつく。お願いだから、その予感が外れてほしい。


「旦那と話し合ったんだけど、私、この派遣先を辞めようかと思ってて」

「そんな」

「在宅勤務させてくれるんだったら辞めないけど、多分辞めることになる」

「じゃあこの次はご自宅に近いところで探すんですか?」

「それか、派遣でも在宅できるところかな。この話、四月からずっと派遣会社としてたんだよね。でもやっぱり難しいんだって。私が在宅勤務するんだったら、名古屋だけじゃなくて全社的に派遣にも在宅できるようにしないと駄目だから」


派遣元は大企業で、東京に本社があるが支店は大阪や名古屋を筆頭にいくつもあった。名古屋支店の派遣に認めるなら、他の支店でも認めないといけないのは当たり前だった。


「仲田さんが開店休業みたいになってるときにごめんね。次の契約はきっと更新しないよ」

「大久保さんの契約っていつまでですか?」


派遣社員は人によって契約期間が異なる。派遣会社にもよるが、普通は三ヶ月ごとの更新だ。梨沙は四月から契約が始まったが、大久保さんはいつから働いていたんだろう。お互いの契約期間は時給と同じで、大っぴらに話し合うものではない暗黙のルールがあった。派遣会社が同じならまだしも、梨沙の派遣会社と大久保さんの派遣会社は異なっていた。


「今月いっぱい」

「じゃあ、もう次のところの面接とか」

「それは来週から探すの。今日、派遣会社がこの会社に話をするんだ。その後で正式決定する。…ねえ、仲田さんさ、あの子妊娠してるよね」

「…知ってたんですか?」

「知らなかったけど、予想はつくよ。私だって子どもがいるんだから。仲田さんが悪いわけじゃないんだけど、正社員は妊娠しても大切にされて、私たち派遣社員はそれぞれの事情もなかったことにされるじゃん。責任の重みもその分違うけど、正社員並みに働かされて、でもなにも恩恵がないこの会社に、前から疑問は感じてたんだよね」


派遣社員が正社員になれる、というのは建前だ。この会社にいる限り、派遣社員が正社員になることはない。派遣社員の先輩も何人かこの会社の壁に見切りをつけて辞めていった。正社員になりたいと希望し、正社員になれるような有能な人たちだった。


「旦那と話してて、別にこの会社にしがみつかなくてもいいかなって思ってた矢先に、仲田さんのことがあったから、なんだか心が折れちゃって。私がいなくてもこの会社は回るから、もう、どうでもいいかなって」


大久保さんの表情は吹っ切れたようにも、諦めたようにも見えて、梨沙はなんて言えばいいのかわからなかった。


「なんかごめんね。大変な時に私までいなくなっちゃうから」

「いえ、もうそれは」


会社に戻ってきた。自動ドアをくぐり、エレベーターを呼びつける。


「しょうがないです。誰のせいでもないし」

「強いて言えばこの会社が悪いよね」


大久保さんがエレベーターのボタンを操作する。ドアが閉まり、エレベーターが上昇する。


「違うか。安易に派遣社員になった私が悪いんだな。もっとよく考えて、正社員を辞めなければ良かった」


大久保さんの言葉は、自分自身に向けて言ったのだとわかった。大久保さんはアイスコーヒーを一口飲んで、「もう冷たいのが美味しい季節だね」と言った。



終業後、隆弘へのメッセージを返信するためにアプリを起動する。隆弘とのやり取りは一ヶ月で梨沙の日常になった。最初の頃のように、返事を気にしてソワソワすることも、返事が来ていなくて落ち込むこともなくなった。

梨沙の人生は大きく分けて、子どものこと、家のこと、仕事のことの三つのカテゴリーしか無かったのに、もう一つ「友人」のカテゴリーができた。この一ヶ月で、梨沙は自分の仕事について巧と話さなくなっていた。巧と仕事上の愚痴を言い合えれば少しは気が紛れるだろうが、巧の性格なのか、気づいたら正社員が派遣社員にアドバイスをする構図になっていた。

梨沙が欲しいのは同調で、指図ではない。その違いを説明しても巧はきっと理解してくれないので、「話さない」という乱暴な解決策に落ち着いてしまう。

隆弘は正社員だが、違う店舗にヘルプで派遣されることも多いらしく、派遣社員の気持ちもわかってくれる。

派遣元に冷たくされて腹がたったとか、派遣先によって全然空気が違うとか、そんな些細なことをわかりあえるのは巧ではなく隆弘だった。

すでに隆弘から来ていた沙織のエピソードに返信したあと、追加で新しいメッセージを送信した。


『お世話になってた派遣社員の先輩が辞めちゃう。うちの会社、派遣社員は在宅ダメなの。お子さんとの兼ね合いとかあったみたいで、在宅できないなら辞めるって捨て身の行動したみたい。多分ダメだ。どうしよう、昨日後輩が体調不良で在宅勤務になったばっかだよ』


隆弘がこのメッセージを読んで返信するのはきっと夜だ。それに梨沙が返信するのは翌朝。微妙なタイムラグを挟むよりも、巧に吐き出してスッキリしたほうがいいのはわかっている。だが巧に吐き出したところでモヤモヤが晴れないのもわかっていた。


イヤホンから聞こえる音楽が次の曲に変わった。男性が付き合っている女性の行動を疑ってしまい、そんな自分が嫌になると自己嫌悪に陥っている。付き合っている男性のことばかり考えて自分がなくなってしまうと焦る気持ちは梨沙にも経験があった。そんなことで頭を悩ませられる時代が懐かしかった。


ふと、隆弘と自分の関係は何なのだろうと考える。


隆弘とは昔付き合っていたが、一線は越えていない。隆弘とヨリを戻したいとは思わない。

自分は子どもたちが一番大切だし、この生活を手放したあと、どうなるかがわからないほど愚かではない。巧に不満はあるが、離婚をする程ではない。巧との関係や義実家との関係に息が詰まることも多いが、金銭的に不自由な生活を送っているわけではないので、多少の不満に目を閉じつつママ友と文句を言い合えば少しはスッキリする。


隆弘だって梨沙とメッセージをしているのは息抜きだったり、第三者からの客観的な目線がほしいとか、先輩ママの意見がほしいとか、そんな感じの理由だろう。もし隆弘が不倫を匂わせるメッセージを送ってきたら、その時点で彼をブロックするつもりだ。私は不倫がしたいんじゃない。昔の友人と話がしたいだけ。それがたまたま中学時代の元カレだっただけ。不倫でもなんでもない、ただのおしゃべりだ。


彼とは偶然再会したが、お互いの夫婦仲についての質問はしたことがない。


会おうと提案したことだってもちろんない。今ここで隆弘とのやり取りを全て巧に見せろと言われても、躊躇いなく出すことができる。後ろ暗いことなど何もしていない。


巧がもし元カノと連絡を取っていたらどうだろうと考えた。梨沙が知る限り、巧は自分と結婚する前に何人かと付き合っていたはずだ。いつ付き合っていたのかの詳細は忘れてしまったが、誰かと自分の旦那がSNSで連絡を取っていたとしても、梨沙は気にしないだろう。巧は不倫をできるような器ではない。前に新しいタブレットをこっそり購入していたときも、後ろ暗いことなどないのに、ずっと挙動不審だった。タブレット一つであんな態度を取るのなら、キャバクラに行った時はどうなるのだろう。


巧は、自分の奥さんが元カレと連絡を取っていることを嫌がるのだろうか。


どちらかと言えば、中学生の時に彼氏がいたことに嫌悪されるだろう。どのような付き合いだったとしても、中学生で恋人がいるのは「早い」と言われる。俺より早く彼氏がいたなんて、さすが名古屋っ子は違うねと拗ねたような目で文句を言う巧が容易に想像できた。


いつの間にかプレイリストの曲が変わっていた。日葵が見ていた女児向け番組の主題歌で、K-POPアイドルが日本語で歌っている。キャッチーなメロディが思いの外心に残り、自分のプレイリストに加えていた。

歌詞は韓国語ではなく、日本語だった。私の幸せは私が決める、と終止強気な歌詞が流れている。


私の幸せってなんだろう。今の生活に不満はあるが、すべてを捨てたいと思うようなものではない。子どもを産んだことを後悔した日は一日もない。自宅もあり、衣食住に困ることはない。それなのに、たまにすごく虚しくなる時があった。その虚しさを埋めてくれたのが隆弘だった。隆弘と連絡を取り合うようになってから、些細なことに共感し、過去の思い出話ができるようになった。内田梨沙だった頃を思い出せることが嬉しかった。


もし巧が嫌だと言えば梨沙は隆弘へのメッセージを返信しなくなるだろう。反対に隆弘のお互いの地雷を踏まないように、安全な話題を選んでいる、薄氷の上を歩くような関係。そんな関係でしかないのに、それは不思議と梨沙に安心感を与えてくれた。

巧に言えないこと、大久保さんに言えないこと、ママ友に言えないことを誰かに言える安心感が、梨沙の気持ちをどれだけ救ってくれたのかは自分にしかわからない。


隆弘は休憩時間だったのか、梨沙のメッセージを読んだようで、小さく既読のマークが付く。


『うわ、それ辛いね。仕事が大変になる他に、梨沙の負担も増えるじゃん。お疲れ様。会社もなに考えてるんだろうな。現場を大事にしないのはどこも同じだな』


隆弘が真っ先に大久保さんの話に反応してくれただけで、梨沙の気持ちはかなり救われた。例え思っていなくても、気持ちがわかると言ってもらえるだけで心強さが違う。自分の怒りは間違っていないのだと認識できる。

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