六月(6)

テストが終わった後、部活が再開された。

久しぶりに出た放課後のグラウンドはサッカー部がいなければ清々しいものだった。絵理香から区大会の説明がされ、男女混合リレーにエントリーすること、部活対抗リレーの練習も併せて行っていくことが発表された。いつも外周ばかり行っていたが、


今日から外周を減らして各自エントリーする種目の練習が始まる。

体育倉庫の扉を開けてハードルを出していく梨沙たちをサッカー部が物珍しそうに見ていた。区大会の練習に伴ってサッカー部が独占していたグラウンドを半分借りるとすでに顧問同士で話をしていたはずだが、グラウンドが半分になると紅白戦も満足にできなくなるので、サッカー部としては面白くないのだろう。


主に伊藤が大声で、陸上部に聞こえるように文句を言っていた。サッカー部員たちは伊藤を止めなかったので、おそらくみんな同じような不満を持っていたのだろう。

顧問がいればそんなことはなかったのだろうが、サッカー部の顧問も陸上部顧問の斎藤もその日は不在だった。


「あーあ、どっかの弱小部のせいで俺らが迷惑かけられんの、おかしくねえの?」


ハードルを飛び越える片岡と隆弘の飛び方を揶揄しただけでは飽き足らず、伊藤は百メートル走の練習をしている梨沙と一年に向かって文句を言い続ける。一年の鈴木さんはサッカー部の上級生に文句をつけられているこの状況に完全にビビっている。


「大丈夫。無視すればいいから」

「でも…あの先輩、怖いです」

「弱い犬ほどよく吠えるって思っておけばいいの。あいつ、私のことが嫌いなだけだから、ほっとけばいいよ」


鈴木さんはまだ何か言いたそうだったが、梨沙は無視して彼女にスターティングブロックの使い方を教える。一年生はまだ体育でこれを使っていなかったので、最初に教える必要があった。最初の一本は下手でも練習不足でもまずやらせて、そのあとで各自の弱点を洗い出してから練習を行う。ビビっていてもやらないとそのあとの練習につなげられない。


何とか準備をさせ、絵理香に合図を送る。絵理香がゴールの先にいる片岡に合図をして、タイムを計る準備をさせる。斎藤がいればタイムを計ってくれるが、今はすべて自分たちで行う必要がある。


「位置について」


ミーティングでクラウチングスタートの説明はしたが、話だけ聞くのと実際に行うのでは話が違う。慣れた様子でOn your markの体勢を取った梨沙を見て、鈴木さんが真似をする。最初は誰もが走るスピードよりもスタートの練習を重点的に行う必要がある。鈴木さんも例にもれずそうだろう。


「用意」


Setの態勢を取る。お尻を上げて前を見据えて、ゴールをにらみつける。数十秒後にあのゴールにたどり着いている自分を想像する。

ピッと笛が鳴り、スターティングブロックを勢いよく蹴って走り出す。鈴木さんが一拍遅れて走り出すが、試合ではその一拍が命取りだ。だらだらと外周をしても怒られないが、試合の場では明確に差が生まれる。彼女がそれに気づければいいが、気づく前に泣かないだろうか。


梨沙は百メートルを一気に走ることを三年間続けてきた。その間、先輩や斎藤からいろんなアドバイスを受けてきた。前だけを見ろ、余計なことを考えるな、周りを見るな。すべてのアドバイスを自分なりに消化して実行してきた。アドバイスに従うことで区大会でも予選ならある程度勝てるようになった。


だから、そのアドバイスが自分の足を引っ張るとは想像もしなかった。


サッカー部の悪意からかばうように梨沙はグラウンド側の左コースを、鈴木さんが校舎側の右コースを走っていた。経験上梨沙のほうが早く走り出し、鈴木さんから差をつけて走っていた。サッカー部が練習している場所に近づき、左側から何かが来たと気づいたときにはもう遅かった。衝撃が左頭部に来て、バランスを失った。スピードを出して走っていた自分の体が衝撃に反応しきれず、右側に転倒する。


「梨沙!」


絵理香が駆け寄ってくる気配がした。ゴールから片岡も走ってくる。転んだことも十分痛かったが、左頭部への衝撃もすごく、頭がくらくらしている。漫画だったら星が回っている状態だろうとどこか冷静に考えていた。何が起こったのかと視線を動かすと、そばに黒と白のボールが転がっていて、梨沙はすべてを理解した。


これは走っている梨沙にサッカー部のボールがぶつかった不運な事故ではない。誰かが梨沙を狙って思い切りボールを蹴ったのだ。その人物が狙った通り、梨沙の頭にボールが直撃し、梨沙は転んだ。そんなことをする人間も、そんな芸当ができる人間も、梨沙は一人しか知らない。


「だっせー。陸上部が転んでんのかよ」


予想通りの人間、つまり伊藤が笑いながら梨沙に近づいてきた。故意でも偶然でもまず謝れよと思いながら体を起こしてみると、体操服が見事に汚れている。右足は久しぶりに擦りむいていて、出血している。


「伊藤!まず謝りなさいよ!」


絵理香が伊藤に向かって文句を言う。伊藤は先ほどからずっと陸上部に文句を言っていたため、陸上部全員がこのアクシデントを事故だと認識していなかった。


「わりーわりー、当たっちゃったよ」

「お前、それで謝ってるつもりなのかよ」

「は?わざとじゃねえし。走ってるやつにボールなんか当てれるかよ」

「今日だけじゃなくて、ずっと内田に文句言ってただろ。わざと内田にボール当ててたのだってみんな知ってるんだぞ」

「わざと当てたった証拠なんかねえだろ」

「いい加減にしてよ。こっちだって大会があるんだから練習するって、テスト前から連絡してたでしょ!サッカー部だって納得してたはずじゃない!今更文句言わないでよ!」

「お前らなんかどうせ区大会突破できねえくせに、俺らの練習場所奪ってんじゃねえぞ。マジ時間の無駄だって気づけよ」


同じように不満を持ったサッカー部員は何人かいたのだろう。他のサッカー部員が伊藤を擁護し始め、収拾がつかなくなってきた。早く消毒したい。伊藤がわざとボールを当ててきたとしても、偶然だったとしても、梨沙にとってはどうでもよかった。目の前で起こる暴動が自分のせいで起こったと腑に落ちず、ただ見つめていた。


「何やってんだお前ら!」


騒ぎを聞きつけたのか、斎藤とサッカー部顧問の田中が出てきた。顧問の登場でサッカー部も陸上部も一旦理性を取り戻し、口を閉じる。おかげで梨沙も周りを見渡す余裕ができた。完全に委縮している鈴木さん、二年の後ろに隠れている一年二人、伊藤を止めようとしているサッカー部員、その部員を止めようとしている血の気の多いサッカー部員。サッカー部部長が伊藤を絵理香から引き離し、「落ち着けって」と諭している。


「内田、怪我してるのか。保健室行ってこい。立てるか?」

「はい」


立ち上がるが、右腕も右足も派手に擦りむいているのでうまく歩けない。頭もまだくらくらしている。


「梨沙、保健室行こう」

「西脇さんは残って。何があったか説明しなさい」


斎藤が絵理香を引き留めた。スタートから一部始終を見ていた上に当事者になってしまった絵理香から事情を聴くのはもっともな判断だった。


「でも梨沙は」

「部長」


隆弘が手を挙げた。あの騒ぎの中、隆弘の姿を見なかったことに今更気づく。どこに行っていたんだろう。


「俺、内田先輩を保健室連れていきます。部長は先生と話しててください」

隆弘が梨沙の右側に回り、梨沙を支える。「ゆっくりでいいですから」とボソッと言って、梨沙と隆弘は校舎に入った。


生徒のたまり場になることを恐れてなのか、養護教諭はいつも職員室にいて、必要があるときだけ保健室で手当てをしていた。隆弘もそれを知っていたので、二人はまず職員室へ向かった。隆弘は三年用の下駄箱から梨沙のスリッパを出し、運動靴を脱がせた。怪我をしているとはいえ軽傷なんだから、そこまでされると逆に気恥ずかしい。


「そんなことしなくていいから」

「俺がしたい」


梨沙がゆっくりスリッパに履き替えている間に隆弘は二年用の下駄箱で自分の靴を履き替え、また梨沙のそばに来た。


「あいつ絶対わざと梨沙を狙ったぜ」

「先輩」


こんな時でも梨沙が心配するのは自分たちの関係が他人に露見することだった。放課後の校舎は生徒がほとんどいないが、その分声が響く。体育館からバトミントン部のおーっ、おーっ、という掛け声が聞こえる。


「痛くない?」

「痛いよ」


玄関から職員室は距離がある。下手な二人三脚をしている状態ではいつもの倍時間がかかった。生徒が下校した教室は施錠され、いつも騒がしい廊下が静かで、グラウンドから声が聞こえるのは不思議な感じだった。


「伊藤は許せないけど、この状況はラッキーだな」

「なんで?」

「梨沙とくっついてられる」

「何言ってるのよ。私怪我してるんだけど」

「だから堂々とくっつける」

「あんたね…」


隆弘を見上げると、学童でよく見た、いたずらっ子のような笑顔で笑っていた。その笑顔に嘘はなく、本当に嬉しそうな顔をしていた。

付き合っていたけれど、梨沙と隆弘の関係は進んでいなかった。そもそも二人きりで会える時間が少ないうえに、どうしても先輩と後輩の関係から抜け出せなかった。手を繋いで一緒に歩いたこともなかった。


職員室に到着し、扉をスライドさせて中に入る。テスト週間中は教師たちの机に近寄れないように衝立が出て、そこから先は生徒立ち入り禁止になっている。最初はテスト期間以外衝立は出ていなかったが、片づけるのが面倒になったのか、衝立は出しっぱなしになっていた。


「失礼します、中条先生いますか?」

「ああ、来た来た。大丈夫だった?」


事故が起きたのは職員室からも見える位置だったのか、梨沙たちを見て教師たちは安堵の表情を浮かべた。職員室の窓はグラウンドに面していて、梨沙たちの場所からはよく見えないが、サッカー部と陸上部が説教をされているように見える。グラウンドに出ている教師の数が増えているところを見ると、それなりに大きい事件になったのだろうか。


「今手当するから保健室行こうね。佐久間君、保健室まで行ったらあなたはもう戻っていいよ」

「わかりました」


職員室のそばにある保健室まで行き、中条が鍵を開ける。丸椅子に梨沙を座らせて、隆弘はグラウンドへ戻っていった。傷の手当てを受けながら簡単に何があったかを説明する。百メートルの練習をしていたらボールが左頭部に当たりバランスを失って転んだ。伊藤がわざとやったのかはわからないが、前も何度かサッカー部のボールを当てられたことがあると言っておいた。


「脳震盪はないと思うんだけど、一度病院に行った方がいいかも」

「わかりました」

「お父さんかお母さんに連絡しておくね。学校での怪我だし」

「はい」

「内田さん、佐久間君と仲がいいの?」

「小学校の時同じ学童に通ってました」

「そうなんだね。昔からあんなにしっかりしてたの?」

「しっかりしてたって、佐久間がですか?」

「そうだよ。内田さんが転んだあと、佐久間君が真っ先に職員室に来て、サッカー部が陸上部の子にボールを当てましたって教えてくれたんだよ。だから斎藤先生も田中先生もすぐに駆け付けれたの」


職員室にはグラウンドにすぐ出られる勝手口のような扉がある。あの混乱の中にいなかったのは、隆弘は梨沙がボールを当てられてすぐに教師を呼びに行ったからか。冷静に周りを見ているんだなと感心してしまう。

ガーゼを貼り終わったところで保健室の扉が開き、隆弘が戻ってきた。梨沙と隆弘のリュックを持っている。


「先輩は今日帰っていいそうです。怪我してるし、俺先輩の家知ってるし、送って行けって言われました」

「そんなことしなくてもいいのに」

「斎藤先生がそうしろって言ったんで」

「一人で帰るよりもその方がいいよ。じゃあ内田さん、気を付けて帰ってね。お父さんたちには連絡がいくから。佐久間君もありがとう。さようなら」


先ほどと逆の道順で二人は下駄箱ヘ向かった。


「みんなどうだった?」

「うん?サッカー部怒られてたよ」

「絵理香は?」

「怒られてたけど、サッカー部ほどじゃない」

「よかった」


絵理香は梨沙のために怒ってくれたのだから、教師に理不尽に怒られてほしくなかった。


「喧嘩するんじゃなくて顧問を呼べって怒られてたくらいで、あとは事情聴かれてただけ」

「そっか。隆弘」

「ん?」

「ありがとね」

「なにが」

「斎藤呼んできてくれたの、隆弘だって中条先生が言ってた」

「あの場から離れたかったんだよ。あそこにいたら俺、あいつ殴ってたから」

「物騒だね」

「本気で」


隆弘が荷物を持ってくれて、肩まで貸してくれたから何とか歩けた。着替えるのも面倒で、校内のように不器用な二人三脚はしなかったが、足を引きずりながらの帰宅は予想以上に大変だった。先生たちに「送ってもらえ」と言われた理由を身をもって実感する。

今日に限って宿題が多いから教科書をたくさん持ち帰っている。隆弘がいなかったらどれだけ時間をかけて歩くことになっていたんだろう。

汚れた体操服を着て足を引きずる女子中学生と、その隣で二人分の荷物を持って歩く男子中学生のコンビは嫌でも目立ち、通行人からじろじろと見られて居心地が悪い。


「あいつ梨沙のこと好きだよ」


隆弘が何を言っているのか一瞬理解ができなかった。少し考えて、伊藤のことを話しているのかと推察した。


「ボールぶつけたくせに?」

「ああいうやつって好きな子ほどちょっかいかけたいんだよ」

「逆効果なのに」


横断歩道が青になっている。いつもならダッシュで渡るが、この状態では無理だ。横断歩道の前に到着したタイミングで信号が点滅する。


「なんで隆弘がそんなことわかるのよ」


伊藤と隆弘の接点は同じ中学校に通う男子生徒というだけだ。小学校も違ったし、学年も違う。伊藤も隆弘も目立つタイプだが、たとえ同じクラスにいても友達にはならないだろう。二人ともタイプが違う。


「俺と同じ顔で梨沙のこと見てる」

「え?」


信号が青になり、ゆっくり歩きだす。小学生たちが笑いながら走っている。疲れた顔をしたサラリーマンや、携帯電話を見ながら器用に歩く高校生も横断歩道を渡りだす。梨沙の恰好はようやく街になじんだのか、誰も気にしなかった。梨沙たちが横断歩道を渡り切ったタイミングで信号が点滅する。やっぱりいつもより歩くスピードが遅い。


「好きなやつのこと、あんな顔で見ないだろ」

「そんなこと」

「あるよ。梨沙は、自分のこと気にしてなさすぎ。見てて心配になる」

「そうかな」

「そうだよ。本当に、俺どうして五月生まれなんだろうな。どうしてもう少し早く生まれなかったんだろ。そうしたら梨沙と同じ学年になれたのに」

「それを言うなら…私だって」


隆弘と付き合いだしてから何度も考えた。梨沙の誕生日は十二月で、隆弘の誕生日は翌年の五月だ。同じ学年になるには少しタイミングが合わなかった。たった五カ月の差は二人に大きな差を与えてしまった。私がもう少し遅く生まれていたら。隆弘が三月に生まれていたら。そうすれば、中学二年生で行った、稲武と呼ばれる二泊三日の野外学習も、修学旅行も同じ日に行けた。先日梨沙たちが行った修学旅行のお土産として、隆弘にお揃いのストラップをあげた。お土産を買う段階になって初めて、隆弘の好みをろくに知らなかったことに気づいた。

同じ学年だったらさりげなく聞けたのかもしれないのに。お土産を隆弘は喜んでくれたが、その表情から梨沙は「このキャラクターは好きじゃなかったんだな」と察した。


たった五カ月、されど五カ月。二人の間にはどれだけ走っても縮めることのできないテイクオーバーゾーンがあった。

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