六月(5)

つむちゃんママに連絡を取り遊ぶ日をすり合わせ、少し急ではあるが今週の土曜日の午後から遊ぶことになった。お客様が来るのでお菓子を用意する必要がある。

土曜日の午前中はスーパーに行って、一週間分の食材も用意しておこう。平日にスーパーに行けない共働き家庭は土日に一週間分の食材をまとめ買いする必要がある。土曜日の午前中は忙しくなるので、金曜の夜に洗濯を少しでも終わらせておこう。日曜日にその他の家事を行って、と頭の中で週末のスケジュールを組み立てる。


平日朝の名鉄電車は相変わらず高校生や大学生、社会人が多い。いつもはスマホを片手にバカ騒ぎをしている高校生たちの手には、ノートや教科書がある。問題を出し合い、テストの予測について話をしている学生を見て、テストが近いのかと急に思い出す。



梨沙と隆弘が付き合い始めたといっても二人の関係性はほとんど変わらなかった。学年も違うと校外学習や修学旅行などのイベントは全くかぶらず、部活の後に一緒に帰ることもほとんどなかった。

住んでいる町内が違うだけで、生まれた年が違うだけでこんなにも難しくなるものなのかと驚いたことを覚えている。だから二人の関係はメール上で深くなっていった。


好きな色、好きな教科、好きな季節、好きなテレビなど、顔を合わせて会話をすれ一時間ほどで終わるやり取りをずっと続けていた。ちまちまとキーを打ち込んでメールをするのは面倒だったが、その面倒さも愛おしかった。今日こんなことがあった、今日の部活は大変だったね。そんな会話を帰宅してから寝るまで続けていた。急にずっと携帯電話を触るようになった梨沙を見かねたのか、母親から「最近携帯電話ばっかり触ってるのね」と注意を受けてからは自室でのみ携帯電話を触るようになった。


デートをするわけでもなかったが、テスト前の一週間は二人で会うにはちょうどよかった。中間テストや期末テストの一週間前になると部活動は禁止となり、学校に生徒が残ることを禁止される。図書室で勉強をしようにも、梨沙たちの中学校では図書室は放課後に解放されていなかった。普段部活をやっている時間に堂々と帰宅できるのは特別な気持ちになり、テスト前で勉強しなくてはいけなかったが梨沙は好きだった。お互いに塾があったり予定があったりするので一日だけ予定をすり合わせて、梨沙の家に隆弘がやってきた。

隆弘の家には日中父親がいると言うので、隆弘の家に梨沙は行ったことがなかった。隆弘の父親は夜勤をしているのだと聞いたことがあった。梨沙の両親は六時を過ぎないと帰宅しないため、隆弘が家に来てもバレることはなかった。「両親がいない時に友人を勝手に上げては駄目」と言われていたが、すでにルールは形骸化していた。


一緒に勉強をするようになって、隆弘が梨沙よりも頭がいいことを知った。梨沙が得意な英語でさえ敵わなかった。塾でしっかり勉強をしているらしく、横から梨沙の教科書を見ては「三年ってこんな事やってるんだ」とちょっかいをかけてきた。

もちろん勉強どころではなくなり、早々に勉強道具は隅に追いやられた。お菓子を食べながら雑談をしていたら隆弘が塾へ行く時間になった。


「漫画貸して」

「あんたね。今テスト週間だよ」

「知ってる」


自分よりも頭がいい後輩にそれ以上何も言えなくて、梨沙は「待ってて」と言って階段を駆け上がった。二人で勉強をしていたのはダイニングだった。ブルーの部屋に隆弘を入れるのが恥ずかしかった。部屋が散らかってると言い訳をしたが、部屋に入れてしまったら馬鹿にされるのは目に見えていた。

部屋に戻って本棚から漫画を取り出す。この間九巻から三冊貸したから、十一巻から三冊だ。今月この漫画の続編が発売されたが、テスト前だからまだ買いに行けていない。早くテストが終わらないかな、と考える。

ドアがいきなり開き、振り返るとそこに隆弘がいた。


「ちょっと、何で入ってるのよ!」

「部屋きれいじゃん」


質問に答えないでとぼける隆弘に腹が立って、漫画を持ったまま隆弘を押し出そうとしたが、やはり隆弘の体は動かない。


「出てってよ!」

「梨沙」


笑わないでよ、と言おうとした梨沙の目の前に隆弘の顔が近づき、キスをされた。一瞬何が起こったのかわからず動けなくなる。隆弘はすぐに唇を離し、梨沙に笑いかけた。

あの時は気付けなかったが、隆弘も緊張していたとあとで聞いた。


「やっぱ漫画いいや。俺、帰るわ。じゃあな」


隆弘はそのまま階段を降りて玄関へ向かった。靴を履く音のあとにドアが開いた。玄関まで送るよとも、またね、とも言えなかった。唇に残っている感触を確かめるように、自室のドアの前で突っ立っていた。



「梨沙」


テスト一日目が終わった日、教室を出たところで梨沙は絵理香に呼ばれた。


「えっちゃん、どうしたの」

「今いい?明日の部活のことなんだけど」


中間テストは五教科のみなのでテストは二日で終了する。テスト終了日から部活動が再開され、ほとんどの生徒はテスト終了の解放感とともに部活を行っていた。


「区の大会まであと一カ月半になるから、もうそろそろ大会を目指した練習内容にしようって斎藤と話してて」


弱小部でも区大会には出場する必要がある。区の大会を勝ち上がった後、市の大会に出場し、そこで勝ち上がってから県大会へ進むが、梨沙たちが入部してからせいぜい区大会のベスト8が関の山だ。まったく練習しないで大会に臨むのも格好悪いので、練習はしているが、それでもやはり陸上部は弱かった。


「今年は佐久間がいるから、佐久間に重点的にトレーニングしようって言っててさ。梨沙はどう思う?」

「いいんじゃないかな。でもそれ、私よりも片岡と話したほうがいいんじゃないの?」


梨沙も三年だが部長でも副部長でもない。なんで私に言うんだろうと首をかしげる。


「片岡にはもう話したよ。で、いいって言ってた」

「じゃあそれでいいんじゃない?」

「問題はここからなんだよね。佐久間にも話したんだよ。で、あいつなんて言ったと思う?三年なのに内田先輩が一種目にしか出ないのはどうかと思いますって文句つけてきたの」

「へぇっ?」


思わず変な声が出た。この中学校では陸上部員が圧倒的に少なく、一人が複数の種目に出場するのは当たり前だった。学年が上がるにつれ出場種目は多くなる。絵理香も片岡も複数競技に出場する中、梨沙が出場するのは短距離走だけだった。


「だって私、短距離だけって言っても百も二百も出るんだよ」


短距離と一口に行っても走る長さが違う。また、競技が短距離走から始まり、梨沙は一人で百メートルを走った後すぐに二百メートル走を走るため、一人だけ短時間で何度も走っていた。


「私もそれを言ったんだけど、佐久間は納得しないんだよね。しかも、あいつの言うことも間違ってないじゃん。梨沙だけ短距離一本だし」


絵理香がなぜ梨沙を引き留めたのか理由がわかってきた。嫌な予感がする。


「私、障害物とか出たほうがいい?」

「大会はもう今更無理だって佐久間もわかってる。だから代わりに、体育大会の部活対抗リレーに出てよ」


体育大会の部活対抗リレーは学年リレーよりも盛り上がる種目だった。名前の通り、各部活で順位を競うリレーだが、バトンに使用するものが部活によって変わる。バトミントン部はラケットを使用し、サッカー部はサッカーボールを持って走る。陸上部だけ唯一バトンを持って走れるため、弱小部と馬鹿にされている陸上部が毎年優勝し、下克上を見せつけられる場だった。そんな陸上部一強を何とか止めようと他の運動部が画策していると毎年噂が流れている。


「無理だよ。あれに出て負けたら、私、それこそ陸上部にいられない」

「どうせ引退する身だからいいじゃん」


部活対抗リレーで一位になっても点数が入るわけではない。一位になった部活にPTAから景品をもらえるのだ。去年はファミレスのお食事券で、陸上部の打ち上げとして使用された。一昨年は高級アイスクリーム引換券だった。点数ではなく商品が絡むため、陸上部一強になるのはおかしいと他の部活からクレームが出たらしい。

毎年出ていたようだが、今年は正式なクレームとして挙げられ、職員会議の議題になったようだった。


「今年は景品をなしにするか、どの部活も平等にバトンを使うかのどっちかになるみたいなんだよね」

「誰情報よ」


絵理香は答えなかったが、顧問の斎藤がこっそり教えたのだろう。陸上部が一位になれば斎藤もご相伴に与かれるため、体育大会の練習は区大会よりも真剣に行っていた。


「内緒だけど、みんなバトンを使って走ることになると思う」

「ますますやばいよ。バドミ部なんか精鋭ばっかり送り込むじゃん。私リレーの専門じゃないよ」

「だから、区大会でリレー出よう」


区大会を体育大会の踏み台にするのはどうかと思うが、梨沙たちにとっては勝てない区大会はどうでもいい存在だ。それよりも確実に勝てる体育大会に力を注ぎたかった。


「男女混合リレーにエントリーしよう。そうすれば、大会の練習だって思わせて他の部活を油断させられる」

「メンバーは?」

「私と片岡、梨沙でしょ」


四人の枠で、三年が三人エントリーするならまだ勝ち目はあるかもしれない。足の速さだけでなく、経験がものをいうことがあるからだ。問題は最後の一人だ。陸上部の三年はもういないし、経験が十分ある部員と言えば一人しかいない。


「あとは佐久間。このメンバーで優勝を狙おう」



「隆弘、あんたハメたでしょ」


どうせ勉強に集中できない十四時頃、梨沙は隆弘に電話をかけた。携帯電話からかけると通話料がかかるので、自宅の電話を使っていた。隆弘の自宅の電波が悪いのか、自宅の電話機の不都合なのか、携帯電話への通話は雑音が入りやすく、ところどころ隆弘が何を言っているのかが聞き取れない。


『梨沙が短距離しか走ってないのはみんな知ってるけど、一年から不満が出てたんだよ』

「そんな話聞いてない」

『あいつら、そういうの隠すのうまいから』


一年の三人はいつも一年同士で固まって他学年と交流していなかった。誰か一人でも部活を休むと残りの二人も休む連帯責任のような体制を取っていて、陸上部の中でほのかに問題にはなっていた。面と向かって注意して三人に辞められるよりはいいと判断し、放置している。梨沙たちは一年もすれば引退するが、来年部長か副部長になる隆弘にしてみれば、早めに摘み取っておきたい不安の芽だろう。


『西脇部長も厳しいし、片岡副部長も頼りないしって言ってたんだよ。まあ、そこは俺も同意するけど。で、梨沙のこと文句言ってたんだよ。一年は短距離走を何本も走るの大変だって知らないだろ。この区大会が終わったらわかるかもしれないけど、でも部活対抗リレーに出たらそれなりに見方は変わるだろうし』

「一年なんか好きに言わせておけばいいじゃん」

『夏休みの区大会前に辞められても?』

「それは困る!」


電話の向こうで隆弘が笑っている。


『一年トリオがそういう話してたんだよ。だから俺が不満を言ったようにして丸く収めるってこと。それに、俺は嬉しいけど』

「なんでよ?」

『梨沙と練習できるから』

「練習できるって言っても、えっちゃんも片岡もいるじゃん」

『でも梨沙もいるだろ』


先週隆弘にキスをされて以来、隆弘と顔を合わせていない。明日の部活で久しぶりに隆弘に会うが、どんな顔をして会えばいいのだろう。隆弘は梨沙への好意をストレートに伝えてくれたが、梨沙はまだ隆弘のことを好きなのか、弟として扱っているのかを自分でもわかっていなかった。

隆弘が何かを言ったタイミングで雑音が入った。


「え、ごめん、聞こえなかった。何か言った?」

『…あー、ごめん、そろそろ切るわ。明日地理があるから勉強しないと』


地理は隆弘が苦手な教科だった。隆弘にも苦手な教科があると知ったときは嬉しかったが、梨沙も苦手な教科だった。


「そっか。私もそろそろ勉強する。また明日部活でね」

『おう、じゃあな』


受話器を置く。電話中、会話に夢中になっているはずなのに、気が付いたら落書きをしていたり、コードを指に巻き付けたりして遊んでしまう。コードが若干ねじれているが、きっと両親は気づかないだろう。勉強をしなくてはいけないが、やる気が起きない。夕方からにしようか。

自分の部屋には漫画があるから集中できないが、リビングにはテレビがあるから集中できない。平日の昼間に面白いテレビがやっているわけではないが、夕方から昔放送されたドラマの再放送がやっていたり、昔見ていたアニメが放映される。両親の監視の目がないとつい楽なほうへと逃げてしまう。


無意味に部屋をうろうろしている梨沙を諫めるかのように電子音が鳴った。メールだ。携帯電話を開き、誰からかを確認する。隆弘からだった。


メールの内容はただ一言、「好きだよ」。


中学性の梨沙にとって、誰かに好きだと言うのはとても恥ずかしいことだった。電話越しで顔が見えないから言えるわけではなく、言葉にすることが恥ずかしかった。隆弘への気持ちを軽んじているわけではないのに、隆弘の声を聞くと、顔を見ると、どうしても言えなかった。隆弘も同じ気持ちだったのか、メールで「好きだよ」と言い合うようになった。

「私も好きだよ」と返事を打って送信した後、「私も好きだよ」と声に出してみる。小学生の頃にやった音読の宿題のように他人行儀で、気持ちがこもっていない「好きだよ」に聞こえた。

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