六月(4)

「何かあったの?」


梨沙の問に由美子はすぐ答えなかった。雅がぐずり始め、由美子が抱っこをするが雅は泣き止まない。


「お腹空いちゃったかなー」

「もうすぐお昼だもんね」


フードコートに移動し、離乳食をあげたり交代で昼ご飯を食べていたらあっという間に時間が過ぎていく。さっきまでいたベビーコーナーにもう一度戻る。大人はうんざりするが、子どもにとっては魅力的な場所なのだろう。葵も雅もすぐに遊び始めた。


「保育園に入れないかもしれない」

「え?」

「私たち、点数が足りないみたい。だからここじゃなくて、会社が運営してる保育園に行かせようと思ってる」


保育園に子どもを入れるためには両親の状況を点数化する。その点数が高ければ高いほど優先される。きょうだい児がいるか、介護をしているか、六十五歳以下の祖父母がいるかなどの細かい項目があり、点数が加算されたり、減点されたりするとこの間教えてもらった。


会社が運営している保育園は名古屋駅の近くにあり、通わせるなら子どもを満員電車に乗せたくないので必然的に部署異動が発生する。できればしたくないと言っていたのに、そうせざるを得ない状況になったということだ。

新卒からずっと働いていた環境を出て、真新しい環境で子どもを育てながら仕事をすることは勇気がいるだろう。由美子が行ってきた仕事の実績も、構築してきた人間関係もリセットされる。新しい職場が子持ちに寛容かもわからないのだ。


「ここからじゃ保育園に通えないから引っ越すの」

「嘘でしょ、いつ引っ越しちゃうの?」

「物件がもう見つかったから、年始には引っ越し。年内にしたかったけど、料金が高くて諦めたの」

「そんな」

「せっかく仲良くなったのにごめんね。でも名古屋市内に引っ越すだけで、県外に出るわけじゃないから。またいつでも会えるよ」


由美子の言葉はひどく無責任な社交辞令に聞こえた。西尾から名古屋駅に行くには見えない壁があり、国内旅行よりもハードだった。特に子どもを抱えての移動は辛く、当時は滅多なことでないと行けない場所だった。関東から来た由美子にはこのハードルを理解できていないのだろう。


由美子も梨沙も、この先、こうやって会うことはないだろうと気づいていた。由美子は復職し、梨沙は子育てを続ける。平日の昼間に会えるのは由美子が育休中で、梨沙が専業主婦だからだ。そのうちお互いの価値観もズレていき、一緒にランチをしても気まずい沈黙が流れるだろう。由美子もそれをわかっているから、無責任な社交辞令でお茶を濁しているのだ。


「由美ちゃん、しばらく荷造りとかで忙しくなるよね」

「どうだろう。引っ越すまでまだ二ヶ月はあるから、また声かけて。私も声かけるから」


うん、いつでも呼んでね。その一言を梨沙が言う前に葵がぐずり始め、釣られるように雅もぐずり始めた。眠たくなったのだろうと判断し、その日は解散になった。予想通り由美子はそれ以来忙しくなり、梨沙と会うことはなくなった。たまに荷造りに対する愚痴や泣き言が届き、梨沙がそれに返信することはあっても、「◯日予定ある?」と聞かれることはなくなった。


由美子と遊ばなくなってから一人で時間を潰すのがさみしくなり、梨沙は足が遠のいていた児童館へまた通い出した。児童館は相変わらず誰でも受け入れるような空気で、そのくせちゃっかりグループは出来上がっている。一番人数が多いグループのママが梨沙に話しかけて、話に入れてもらった。簡単に自己紹介をしたあと、児童館は久しぶりですと言った。


「公園に行ってたとか?」


ボスママのような女性が梨沙に無遠慮に聞く。どこに行っていたっていいじゃないかと思いながら、友人と遊んでいたと弁解する。


「あ、ねえ、もしかしてそのお友だちって、雅ちゃんママのこと?」

「そうです。雅ちゃんママのことご存知ですか?」

「知ってるよー。あの人変わってるって有名だったじゃん」


「変わってる」と言ったあと、ボスママは、口を抑えた。大きい声では言えないけどね、と前置きをして先程より小声で続ける。


「みんな心配してたんだよ。葵君ママがあの人に染められないかって。助けたくてもさ、葵君ママ、児童館に来なくなっちゃったから。でもあの人引っ越すんでしょ?」


梨沙は絶句した。児童館に通わなくなった梨沙のことも、由美子のこともママたちは把握している。由美子が復職することを「変わっている」と称し、由美子と仲が良かった梨沙のことを「助けてあげる」対象だと信じて疑わないママたちが怖かった。


ボスママの言葉を証明するかのように、他のママたちが口を開く。近所の人から聞いた。話をしているのを見た。職場で旦那が由美子と働いていた。彼女たちの情報源は全て伝聞で、由美子から聞いたことは何一つない。誇張されたところも、間違っているところもある。それなのに、全てが事実となって梨沙に襲い掛かる。


由美子が引っ越しを決めた理由はきっと保育園に入れなかっただけじゃないと梨沙はこの時気づいた。由美子がこの世界で生きられるとは到底思えなかった。閉鎖的な空間で育つ雅はどのような価値観を持って育つのだろう。保育園は言い訳で、程よく他人に無関心でいてくれる街に行ったほうが由美子のためだと判断したのだろう。あの時、梨沙に説明しなかったのは、どこで誰が聞いているかわからないからだったのかもしれない。

梨沙にすべてを話していたら、梨沙まで爪弾きにされてしまうから。


由美子が最後に気遣いをしてくれたのに、梨沙はそれに気づくこともなく、一人でせっかくできた友人が引っ越してしまう寂しさに酔っていた。

梨沙は由美子と違い、結婚する時に何も考えなかった。この土地がこんなにも排他的で、言動に気をつけないといけない土地だと知らずに餌に食いつき、この土地に根を張ることを選択してしまった。マイホームがあるから簡単に逃げられない。どんなに嫌でも、梨沙はここで生きていくしかない。ここで生きていくなら、梨沙が行うことはただ一つだった。


「そうなんですよ、雅ちゃんママ、ちょっと変わってて」


ああそうよね、と言いたげな周りの反応。由美子へのマイルドな悪口が始まる。子どもがいるのに誰もそんなことを気にしない。

「名古屋から来たお嫁さん」は無事にこの地域に溶け込み、「東京から来たキャリアウーマン」は馴染めずに出ていった。この事実は一週間もしないうちに地域に回るだろう。

由美ちゃん、ごめんなさい。私はここで生きていかなきゃならない。この世界で爪弾きにされないために、私はあなたと違うやり方で戦っていく。心の中で由美子に謝ったところで、由美子に届くわけなどないのに、梨沙はずっと謝っていた。



梨沙はスマホの画面をロックした。この気持ちは同じ境遇の人じゃないと理解できない。また大久保さんをランチに誘って話をすればいい。仲田さんのことはそのうち係長からでも、本人からでも発表があるはずだ。それまで黙っていればいい。

西日が眩しくて目を細める。今日の晩ご飯は何にしようかを考え、そう言えば日葵のバレエの体験レッスンだったと思い出す。いつも以上におしゃべりが止まらない日葵をどうやって制するべきかは今夜の献立よりも難易度が高かった。



予想通り日葵は体験レッスンの話をずっとしていた。体験レッスンだからたいしたことはしないだろうと思っていたが、本人にとっては十分刺激的だったようで、ストレッチやバーレッスンについて熱く語っていた。


「バレエを続けるんだったらお風呂上がりにストレッチしないといけないんだよ」

「そうなの?」

「私もストレッチする!つむちゃんみたいに上手になりたいの!」


バレエ教室の案内では週一回コースと週二回コースがあり、コンクールへの出場をする生徒が週三回以上のレッスンを受講する。高学年の子は週二回コースを当たり前のように受講しているが、一年生たちはまだ週一回で事足りると義母が教えてくれた。


体験レッスン後すぐに入会を決めた日葵は教室指定のグッズを購入してもらい、さっそくレオタードを着てストレッチに励んでいた。ピンク色の可愛いレオタードをみんなで着てレッスンを受ける姿はとても可愛いだろう。義母が孫娘にバレエをやらせたいと力を入れる気持ちも理解できる。

まだ体験レッスンを一度受けただけの日葵に才能があるかなどはわからないが、ここまでやる気になるんだったらバレエを習わせるのは間違っていない。


「ねえママ、今度つむちゃんと遊んでもいい?私の家にトランポリンがあるって言ったら、つむちゃんがしたいんだって言ってた」

「いいよ。またつむちゃんのお母さんに連絡するね」


子ども同士で遊ぶ約束を取り付けることは簡単だが、「いつ」「どこで」「誰と」をはっきりさせないまま約束をしてくる事が多く、トラブルに発展することも多い。親同士がきちんと連絡を取って遊ぶ約束を設定しておくことは大変面倒くさいが、逆に親を知っているお友だちと遊ばせることができる安心感を得られる。


「トランポリン出しておくね」


トランポリンは休校が発生した時、時間つぶしにちょうどいいとネットで知り、慌てて購入した。場所は取るが飛ぶだけで案外体力を使うし、気分転換にもなった。最近は飽きられて使っていない物置部屋に放置されている。久しぶりに物置部屋に成り下がったゲストルームの扉を開ける。掃除をサボっていたので、若干埃っぽい。


トランポリンはすぐに見つかったが、それの前にこたつ布団や使わなくなったおもちゃが雑多に置かれていてすぐに取り出せない位置にある。こんな風に物を置いたのは紛れもなく梨沙で、過去の自分に舌打ちしたくなる。一拍置いて、よし、と気合を入れて物をどかし始める。ここでこたつ布団を二階のクロゼットに持っていけば未来の自分は喜ぶが、そこは未来の自分に丸投げしよう。過去の自分もこうやって現在の梨沙に丸投げしているのだからしょうがない。


こたつ布団をどかしたら、ビニール袋に入っている電気ポットが出てきた。今はウォーターサーバーを導入したので使わなくなったけど、捨てるにはもったいないからここに押し込んだんだった。

懐かしいと思わなかった。二度と見たくないからここに押し込んだのに、また見てしまった。

葵のミルクを作るために使っていた電気ポット。必然的に夜間授乳を思い出す。



第一子が生まれる前に立てた計画は今思えば全てが非現実的だった。ベビーベッドを夫婦の寝室に置き、夜間授乳は寝室で対応する。そうすれば巧も葵の泣き声に反応できるし、慣れない育児も二人で協力ができると信じていた時代が梨沙にもあった。

葵を出産したあと母子同室で五日間の入院期間があり、そこで梨沙は自分の体が出産によって受けたダメージの大きさを実感した。出産後の女性のダメージは交通事故で全治一ヶ月の怪我と同等と今は認知されつつあるが、当時梨沙はそんなことを知らなかった。

体中が痛く、横になりたいのに、葵はそんなことはお構いなしにミルクを欲しがり、おむつを変えること要求した。おむつも濡れていない、授乳も終わったのに病院のコットに置くとすぐに泣き出し、抱きかかえた状態でベッドに座り夜明けを迎えた朝もあった。階段を登り降りすることなど無理だと判断して巧に客用布団を一階に運ぶよう指示を出した。


巧は大げさだと笑うこともなく言われた通りに自宅を赤ん坊仕様に調整してくれた。

葵は吸う力が強い子で、梨沙のおっぱいに真剣に吸い付いてくれた。母乳の出が良くなく、葵がおっぱいを吸っても母乳が出ない事に腹を立て、泣き喚く。赤ん坊の泣き声に急き立てられて急いでミルクを準備する。早く泣き止ませないと虐待を疑われる。夜だから迷惑になる。私の子どもがお腹を空かせている。早くやらないと、と思えば思うほど焦って手元が狂う。せっかく準備したミルクをこぼしてしまったことも一度や二度ではない。

出産してから自分の胸は赤ん坊を育てるためについているのかと腑に落ち、当たり前のように飲んでいた牛乳も、雌牛が妊娠しない限り手に入らないものなのだと気づいた。母親になれば母乳なんかすぐに出る、と言われ続けているのは、牛ですら当たり前にできるんだから諦めるなという子育てを行ってきた女性たちからのメッセージなのだろうかと、牛乳を飲みながら考えた。


夜間授乳を行っていると当然のように朝に起きることは難しくなる。朝の四時に葵が起きれば、梨沙もそのまま起きていて巧と朝食を食べたりするが、そうすると巧は当たり前のように梨沙が朝食を準備すると思って何もしない。巧はなぜか葵が泣いても気にせずに寝ていて、梨沙が巧を起こせば代わってくれるが、起きないことも多かった。起きない大人を起こすのも、その間我が子を泣かせ続けるのも嫌になり、巧に「夜起きれないなら朝の準備くらい自分でやって」と話をした。


「いいけど、だったら俺は上で寝てていい?葵が泣くと起きちゃうんだよね」


起きちゃうんだよねと言いながら実際に起きておむつを変えることも、ミルクを作ることもしないくせに何を言っているんだ。起きているんだったら代わってよ。なんでそんなに偉そうなの?大人なんだから自分でやってよ。


巧に言いたいことはたくさんあったが、寝不足で思考回路もはっきりしない状態で何を伝えればいいのかわからなかった。話し合いをすれば間違いなく喧嘩になり、巧が梨沙の気持ちを理解するまで根気よく説明し、失敗したらフォローをする。大人二人だけの時はやれたことだったが、今は全てが面倒くさかった。

巧に無理に夜間授乳をお願いして寝不足になったら、車の運転に支障が出る。巧は自動車通勤をしているから寝不足や二日酔いは致命的で、下手に小学生の集団登校の列に突っ込まれるよりは、一人で寝ててもらった方がましだ。


「好きにすればいいんじゃないの」


葵の背中をトントンと叩きながら梨沙は言った。葵はなかなかゲップが出なくて、ずっと背中を叩いていたがそのまま寝てしまう事がよくあった。


「その代わり、私は一階で寝るから」

「なんで?」

「夜に葵を抱っこして階段を降りるの大変なの。ミルクの後片付けもキッチンに近いほうがしやすいし。いいわよね?」


あなたが協力しないなら私はあなたと同じベッドで寝ないと言い切った梨沙の発言は、巧には違う角度で届いたようだった。


「その方が合理的でいいんじゃないの?もう話は終わりでいい?俺は風呂入ってくる」


巧が立ち上がりリビングから出ていく。巧に言いたいことはこんなことじゃなかった。もっと違うことを言いたかったのに、自分が何を言いたかったのかもわからず、もどかしさだけが残った。


ゲップが出ない葵を抱っこしながら梨沙も立ち上がり、キッチンに行くと電気ポットのお湯がなくなっている事に気づいた。さっき巧が茶を飲んでいた時になくなったのだろう。言えばやってくれるが梨沙が言わない限り巧は気づいてくれない。それとも、気づいているけれど梨沙がやればいいと思って放置しているのかもしれない。

葵は寝てしまったから片手でポットをシンクに移動させて、水を入れて、ポットを戻して、コードを刺して沸騰させるためにボタンを押す。


昼間一人でやれていることだったが、唐突に「もう無駄だ」と思った。電気ポットのお湯がなくなっていても気づかず、水を補充してくれるわけでもない人と、これ以上話をしても無駄だ。一度も葵が泣き叫ぶ中、ミルクを作ったことがない巧は、お湯がないことでどれだけ焦るかわからないのだろう。わかろうともしないのだろう。そしてすぐ、悔しさと悲しさ、やるせなさが梨沙を襲った。


この人の子どもはもう作らない。葵だけで十分だ。一人でもこんなに手一杯なのに、きょうだい児なんか持てるわけがない。

キッチンでゆらゆらと揺れながら、梨沙は何でこんな人と結婚したんだろうと思った。巧のことを愛しているから結婚したのに、なぜこんなに虚しいんだろう。



「ママー、どこー?」


リビングから日葵が声を上げる。どこかに行ったきり戻ってこない梨沙を心配したのだろう。小学一年生の日葵はまだ一人になるのを怖がる。


「いるよー。トランポリンあったよー」

「本当?ありがとうママ!」


トランポリン出しやすい位置まで引っ張り出し、代わりに電気ポットを奥に押し込んだ。

あのあとすぐ梨沙はウォーターサーバーを契約し、電気ポットはお役御免になった。まだ使えるはずのポットはそれ以来ずっとここで眠っている。

葵が赤ちゃんだったときのことを思い出すのは仲田さんのことがあったせいだ。嫌な事ばかり思い出すのはたまたまだ。


「ねえママ、お兄ちゃんがね!」


リビングに戻るとさっきまで仲良くしていた葵と日葵が喧嘩をしていた。仲裁に入りながらリビングを片付ける。十五分もすれば今日あった出来事をすっかり忘れて、下らないことで喧嘩を繰り返す子どもたちを叱りつけていた。

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