六月(3)

「わっ、びっくりした」

「…萩原さん」


仲田さんは梨沙の腕をつかんでトイレに入る。彼女の力は強いが、顔色はとても悪い。


「萩原さんならわかりますよね。私のこと」

「ごめんね、何のことかな」

「お願いです!誰にも言わないで下さい。お願いだから!」

「仲田さん、ちょっと落ち着こう。ね?私は仲田さんのこと、何もわかんないよ。大丈夫だよ」

「とぼけなくても」


仲田さんの言葉が止まり、口元を抑えて個室に駆け込んだ。扉を閉めず、仲田さんは便器に顔を近づける。一拍遅れて、ぐえ、と苦しそうな声が聞こえる。


「仲田さん、大丈夫だよ。ゆっくりでいいから」


丸まっている彼女の背中をさする。えずいているけれど胃の中に何もないから吐けない。できるのはこの波が落ち着くまで待つことだけの、拷問のような時間だ。


「聞いてもいいかな。今どれくらいなの?」


仲田さんは答えない。その代わりに彼女の右手が上がり、指が動く。五。すぐに四になる。


「九週?」


頷く。九週はつわりが激しくなる時期でもある。梨沙も苦労した覚えがある。


「そっか、じゃあ辛いよね。吐きづわり?」

「わかんないです。ずっと、気持ち悪い」

「無理しないでね。本当にこの時期は何があるのかわかんないし。仕事は私ができる限りやるし」

「駄目です!」


仲田さんが顔を上げて梨沙を睨みつける。辛さからなのか、悔しさからなのか、涙目になっている。


「萩原さんに迷惑かけらんないです!」

「迷惑じゃないよ。今一番に考えないといけないのは体のことだから」

「いなくなればいいんです」


仲田さんの目から涙がこぼれ始める。


「こんな、中途半端な私から、生まれるくらいなら、もういなくなればいいんです!」


そんなことを言っちゃ駄目だよ。その一言梨沙は言えなかった。ドラマでも小説でも簡単に言われてきた無責任な言葉を彼女に言いたくなかった。そんな一言を仲田さんは望んでいない。


「だって私、萩原さんみたいにすごくない。私が親になんかなれっこない。萩原さんみたいにちゃんとしてない。萩原さんみたいな完璧なお母さんじゃない」


最後の方はえずきとともに吐き出され、言葉になっていなかった。私は外から見たらそんな風に見られていたのかと驚いた。


「みんな言ってます。萩原さんは理想のお母さんだって。子育てもして仕事もして、いつもきれいで羨ましいって。私はそうじゃない。結婚してないし、仕事も中途半端だし、こんなんじゃお母さんになれない」


一際大きな声が出て、申し訳程度の胃液が出る。酸っぱい匂いがして、仲田さんの顔が少しだけスッキリする。


「よかった、吐けたじゃん。頑張ったね」

「気持ち悪い…」

「大丈夫。全部吐き出せばいいだけだよ」


腕時計を見るとすでに九時を過ぎている。一度オフィスに行き、パソコンを付けてからトイレに行ったから、梨沙が出勤していることは皆知っているだろう。始業してもオフィスに戻らなければきっと誰かが探しに来るだろう。状況を見れば梨沙は巻き込まれただけで、サボっているとは思われないはずだ。正社員の仲田さんと違って、悪評一つですぐに切られてしまう派遣社員はいつでも保身を図ろうとする。こんな状況なのに、汚い自分の考えに嫌気が差す。


「仲田さん、お水飲める?なにか食べれる?」


仲田さんは力なく首を横に振る。水も飲みたくないし食べたくもないのだろう。


「萩原さん、ごめんなさい」

「何が?」

「ひどいこと言いました」

「私は何も聞いてないよ。大丈夫」


仲田さんが唸り声を上げて泣き始める。


「なんでそんなに優しいんですか」

「私も酷かったから。辛かったから」


何が辛かったのかはあえてぼかした。仲田さんが妊娠を公表していない以上、具体的な名称は言いたくなかった。


「人に当たりたくなるのも、世界が憎くなるのも、泣きたくなるのも、私もそうだったから。大丈夫、何も聞こえないよ。そうだ、ハンドクリームとか柔軟剤とか、臭くないかな。私の匂い、臭くない?」


大丈夫です、まだ大丈夫、と仲田さんが答える。梨沙は柔軟剤の匂いが駄目になって、洗濯が辛かった。終わらないつわりで苦しんでいる中、巧がいつも通りの生活をするのが心底憎かった。何もしていない一日が終わり、トイレの前からろくに動けなかった毎日。食事の用意もできず、ずっと横になっていた。なんで私は何もできないのかと自分が歯がゆかった。


「仲田さんが歩いてるだけで、もう百点満点だよ」


控えめにトイレのドアがノックされた。廊下に通じるドアで、普段誰もノックしない扉だ。掃除のおばちゃんが来たのかもしれない。どうぞ、と答えると、遠慮がちに入ってきたのは係長だった。お疲れ様です、と言ったあと、おはようございますのほうが良かったと思い直した。


「大丈夫?仲田さん、体調悪い?」


仲田さんはまだ便器から顔を上げられていない。係長は梨沙を見て、声を出さずに「ごめんね」と謝った。


「とにかくさ、もう仕事始まっちゃったから、萩原さんは仕事戻ろっか。付き添ってくれてありがとうね。あとは私がやるよ」

「あ、はい」


仲田さんは何も言わない。ずっとしゃがんでいたから足が痛かった。仲田さんになにか声をかけるべきなんだろうが、事情を知らない係長がいる前で何を話すべきだろう。


「萩原さん、ありがとうございました。もう大丈夫です。仕事戻って下さい」


小さいけれどはっきりした声で仲田さんが梨沙に声をかけた。仲田さんがそう言った以上、梨沙にできることはもうなにもない。


「すみません。じゃあ私仕事戻ります」


トイレの扉を閉めてオフィスに行き、自分の席につくとすでに始業時間を十五分近く過ぎていた。隣の席の子たちが遠慮がちに梨沙を見ている。仲田さんに絡まれて災難だったね、という同情のような目線だった。

机の上にはメモが乗っている。客先からの問い合わせだった。こんな状況になっても仕事は待ってくれないし、誰かが代わってくれるわけでもない。時給をもらっている以上仕事をするしかない。


係長が戻ってきたのは十時近かった。朝から一仕事終えた顔をして、若干ピリピリしているが、誰も声をかけない。出社したはずの仲田さんはいないし、梨沙は遅刻するし、係長はピリピリしているし、なにかがあったのは間違いないが、大人は能天気に「どうしたんですか?」と声を上げない。誰かが口を開くのを待つだけだ。


「萩原さん、今忙しい?」

「いえ、大丈夫です」

「ちょっといいかな」


梨沙は立ち上がり、周りに向かって「すみません、席外します」と伝えた。周りも「はーい」と答えるが、すでに興味本位の目線がほうぼうで交差していた。

係長と一緒に会議室に入り、着席する。係長は開口一番「ごめんね、色々と」と謝った。


「いえ、大丈夫です」

「仲田さんのこと、どこまで知ってる?」

「ご懐妊されていることをさっき知りました。私も今朝まで知らなかったです」

「そっか。仲田さんは、今日は体調が悪そうだったから帰らせた」


それがいいだろう。あの状態で仕事をされても周りが気を遣うだけだ。


「個人情報だからあまり私の口からは言えないんだけど、とりあえず、そういうことだから、しばらくは萩原さんに仕事を振ることになりそうなんだ。どうするのか、まだわからないみたいで」

「わかりました」

「もちろん、業務の割り振りは改めてするんだけど、ちょっとの間萩原さんが大変かもしれない。辛かったらいつでも言ってね」

「はい」

「時間取らせてごめんね。それだけ。今日のタイムカードはいつも通り付けていいよ。仲田さんのフォローしてくれてありがとうね」

「いえ、大丈夫です。タイムカードの件ありがとうございます」


梨沙の派遣会社は十分ごとに給料が発生する契約になっている。遅刻扱いにならなくて良かった。一番気にしていたことを係長から伝えてもらえて本当に良かった。


「もう戻っていいよ」


失礼します、と言って会議室を出る。問い合わせも何もなかったようで、机の上は綺麗だった。

「どうするのかわからない」のは、妊娠の継続を望むのか望まないのかがわからないのだろうか。それとも結婚するかどうかわからないのか。妊娠の継続を望んでも残念な結果になることもある。

仲田さんが安定期に入るまで、少なくとも五週ほどある。それまでに結論を出して、そこからどうするのか。

電話が鳴った。これ以上余計なことを考える前に受話器に手を伸ばし、余所行きの声で応対する。



『聞き流してほしいんだけど』


メッセージ作成画面で梨沙は考えこむ。どうやって話を切り出すべきなのか。少し考えてタイピングをして、読み返しては消すことをずっと続けている。さっきから文章がこれ以上進まない。


『妊娠出産って』


いや、違う。言いたいことはあるのに、文字に起こすと途端に言いたいことから外れてしまう。名鉄電車が名古屋から鳴海駅に到着するまで二十分ほど考えたが、結局何もまとまらず、諦めてスマホをカバンにしまった。


仲田さんの話を誰かと共有したいのに、誰と共有できるかがわからない。巧と話してもわかってくれないだろうし、隆弘に話すのも違う。大久保さんと話したいが個人的な連絡先を知らないし、勝手に同僚の話をするのも気が引ける。


昔、葵が小さかった頃、妊娠出産について話をしたことがある。誰とだったかと考え、由美子とだったと思いだした。今は連絡も取っていない、梨沙に初めてできたママ友だった。


由美子と知り合ったとき、葵はまだ一歳前後だった。辛いつわり生活を終えたと思ったら体重を管理される妊婦生活になり、自分の体なのに不自由ばかりになった。出産したら終わるわけではなく、体がガタガタなのに新生児の世話が始まり、文字通り昼夜もなく赤ん坊のために動いた。一カ月が過ぎ、やっと子どもと外出できるようになって、見上げた空が青くて感動し、なぜか涙が出たのを覚えている。


赤ちゃんとの生活に慣れたころ、児童館へ行ってみた。新参者にもそれなりに優しいコミュニティが形成されている児童館で、それなりに知り合いができた頃、由美子と出会った。


彼女はこの地域では大変珍しいキャリアウーマンで、大手自動車会社の関連子会社で働いていた。東京の大学を出たあと就職で愛知県に引っ越し、結婚し出産したと教えてもらった。一年経ったら子どもを保育園に入れて復職する予定だ、と語る由美子を、周りは「変わってる」とこき下ろしていた。専業主婦が一種のステータスとなるこの地域では、彼女は異色の存在だった。


お互いの子どもの性別も違い、性格もそんなに似ておらず接点も特になかったのに、梨沙と由美子は仲良くなった。二人とも英米学科を卒業し、英語を使用した仕事に就いていただけの共通点は不思議と二人の仲を深めた。梨沙は「名古屋から来たお嫁さん」、由美子は「東京から来たキャリアウーマン」とどこかで線引きされていたはみ出し者同士だったのも大きかったのだろうと今になって思う。


そのうち二人が会うのは児童館からお互いの自宅や駅前のショッピングセンターになった。他のママの視線を気にしなくてよくなったので、その方がお互いに気楽だった。


「ねえ梨沙ちゃん、男が妊娠出産できるようになったら、この世界って少子化じゃなくなってるよね」


冬の日、ショッピングセンターのキッズスペースで自由に遊ぶ我が子たちを眺めながら、由美子が言った。この時には「葵君ママ」「雅ちゃんママ」ではなく、お互いのことを名前で呼ぶくらい仲良くなっていた。


「どうしたの、由美ちゃん。なんかあったの?」

「いや、思ったんだよね。産休育休制度って本当にクソだよなって」


産休制度を使用せず退職した梨沙には、由美子が言った意味がわからなかった。


「ごめんね、私、産休取らなかったの」

「え、体調悪かったの?」

「ううん、結婚したから退職が決まって、引継中に妊娠したから」


話さなかったっけ?と首を傾げる梨沙を見て由美子が絶句する。信じらんない、と呟く声には呆れと怒りが滲んでいた。


「そういうのよ。女は結婚したら退職してね、とか出産したら退職してねとか、本当に不公平」


由美子が産休制度について簡単に説明する。出産予定日の六週前から取得できるが、本人と職場との同意があれば出産ギリギリまで働くことはできる。


「じゃあ三十四週まで働くの?無理じゃない?」

「おかしいよね。そんな時期って通勤も一苦労だよ。もし男が妊娠したら、絶対妊娠六ヶ月から産休取れるように法律が変わると思う。産後も八週過ぎたら育休になるけど、ここも変わると思う。てか、男の都合の良いように変えていくと思う」

「確かに。ピルの承認はなかなか降りないけどバイアグラは早かったもんね」

「女に求めるものが多すぎるんだよ。子ども産んでね、から仕事もしてね、になって、働いて子育てして子どもの行事もやってね、介護もしてね、って。女をなんだと思っているんだろうね」


雅がよちよち歩きながらベビーコーナーから出ていこうとする。由美子は立ち上がり、娘を抱えて軌道修正をする。葵はマイペースに大きなウレタンブロックを積み重ねて拍手している。我が子のドヤ顔が可愛くて、梨沙も笑顔で拍手する。上手にできたね、すごーいと声をかけると葵は満足そうだった。うろうろしている雅を追いかける由美子と会話を続けるため、梨沙も立ち上がる。


「出生率を上げたいなら保育士の待遇を変えればいいのよ。そうすれば、保育士になりたい人も増えるし、保育園の受入人数だって増える。働きたい人が子どもを保育園に預けられる。そうすれば子持ちに理解がある人が増えるし、すぐには無理でも出生率が上がるのに。子ども手当を上げるよりも確実なのに、国会議員にはわかんないよね。あの人たち、子育てしたこともないし、ワンオペなんかしたこともないだろうし。子どもは放っておいても育つって思っている男も一定数いるのもおかしい。自分たちが何もしないからわかんないのよ」


由美子は前を向いてなんでもないことのように話していた。梨沙に言いたいのではなく、吐き出したいのだろう。この息の詰まるガラスジャーみたいな地域で、由美子は相変わらず異質の存在だった。

こんな話を児童館でしても「は?」と言われるだけだ。職場でする話題でもない。由美子は、こんな世の中はおかしいと文句を言い合える仲間に飢えていた。由美子に仲間だと認めてもらえて嬉しい反面、由美子の憤りを完全に理解できていない自分がもどかしかった。

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