六月(2)
「どうして言ってくれなかったのよ」
「何が?」
ベッドに入って寝る直前、やっと巧に文句をぶつけることができた。巧は相変わらずタブレットで本を読んでいる。
「日葵のこと?」
「まず葵の空手のこと。お義母さんが教室で見学してないのっていつからなの?」
「新学期が始まってからだよ。なんで?」
すでに二ヶ月も自分の子どもの習い事を把握していなかった事実にショックを受けた。
「なんでそういうこと言ってくれないのよ」
「言わなかったっけ?でも大した問題じゃないでしょ」
「そうじゃなくて、私は知らなかったんだけど」
梨沙の声に怒りが滲んでいると気づいた巧がタブレットを下ろす。
「ごめん。言ったと思っていた」
「そういう大事なことはちゃんと教えてよ。お義母さん、あなたにしかそういう連絡くれないの知ってるでしょ?」
「ごめんって。おふくろになにか言われた?」
「嫌味っぽく言われたのよ」
何をどう嫌味っぽく言われたのかはあえて言わなかったが、大体の想像はついたのだろう。
「でもさ、梨沙だって葵に空手どうだった?って聞いても、普通って答えられたりしてただろ?あの年の男の子って何も言いたがらないんだよ。おふくろだって空手教室まで送り迎えしてるし、一人で行かせてるわけじゃないから」
痛いところをつかれて言葉に詰まる。
どうだった?の後に梨沙が一言「おばあちゃんにいいところ見せれた?」と聞けばよかったのだ。それをしなかったのは梨沙の落ち度だ。忙しかった、日葵の相手をしていた、代わりに宿題を見ていたなどはただの言い訳で、葵をないがしろにしていた事実は変わらない。義母に苛立つのと同じくらい、梨沙は自分にも苛立っている。
「日葵のバレエの話もさ、おふくろがやらせたいって言うんだから甘えておこうよ。送り迎えしてくれるって言うし、月謝だって今から心配しなくてもいいんじゃないの。梨沙だって働いてるし、俺だってそのうち昇進試験が来ると思うし」
「バレエを始める事が嫌なんじゃないの。お義母さんにおんぶに抱っこばっかりで申し訳ないし」
「じゃあ梨沙はどうしたいの?」
「どうしたいの?」という巧の言葉はひどく無責任に聞こえた。
どうしたいのかと言われれば、自分で日葵と話して、納得がいってからバレエ教室を二人で見学に行きたい。自分が娘をバレエ教室に連れていきたい。それは梨沙の本心だった。現実問題仕事をしているのでそれはできない。面倒なところを全部義母が担い、更に月謝まで負担してくれるなら喜んで任せるべきだろう。
問題は、この習い事の問題の中に巧が含まれていないことだ。日葵だけでなく、葵の空手も巧にとっては関係のないことで、テレビの中で報道される外国の政治問題のようにしか捉えていない。それが問題なのだ。
この気持ちを巧に伝えれば、じゃあ俺が仕事の合間に習い事に連れていけばいいのか、と言われるのはわかりきっていた。仕事の合間に習い事の送迎も子どもの宿題を見ることもできないのはわかっている。そこを求めているわけではない。巧に何をしてほしいのか、巧がどういう態度を取れば梨沙も満足するのか、梨沙もはっきりとわかっていないのが一番の問題だった。
「日葵だってすぐに飽きるかもしれないし。ちょっと様子を見てみようよ」
巧はこの話はおしまい、と言わんばかりにリモコンを操作して、寝室の電気を消した。これ以上何かを伝えるにも、自分がなぜモヤモヤしているかを考える必要がある。無駄な喧嘩をする前に眠ってしまったほうが利口だ。
ベッドに横になった梨沙を巧が抱きしめる。
「梨沙。今日、どう?」
これが仕事だったらミスをした部下が上司に「僕の仕事、上手くやってません?ご褒美いただけます?」と言っているようなものなのに、巧の図太さに呆れてしまう。
断るのも面倒で「いいよ」と短く伝えると巧が上に乗ってきた。昔好きだったハリウッド俳優に抱かれている妄想をしながら巧を受け入れる。途中でそれも上手く行かず、早く終われ、とずっと思っていた。
「本当に、自分は関わらない人はいいですよね。お気楽で」
「いいとこ取りばかりできるんだったら私もしたいよ。なんで旦那には『やらない』って選択肢があるんだろうね。こっちはやりたくなくても、やらなくちゃいけないのに」
大久保さんと二人でナンをちぎる手に力がこもる。梨沙には大久保さんという、似たような境遇の人がいるから、まだ二人で文句を言い合って笑い飛ばせるだけましだ。
大久保さんの文句を梨沙が全て理解できる訳ではないし、大久保さんにしてみれば梨沙の文句も「贅沢な悩み」になるのだろう。
そういう細かいことを隠しながらお互いの不満を言い合える相手が貴重なのだ。職場を離れれば共通の知り合いはいないから、間違っても旦那や義実家に文句が伝わることはない。
「ああ、仕事戻りたくないなあ」
アイスティーを飲みながら大久保さんが笑う。十三時まであと十五分ほどだ。そろそろ店を出ないと遅刻する。
「本当ですよね。このままお茶したい」
言葉とは裏腹に、荷物をまとめながら伝票を手に持って席を立つ。
「萩原さん本当にありがとうね。すごくスッキリした。これであと二週間頑張れると思う」
「聞くことしかできないですけど、いつでも大歓迎ですよ。またランチ行きましょう」
少し食べすぎたため、ナンがお腹の中で暴れている。年を取るにつれて和食の美味しさを実感するようになった。次はお蕎麦でも食べたいと思うが、蕎麦は食べている間におしゃべりができない致命的な欠点がある。
「さーて、午後からも労働するか」
大久保さんが明るい声を出す。
「頑張りますか!」
梨沙も真似して明るい声を出してみるが、気持ちは晴れなかった。
「萩原さーん」
午後の仕事が始まって一時間ほどしてから、向かい側の席に座っている社員に声をかけられた。
「ごめん、二番の電話お願いしていい?仲田さん宛ての問い合わせが来ちゃった」
彼女は社名を告げる。
その会社なら梨沙も担当しているからなんとかできるだろうと判断したのだろう。でも問い合わせくらい自分で答えてくれと思いながら受話器を取ってボタンを押す。
「お電話変わりました、萩原です」
『あれ?仲田様は…?』
電話口の男性は梨沙が電話に出たことに驚いている。
「すみません、仲田は席を外しておりまして。代わりにお伺いいたします」
『あー…そう、ですね…。お願いします』
システムが発行した請求書の内容が違うのでは、と言われ、該当の情報をシステムで調べる。
コンテナ船が港に到着し、全てのコンテナの荷卸しが完了することを「一括搬入」と呼ぶ。搬入後、コンテナをコンテナヤードから搬出するまでの猶予期間をフリータイム、コンテナを搬出後、コンテナヤードへ返却するまでの猶予期間をディテンションと呼ぶ。客先からはディテンションの内容が間違っていていると指摘を受けた。
「弊社のシステム上、コンテナを搬出した日が五月二十五日となっておりますね」
『でも、このコンテナが入港したのが二十四日なんですよ。搬入が上がったのが二十五日の夜です。うちの記録では搬出したのは三十一日となってて、二十五日に搬出した御社の記録が間違っているとしか思えないんですよ』
「左様ですか…」
相手の言うことは正しい。宅配便の再配達依頼と違い、コンテナを搬出するためにはトラックの手配が必要となる。トラックはすぐに手配できないので、数日前に予約をするのが一般的で、システムの日付が間違っている可能性が濃厚になった。システムに情報を打ち込んだのは梨沙でなく仲田さんのため、梨沙にはこれ以上の情報はわからない。
「かしこまりました、一度お調べいたします。お手数ですがお電話番号とお名前をもう一度お伺いしてもよろしいですか?」
電話番号と社名、名前をメモする。この会社は巧の勤務先の系列会社で、いちいちマニュアルが細かくて面倒くさいと社内では有名なところだ。
『すみませんがよろしくお願いしますー』
丁寧な口調だが「そんなことくらいわかるだろ」という苛立ちが含まれていた。知らないよ、やったの私じゃないし、と言ってやりたい。
請求書を印刷し、それを仲田さんの机に置いた。梨沙の行動を見ていた係長が「大丈夫?」と声をかけた。簡単に事情を説明したら、係長はため息をついた。
「またかぁ」
「また?」
「実は似たような問い合わせが続いてるんだよね。これで四回目」
「四回も?仲田さんどうしたんですかね」
慎重派の仲田さんにしては珍しいミスが続いている。仲田さんはまだ席外しから戻ってきていない。
「ちょっと多いからね。オーバーワークなのか、ただの凡ミスなのか確認してみるね。ごめんね萩原さん」
請求書の内容が間違っていた場合、訂正依頼書を作成して係長の押印をもらったあと、経理部門に社内便で送付する必要がある。訂正依頼書は担当者が作成する決まりだが、仲田さんが不在だと担当者は梨沙になる。係長の「ごめんね」は、やってもいないミスで怒られることに対しての謝罪だろう。
「いえ、大丈夫です」
大人の分別で大丈夫と言ったが大丈夫ではない。深呼吸を一つして、怒りを飲み込む。取っておきのインスタントコーヒーでも飲んで気持ちを落ち着けよう。梨沙は引き出しを開けたが、そこにインスタントコーヒーは無かった。先週最後の一袋を使った後、補充しなかったことを思い出し、先週の自分を呪った。
翌日、梨沙は出社してすぐにトイレへ駆け込んだ。朝の支度で思ったよりも時間を取られ、トイレに行く時間がないまま出社する羽目になったからだ。葵が起きないことも日葵のグズグズも何故被るのだろう。わざとやっているだろうと怒鳴りたくなる。
トイレに入ると五つほどある個室のうち一つが埋まっていた。新しいビルなのでトイレはきれいだが広さはバラバラで、不思議とみんな一番広い個室から入っていく。適当な個室に入ると勝手に流水音が流れ始める。
誰かがいるはずの個室からは何も聞こえない。
誰かが自主的に休憩しているのだろうか。どうでもいいか。まだ始業前だし。個室から出て手を洗っていると、ようやく隣から音が聞こえてきた。えずく音が流水音にかき消されず、苦しそうな声が聞こえる。
「うえっ…」
諦めたように水を流す音がして、中から仲田さんが出てきた。顔色が悪く、口元をハンカチで押さえている。
「おはようございます」
何も気づいていないふりをして挨拶をした。仲田さんは梨沙に向かって会釈をして、消えそうな声でおはようございます、と答えた。
「体調、悪いんだったら言ってくださいね。いつでもフォローしますよ」
「…ありがとうございます」
「今日そんなに忙しくないはずだし、無理しないでくださいね」
「はい」
仲田さんが何も言わない限り梨沙が首を突っ込むことではない。
「萩原さん」
「はい」
仲田さんが何かを言いたそうに、でも何を言えばいいのかわからないのか、口を開いては閉じる。
「…なんでもないです。聞きたいことあったのに、忘れちゃった」
「そういう事ありますよね。思い出したら言ってください」
仲田さんは何も言わずにトイレを出た。自分も通った道だから、あの声の意味を梨沙は知っている。
彼女はおそらく妊娠している。だとしたら、最近の仕事の凡ミスも、真っ青な顔も説明がつく。職場の人間で気づいているのはまだいないのだろう。
仲田さんは彼氏と同棲している以上のことを梨沙は知らない。おそらく他の人も同じような認識だろう。
社会人三年目で、籍を入れていない状態での妊娠だったら泣きたくもなるし、凡ミスも増えるのは理解ができる。
本来なら、十歳下の女の子が泣いていたら優しく慰めるべきなのだろう。仲田さんの話を聞いて、不安材料を取り除いて、「大丈夫だよ」と言い聞かせて背中の一つでも撫でてやる。
可哀想だが、今の梨沙が彼女にできることは何もない。妊娠出産に限らず、他人のプライベートにはできるだけ首を突っ込みたくない。産休育休制度について教えたくとも、正社員と派遣社員では細かい制度が違うだろう。そもそも梨沙は産休制度も育休制度も使う前に会社を辞めたので未だに理解していないところがある。
初めて妊娠がわかった時、嬉しかった。母親になることと出産に対しての不安はあったが、巧との子どもを授かったこと、自分が妊娠できたこと、家族が増えることの全てが嬉しかった。職場はすでに退職の日が決まっていたので、後任に引き継ぎをするだけだった。すでに自分の仕事にそこまで責任もなく、退職するまでの日数を埋めるために出勤している梨沙が妊娠したところで、何も変わらなかった。だから梨沙は仲田さんの気持ちがわからない。結婚前に妊娠したことも、自分が抜けた後の仕事がどう回るのかを心配したことも、世間体も、仲田さんにしかわからない。仲田さんもこんなアドバイスにもならない意見を聞いたところで何の慰めにもならないだろう。
難しいな、と首をかしげて手を洗い、トイレのドアを開けると先程出ていったはずの仲田さんが立っていた。
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