六月(1)

六月に入ると、梅雨が待っていましたと言わんばかりに雨が多くなった。雨が降ると電車が混雑するし、濡れた傘が体に当たるので好きではない。洗濯物も乾きにくくなるが、汚れ物はそんな事情を気にせずに増えていく。

昔からこの季節は好きではなかったが、理由はもっと自分勝手だった。髪の毛がまとまらない、自転車通学ができない、頭痛がする。それがいつの間にか家事が捗らないから嫌いとなり、すっかり考えが変わってしまった。


隆弘とのやり取りはまだ続いていた。SNS上のダイレクトメッセージのみを使用し、お互いが返せる時に無理のない範囲で返信をするのが二人のパターンで定着した。週末になるとお互いに家庭のことで忙しく、金曜に送ったメッセージが日曜夜に返事が来ることも珍しくなかった。話すことも子どものことや自分の仕事のことで、たまに家族の愚痴を言い合っていた。たとえ巧にこのやり取りを見られても、後ろめたいことは何もない。昔の友人と偶然地元で再会して、懐かしさからやり取りをしているだけだ。


スマホが短くブブっと震える。この振動はメールを受信したとわかる。この時間はただの広告だろう。昔流れで登録した何かのメルマガ、たまに利用するネットショップのお買い得情報、子ども服がメインのアパレルショップ。化粧品メーカーからのお知らせ。どれだろうと確認すると、隆弘からだった。SNSのダイレクトメッセージはいつ届いたのか見落とす可能性があるので、誰かからメッセージが来たら登録しているメールアドレスに連絡が入るように設定しなおした。


『今日も一日お疲れ様。沙織がやっと体調回復した。昨日一日俺が休んで一緒にいたんだけど、子どもってどうして体調悪くても元気なんだろうな』


げっそりした絵文字が後ろについている。ああ、わかるわかる。葵も日葵もそうだった。体調が悪い癖に元気で、家だけで時間をつぶせなくて外に散歩に行ったりして、結局それでまた体調を崩してしまってなかなか回復しない。


『やっと出社できるんだけど、沙織のクラスのお友だちが結構休んでいて震えてる。今なにかの感染症って流行ってるの?もう病気はお腹いっぱいなんだけど』

『この間、家族でここに行ってきたよ。おすすめ。親も結構楽しかった。梨沙も行ったことある?』


隆弘が写真を送ってきた。県内にある比較的大きい公園で、子どもを連れて行くのにいいと聞いたことがある。行きたいと思ってすでに数年過ぎて、気づいたら子どもたちは公園で遊ぶなら友人同士で遊ぶようになってしまった。

返信をしたかったが、会社の最寄り駅に到着した。返事は昼休みか帰り道までお預けだ。



『お疲れ様です。今日のランチどこに行きたいとかありますか?』


社内で使用しているチャットを通じて大久保さんからメッセージを受け取ったのは昨日だった。梨沙も大久保さんもお弁当を持ってきているので、ランチを食べるためには事前に話をしておかないといけない。


『いつものカレーでどうでしょう?』


二人でランチを食べる時にいつも行く場所だった。よくあるインドカレー店で、焼き立てのナンが美味しく、手頃な値段で大体空いているからすぐに食べられる。大久保さんからいいねと返事が来た。


感染症の流行に伴い、梨沙の派遣先も在宅勤務が取り入れられ、チームチャットを利用したコミュニケーションが活発になった。ただ、セキュリティの関係で在宅勤務は正社員だけの特権だ。梨沙や大久保さんは、子どもが体調を崩した時は欠勤しなくてはいけない。


仕事は平等なのに、見えないボーダーラインが引かれている。正社員はここまでいいよ、でも派遣社員は駄目だよ。契約社員ならここもいいけどここは駄目。派遣社員とはなんて便利な歯車なんだろうと思う。皮肉ではなく事実だ。使えなくなったら次を補充して、正社員よりも安い給料で使える。


斜め前の席をちらりと見ると、仲田さんが青い顔をしてパソコンを叩いている。なにかミスをしたのかと思うが、それを聞くのは梨沙の仕事ではない。仲田さんは正社員の先輩に聞くよりも大久保さんや梨沙に質問をしてくるが、派遣社員からすれば「正社員に聞いてよ」となる。私たちより責任もあるし給料だっていいでしょう。都合よく甘えないでほしい。


仲田さんが席を立った。彼女が出て行った後、どこかから「あの子大丈夫なの?」と声が聞こえた。



インドカレー屋はオフィスから歩いて五分くらいの場所にある。わざわざここに来なくても、おしゃれなレストランがオフィスの周りにはたくさんある。ここは穴場なんだよとすでに辞めた派遣社員の先輩に教えてもらわなければ、梨沙も存在を知らなかったままだった。


注文を済ませるなり大久保さんは話し始めた。長く家を空けていた旦那さんが帰ってきて、せっかく作った生活のルーチンが崩れると憤っていた。


「娘も旦那が甘いから旦那の方につくんだよね。もう許せない。あんたがいない間、必死で家を回してたのに、そういう態度を取る!?って思っちゃってさあ。でも一ヶ月もすればいなくなるから喧嘩するのもなあって思うと、私ばかり我慢していてさ」


大久保さんの旦那は航海士をしているらしい。コンテナ船に乗り込み、一度航海に出ると何ヶ月と帰ってこない。その代わり航海が終わると一月ほど休みをもらう。どこの会社で働いていて、どの本船に乗っているかを大久保さんは言わなかったが、ヨーロッパ航路なのかアジア航路なのかでも違いがあるらしい。


「ごめんね、せっかくのランチなのに」

「大丈夫ですよー。いっぱい文句言ってスッキリしてください」

「萩原さん、優しい」


大久保さんが泣きそうになっていた。よっぽど腹に据えかねていたらしい。


「萩原さんのとこって喧嘩しないの?」

「うーん、あんまりしないですね」

「羨ましい。夫婦円満なんだ」

「そういうわけじゃないですよ。喧嘩するほどぶつかろうとしてないだけです」

「え、どういうこと?」

「旦那は私たちに興味がないから。こっちも旦那に興味がないんです」


できるだけ冗談っぽく聞こえるように明るく言ったが、それは梨沙の本心だった。子どもたちの学校の話をしても、習い事の話でも、梨沙の仕事の話でも、義実家の話でさえも、巧が興味深そうに聞いたことはなかった。ちゃんと聞いているし、アドバイスを求めると的確なものをくれる。ただ、どうでも良さそうな態度を崩さないだけだ。昔はそうじゃなかったと思うが、梨沙と付き合っていたときもこうだったんじゃないかと最近思い始めた。

梨沙が見抜けなかっただけで、もとから何もかもどうでもよかったんじゃないか。


「この間だって」


話し始めようとして、あ、と気づいた。今話し始めたらきっと止まらない。今日は大久保さんの話を聞きに来たのに。大久保さんはまだきっと話足りないから、手短に済まそう。


「下の子がバレエやりたいって言ってて。結局やらせることにしたんですけど、旦那が本当にどうでも良さそうで。こっちがイライラしちゃって」

「ああ、あるある。やらせてあげればって言うんだけど、結局習い事に送ったり、スケジュール管理したりとかって全部こっちに来るんだよね。一人だけ物分りがいいフリしてさ。実際にやらない人はお気楽でいいよね」


大久保さんはまた話し始めた。梨沙は彼女の話を聞きながら、週末に行われた話し合いを思い出した。



「バレエ、ですか」

「日葵ちゃんずっとやりたいって言っていたでしょ?ここまで言い続けるんだから、やらせてあげてもいいんじゃないかと思って」


梨沙たちの家と義両親の家は庭で繋がっていて、勝手口から行き来ができるようになっている。話があると義母に言われ、義両親の家でお茶を飲んでいた。庭では葵と日葵が遊んでいる。一緒に遊んだかと思えば喧嘩が始まり、その度に巧が仲裁に入る。


仲の良いお友だちがバレエをやっているから私もやりたいと日葵が言い続けてそろそろ一年になる。ここまで言い続けていれば本気でやりたいのだろうし、やらせてあげるのが親としての勤めだろう。


「でも、バレエは月謝だけで終わらないですし」

「そうよね。わかるわ。だから私が月謝を負担するわ」

「そんな。そこまで甘えられないですよ」

「いいじゃない。葵の空手だって私が出しているんだもの。葵はいいけど日葵は駄目、なんて差別はしたくないのよ」


葵が年長さんから続けている空手は義母がどうしてもやらせたいと主張し、送迎や月謝を負担することを条件に続けている。すぐ辞めるだろうと思っていたが葵の性格に合っていたのか、もう五年になる。葵の空手はいいけれど日葵のバレエは駄目、は不公平だという義母の主張は正しい。


義母と話をしていて、何故ここに巧がいないのだろうと腹立たしくなる。こみ上げる怒りを、お茶を飲んでなんとか腹に戻す。


「葵の空手との送り迎えの調整だって…」

「それは大丈夫。日葵のお友だちが通っている教室がね、ちょうど葵の空手がない日なのよ。それに最近葵も私がついて行くのを嫌がるの。さすがに車で送り迎えはするけど、もう随分教室まで入っていないのよ」

「そうだったんですか!?」


初めて聞く情報が出てきて驚く。ずっと義母に習い事を任せすぎていた。


「え、梨沙ちゃん、知らなかったの?巧には言っているんだけれど」


義母は習い事の詳細を巧にだけ連絡していたのかと今更知る。グループメッセージにくれればいいものを、なぜか義母は息子にだけ連絡していた。あなたの息子が私に連絡してくれないんですけどね、と嫌味を言ってやりたい。


「いえ、聞いてます。すみません、ちょっと頭がとっ散らかってて」

「とにかくね。このバレエ教室がこの辺じゃ評判がいいみたいなんですって。月謝もそこまで高くないし、日葵のお友だちも通ってるし。どうかしら」


義母が机に出したチラシを手に取る。教師の紹介や教室の紹介よりも先に月謝を確認する。たしかに月謝は思ったよりも安い。問題はその下の一文だ。


「お義母さん、バレエグッズは教室指定のものを使う必要があるそうです」

「あらそうなの?じゃあそれは合計金額から折半しましょうか」


梨沙は頭を抱えたくなった。教室指定のバレエグッズは大体高めの値段が設定してある。市販品との違いは教室のロゴマークくらいだろう。思いつくだけでレオタード、バレエシューズ、白いタイツ、スクールバッグが必要だろう。下手したらシニヨンも教室指定の可能性がある。レッスンが週に二回あったら、レオタード等を一枚だけ買って終わりではない。洗い替えも必要だし、タイツは伝線する可能性がある。成長に合わせて都度買い替える必要もある。


「どうかしら?」


義母は目をキラキラさせながら梨沙を見つめている。日葵にどうしてもバレエをやらせたいのだろう。


「お義母さん、確認させて頂きたいんですけど」

「なあに?何でも言ってね。今のうちに懸念事項を潰しておきましょ」

「バレエ教室には発表会があるんですが、その費用はどうお考えですか」

「それは折半しようかと思ってるわ。何だったら私が出してもいいのよ」

「…言いにくいんですが、百万を超えることもあるのがバレエの発表会です」


出た金額が予想外だったのだろう。義母が咳き込んだ。少なくとも一矢報いたことに嬉しくなる。


「そんなにするの?」

「今はしないと思いますが、日葵がずっとバレエを続けて行ったら、そうなる可能性は十分あります」


習い事は高学年に上がったタイミングや進学など、節目の年に辞めることが多い。もし日葵が中学生になってもバレエを続けたら発表会でソロのバリエーションを踊ることもあるだろう。もし才能を発揮したらコンクールに出ることもあるだろう。そうなると全てのレッスンに月謝以外のレッスン代が発生する。自主練習を行うとトウシューズやレオタードの消耗も激しくなる。義母がどこまでの覚悟でバレエの話を出したのか、梨沙にはわかりかねた。


「梨沙ちゃんバレエについてよく知ってるのね」


嫌味なのか、感想なのかわからないトーンで義母が言いながらお茶請けのせんべいを割る。静かな部屋にバキ、バキ、と小気味いい音が響く。義母は怒っているようにも見える。葵と巧の声が庭から聞こえてくる。


「高校の友人がバレエをやっていたんです」

「あらそうなの」


梨沙が進学した高校はそれなりの中堅高校で、比較的裕福な家庭の子どもが集まっていた。当時の友人で一人、三歳からバレエを習っている友だちがいたのだ。その子は部活も入らずずっとバレエ漬けの日々を送っていた。


「そのお友だちは今何をしているの?」

「バレエ教室で先生をしています」

「そうなの。長く続けると就職先も見つけやすいわよね。私はね、日葵をプロにしたいとかじゃないのよ。あの子がこんなにもやりたいって言ってるんだから、やらせてあげてもいいんじゃないの、って言いたいの。わかるでしょ?」

「それはわかってます」

「葵の空手と同じよ。日葵は私が教室まで連れて行くし、月謝は負担する。それでも駄目かしら」


ここまで言われると嫁の立場では断れないことを義母は知っている。知っているから梨沙の反論を全て塞いだ上で話を持ってきたのだ。


習い事は教室まで連れて行くだけで完結するわけではない。自宅で練習をさせて、進捗を確認して、習い事の親同士の繋がりだってある。葵の空手は何も考えずに義母の提案に乗ったのだが、教室での連絡事項はすべて梨沙に来る。追加稽古の日程調整や体調不良による欠席連絡などは当然のように梨沙がやる羽目になり、義母は楽なところしかやっていないように思える。

子どもを連れて習い事に行くことだって大変なのはわかるが、対外的に「いいおばあちゃん」と言われるところだけをやろうとしている義母に嫌気が差す。


「…巧さんと相談してみないことには、なんとも」

「あら、巧はいいんじゃないのって言ってたわよ」


こんなところでも先手を打たれていた。巧という切り札を抑えられていたらどうしようもない。今までこの話をできるだけ先延ばしにしていたツケが今回ってきた。


「梨沙ちゃん、巧と話せてないの?大丈夫?お仕事忙しいの?」

「いえ、大丈夫です。仕事は忙しいですけど、私はそこまで大変な仕事が回ってないので」


仕事をしていてもしていなくても巧はこの話を私にしなかったと思うんですけどね。義母の嫌味に笑顔で返す。ここでどれだけ梨沙が反対しても、日葵は確実にバレエを習い始める。「家族なんだから」と義母は言うが、家族であるはずの梨沙に話が回ってくるときは大体すべてが決定してからだ。うんざりする。


「わかりました。でも一度この教室に見学に行ってからにしましょう。日葵に合うのかもわかりませんし」

「ああ、よかったわ。じゃあ見学の予約を入れておくわね。梨沙ちゃんも都合が合えば一緒に来ない?」

「そうですね、調整してみます」


義母は立ち上がり、勝手口の扉を開けた。縄跳びをしていた日葵が義母の方を向く。


「日葵ちゃん、ママいいって言ったわよ!よかったわね」

「本当!?ママ、ありがとう!」


日葵が縄跳びを投げ出して駆け寄ってくる。普段庭で遊ぶことも葵と遊ぶこともしないくせに、今日に限って庭で遊んでいたのはこういうことだったのか。

日葵が梨沙に抱き着いてくる。心から嬉しそうな顔で梨沙を見上げる。


「ママ、大好き!日葵、バレエ頑張るから見ててね!」


こんなに嬉しそうな顔を見られるのだったら習い事くらいさせてあげたっていいじゃない、と言わんばかりに義母と巧が梨沙と日葵を見つめている。他人事だと思っている二人に無性に腹が立つが、日葵の前では笑顔でいた。

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