五月(6)
翌日の部活も外周から始まった。昨日と違うのは顧問が最初から部活に顔を出していたことだ。すぐに緩むだろうが、だらけた部員の空気が引き締まっているのを感じた。
「はいじゃあ外周行くよー」
絵理香の声掛けで外周が始まる。並び順はいつもと同じで、梨沙は殿を務める。顧問の斎藤が「内田、スピード上げて!」と叫んでくる。その後で笑い声が聞こえた。後ろを見なくてもサッカー部だと察しがついた。
斎藤の言うこともサッカー部の笑い声も無視してゆっくり走る。二周目を走っていたら目の前で隆弘がしゃがんでいた。
「大丈夫?」
「靴紐がほどけた」
怪我ではなかったことに安心する。隆弘は靴紐を結び直し、梨沙と並んで走り出した。なぜか梨沙のペースに合わせて走っている。今日は斎藤がいるから手を抜いて外周をすると注意をされるのに、何をしているんだろう。斎藤は各部員のタイムを把握している。隆弘が梨沙のペースに合わせていたら不自然だ。
「漫画読んだ」
「早いね」
「梨沙の言う通り、面白かった」
「でしょ。ねえ、走るの、大丈夫なの」
「なにが」
「今日、先生、いるじゃん」
だから早く走りなさいと遠回しに注意をする。
「足痛えんだよ」
「は?だったら、」
昨日無理に漫画を借りに来なくてもよかったじゃないか。昨日の外周でスピードを上げなくてもよかったじゃないか。テーピングを取らなくてもよかったじゃないか。言いたいことは色々あるのに、走っているせいで何も満足に言えなくてもどかしい。
「あいつのこと好きなの?」
グラウンドに戻ってきて、サッカー部の練習を横目に走っている時、隆弘が急に聞いてきた。あいつと言われても誰のことかわからなかった。
首を傾げる梨沙を見て、隆弘が「緑の五番」と呟いた。
該当のゼッケンを着ているのは伊藤だった。紅白戦でもやっているのか、サッカー部はみんな真剣な表情をしていた。
「伊藤のこと?やめてよ」
どこをどう取ったら梨沙が伊藤のことを好きだと思える要素があるのだろう。頭おかしいんじゃないの、と言う代わりに隆弘を睨みつける。
手洗い場まで来た。ここから道が舗装される上に、斎藤の監視からも逃れられる。手を抜けるゾーンになった途端、一年集団が大声で笑っているのが見えた。走るというより歩いている。
「梨沙」
「先輩」
「俺、お前のこと好きだよ」
隆弘が言ったことが理解できず、「へぇっ?」と間抜けな声が出た。思わず隆弘を見上げるが、隆弘はまっすぐに前を見て、梨沙には一瞥もくれない。
「付き合いたいって思ってる。考えといて」
それだけ言うと隆弘はスピードを上げ、一年集団を抜かしていった。お前ら真面目に走れー、と声をかけて先輩面を吹かせている。彼女たちは一瞬話をやめたが、後ろに梨沙がいたのに気づき、姿勢を正して走り始めた。
「お先にー」
精一杯優しい声を出したつもりだったが、どんな顔をしていたのかはわからなかった。
隆弘が私を好き?嘘でしょ、いつから?どうして?
疑問をぶつけたい相手は梨沙のはるか先を走っていて、追いつけそうもない。追いついたところで走っている間は満足に話せないだろう。
グラウンドに出ると、サッカー部の紅白戦に動きがあった。誰かがシュートを決めようとしている。パスパス、こっち!行け!抜け!声変わりが終わった男子特有の低い叫び声が響く中、伊藤がシュートを決めるもゴールから離れた方向へ飛んでいった。ナイスシュート、と嫌味っぽく心の中で呟いた。
その後の部活は何をやったのか全く覚えていなかった。部活終了後、隆弘と顔を合わせるのが恥ずかしくてわざと制服に着替えてから校門を出た。体操服で帰る生徒たちはすでに遠くを歩いている。絵理香と話しながら帰りたいが、何を話していいのかわからないし、彼女はすでに帰ってしまっていた。
「あれ、梨沙じゃん」
校門の周りでたむろしていたクラスメイトに話しかけられた。彼女たちは卓球部と剣道部の格技場組だ。
「お疲れー。みんな今帰り?」
「うん、まあね」
彼女たちの歯切れは悪く、誰かを待っているのだろうが、その相手が梨沙ではないのは明白だった。この時間になっても帰宅していないのはバトミントンか、サッカーか。どっちにしろ関わりたくないので「じゃあねー」と言いながら手を振って歩き出す。
中学校から自宅までは十五分はかからない。三年生になって歩くスピードが早くなり、運がいいと十分程度で帰宅できるが、今日はゆっくり歩いた。隆弘が私のことを好きなんてなんの冗談だろう。学童でも学校でも何かをしていたわけでもないし、隆弘に優しくしたどころか、馬鹿にしていた記憶しかない。きっとなにかの冗談で、罰ゲームかなにかなのだろう。多分そうだ。
後ろから声をかけられていたが、考え事をしていた梨沙はそれが自分に向けられたものだと理解していなかった。加えて大通りを歩いていたので、車の走行音がうるさかった。だから肩を叩かれたとき、心から驚いた。
「やっと先輩に追いつけた」
「佐久間」
とっさに隆弘の名字が出てきてよかった。周りには梨沙たちと同じ部活帰りの中学生が数人いた。
「これ、ありがとうございました」
隆弘がビニール袋を差し出す。昨日梨沙が貸した漫画が、梨沙のお気に入りの袋に入った状態で返された。
「面白かったです。また貸して下さい」
それだけ言って隆弘はUターンして家路についた。あの告白はなかったことのように振舞われて、どう反応していいのかわからない。とりあえず漫画をリュックに入れる。誰かに漫画を持っているところを見られたら面倒だ。リュックのジッパーを上げたタイミングで信号が青になり、歩行者が一斉に歩き出す。一人遅れた梨沙は小走りで横断歩道を渡った。焦る必要なんかまったくないのに気がついたら走り出していて、家に着いた頃には息が上がっていた。
今日は父が先に帰宅していて、梨沙が帰ったのを見ると「お帰り」と声をかけた。
「…ただいま」
「お母さん、ちょっと遅くなるみたいだから、先にご飯食べるぞ。着替えておいで」
「うん」
パステルブルーの部屋に戻るとやっと息ができた。小学生の頃から変わらない部屋がこんなにも梨沙を落ち着かせるとは思わなかった。ドアを閉めて床に座り込む。宿題が終わっていない。着替えないといけない。隆弘のことを考えないといけない。頭の中ではやることがわかるが、処理が追いつかない。
「梨沙、ご飯だぞー」
下から父親の声がした。反射的に「今行くー」と答え、適当な服に着替えて部屋を出る。さっきまでしていなかったいい匂いが家中に溢れている。梨沙の好きな生姜焼きだった。
梨沙は食事中何かを喋っていたが、部活のことには一切触れなかった。食事を終え、「宿題やってない」と言い訳をして部屋へ戻った。リュックから教科書とノートを取り出すと、隆弘から返ってきた漫画がリュックから落ちた。漫画を拾う気になれずそのままにして学習机に向かった。やたらと宿題が多くて助かったと思ったのは初めてだった。宿題を終えた時は二十一時半を過ぎていた。
早く風呂に入らないと父が入浴してしまう。父のあとは抜け毛が多く、お湯が汚いのでどうしてもその前に入りたかった。リビングでは後片付けを終えた父がテレビを見ていた。昨日はたまたま早く帰ってきていたのだが、母は仕事が忙しいため、まだ帰宅していない。
二十二時すぎに梨沙が風呂から出たころ、ようやく母が帰宅したようで、リビングから両親の話し声が聞こえてきた。何を話しているのかまではわからなかったが、母の口調からは怒りが滲んでいた。
「お帰り」
声をかけると母は努めて明るい声を出した。取り繕わなくても怒っていたことくらいわかる。無理しなくたっていいのに、と心の中で母に語りかける。
「ただいま、梨沙。学校どうだった?」
「いつも通りだよ。もう寝るね。お休み」
「お休みー」
ドアを開けて暗い部屋に入ると、何かが足に当たった。先ほど片づけなかった漫画を拾い上げてビニール袋から中身を取り出すと、漫画の他にメモが入っているのに気づいた。ルーズリーフを折りたたんだだけの簡易的なもので、それだけで女子からのものでないことが分かった。最低でも手紙折り、上級者になるとハート形などの凝った折り方をするのが女子の間にある暗黙のルールだった。
手紙には『こっちに連絡して 隆弘』の一言と、アルファベットと数字が並んでいた。隆弘の携帯電話番号とメールアドレスだった。中学生になってから隆弘の字を見るのは初めてだったと気づいた。小学生の頃と比べようにも、隆弘の書いた字がきれいだったかどうかなんて忘れてしまった。
梨沙は中学生になった時に、両親の帰宅が遅くなる時や梨沙になにかやってほしいことがある時に連絡を取りたいと言われ、携帯電話を与えられていた。しかし中学校は携帯電話の持ち込みが禁止されていたし、周りの友だちはほとんど携帯電話を持っていなかったので、基本的に部屋に置きっぱなしだった。久しぶりにメール作成画面を開き、宛先欄にアルファベットを打ち込む。間違っていないかを確認して、本文作成欄を開いて文章を作る。
『梨沙です』
その後何を言えばいいのかわからず、何度も推敲を繰り返す。何分も悩んだ挙げ句、結局その一言だけでメールを送った。小さい画面に紙飛行機のアニメーションが流れ、メールを送信しました、と出てくる。
なんとなく漫画を手に取り読み始める。何度も読んだ話だったがすぐに漫画の世界に没頭した。だから携帯電話からメールの着信音に設定していたメロディが鳴ったとき、びっくりして飛び上がった。普段こんな時間に梨沙の携帯電話は鳴らない。
『なんでそんなに他人行儀なの(笑)』
『どんなテンションでメールするべきか迷っただけ!(笑)』
『梨沙、相変わらず抜けてんね』
『うるさい。先輩って言いなさい』
隆弘のメールは普段通りのメールで、変に意識していた梨沙が馬鹿みたいだ。やっぱりあれは嘘だったんだろう。
『部活のときの話だけど、俺本気だから。』
避けていた話題を出されてドキッとする。
『ずっと好きだったよ。学童にいた時から。付き合ってほしい』
返事を打つ手が止まった。隆弘の思いにどう答えていいのかがわからなかった。クラスで付き合ってる子がいるのは一部の子たちだけだった。梨沙は告白されたこともしたこともない。メールの文章を書いては消してを何度も繰り返し、時間だけが過ぎていく。どうしよう、どうしよう、何を伝えよう。
機械的な着信音が鳴り、心臓が跳ね上がった。親に内緒でダウンロードした着メロは電話の合図だった。知らない番号からだったが思わず取ってしまう。
「もしもし」
『隆弘です』
「…どうしたの」
いつも聞いている隆弘の声は電話越しに聞くと雰囲気が違った。大人っぽいような、子どもっぽいような、不思議な感覚だった。通話料が高いため、梨沙は友だちと携帯電話で通話することを親から禁止されていた。梨沙が電話で話すのはもっぱら両親で、一分にも満たない連絡が主だった。禁止されている通話を異性としているという事実は、それだけで悪いことをしていると梨沙に錯覚させた。
『メール、返事ないから。何してるのかなって思って』
「なんて言っていいのかわかんないから、ずっと書いては消してってしてたの」
『俺のこと嫌いなの?』
「違うよ!」
好きか嫌いかで言ったらもちろん好きだ。伊藤のようにどうでもいい存在でもない。
「ただ、隆弘のこと、恋愛対象で見たことがなかったから。びっくりしてる」
『知ってる。梨沙に好きなやつがいたことも知ってる』
「どうして私なの?私、隆弘に好かれること何もしてないと思うよ」
『わかんねえよ。気づいたら好きだった』
隆弘の声は真剣だった。彼の真剣な思いにどう答えていいのかわからず、沈黙してしまう。
ドラマや漫画では電話しているシーンはうるさいくらいにみんな喋っていたのに、現実は沈黙をしてしまうんだなと梨沙は思った。隆弘も梨沙も黙ってしまった。電話代がもったいないといらぬ心配をしてしまう。先に口を開いたのは梨沙だった。
「私、誰かと付き合ったことなんかないの。だから付き合うって、何をしていいのかわからない。隆弘は年下だし、一緒に帰ったりとかそういうのあまりできないと思う」
『うん』
「それでもいいんだったら、いいよ」
隆弘はすぐに答えなかった。隆弘は去年付き合っていた子がいたと噂で聞いたことがある。隆弘から見たら梨沙のほうが子どもっぽいのだろう。年上のくせにと呆れているんだろうか。隆弘の沈黙が怖い。
電話の向こうで息を吐く音と、小さな声でよかった、と隆弘が言った。
『フラれたかと思った…』
「え、なんでよ」
『返事なかったし、メールも返事なかったし。めっちゃ緊張した』
「嘘。あんなに余裕だったのに」
『全然余裕じゃねえよ。生きた心地しなかった』
階段を上ってくる足音が聞こえる。あの音は母親だ。もう寝ると言ったのに部屋の電気がついているのに気づかれたら、部屋に入ってくるかもしれない。そうしたら電話をしているのがばれてしまう。
「ごめん、お母さんが来た!切るね!」
隆弘の返事を待たずに電話を切る。母親は梨沙が電話をしていたことに気づかず、両親の部屋へ入り、すぐに下へ降りて行った。部屋の電気を消してベッドに潜り込み、二つ折り携帯電話を開ける。メールボタンを押して隆弘への返事を送る。
『いきなりごめんね。お母さん、もう行った。好きって言ってくれてありがとう。嬉しかったよ』
絵文字を使いたかったが、隆弘の携帯電話会社と梨沙の携帯電話会社は別だった。絵文字は同じ携帯電話会社同士でないと使用できなかった。今まで使えなくてもまったく気にしなかった機能だったが、急に残念に思う。返事はすぐに来た。
『こっちこそありがとう。梨沙の彼氏になれて嬉しい!』
隆弘のメールは梨沙の気持ちを高揚させるのに十分だった。私にも「彼氏」ができた。一部のクラスメイトの特権だった彼氏が私にいる。漫画の主人公と同列になれたことが嬉しくて、急に自分の立ち位置が上になった気分だ。嬉しいような、恥ずかしいような、くすぐったいような、笑い出したいような気持だ。何かで「恋は魔法だ」と形容していた気持ちをやっと理解する。
『なんか泣きそう』
『泣くなー』
電車のアナウンスがまもなく最寄り駅に到着すると伝え、梨沙はスマホをカバンに入れて立ち上がる。先ほどまで車内にいた陸上部の子は少し離れた場所に座ってスマホを触っている。円陣を組んでいた高校生たちはいつの間にかいなくなった。
家に帰ったらご飯を準備して、今日はナスを使いたい。お肉の解凍を忘れた。とりとめのないことを考えながら、梨沙は電車を降りた。
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