七月(2)

駅前にあるショッピングセンターの一階にはコーヒーチェーン店がある。いつ来てもこの店は客で溢れていて、楽しそうにおしゃべりをする客で座席が埋まっていた。今は店内には客がまばらに座っているだけで、普段は聞こえてこないジャズのような音楽がゆったりと流れている。一番人目につかない席を選んで座る。めったに座れないソファの席だった。腰を下ろして、何故この席がいつも人気なのかを理解した。座り心地がいい。


スマホの画面を見るとすでに二十時半を超えているが、誰からも連絡は来ていなかった。


その事実が悲しいのか、嬉しいのか、梨沙にもわからなかった。



「バーベキュー?」

「そう。会社の行事でやるんだよ。こういう行事は久しぶりだから参加してって言う上からのお達しがあってさ」


日程を確認すると土曜日の昼間だった。この日はスイミングがあるが、振替レッスンを申し込めば大丈夫だろう。日葵のバレエも、葵の空手もない日だし、夏休みの第一日目だった。


「いいんじゃない?何人くらい来るの?」

「係の人はほぼ強制参加だから、六十人くらいかな。家族連れもいるからもっと増えるかも」


バーベキューの準備は会社が手配するので、特別に何かを用意する必要はないらしい。追加の食材は参加者で各自どうにかする必要があるが、バーベキューコンロや炭などの用意をしなくていいのは魅力だ。


「それ、俺も行くの?」


行きたくないのか、行きたいから確認をしているのか判断しにくい言い方で葵が聞いてきた。


「葵も行けるよ」

「私は?」

「日葵ももちろん行くよ」

「俺、行きたくない」


葵がテレビゲームをしながら言う。


「あの子も来るんじゃない?ほら、柴田さんって覚えてる?あそこの下の子。名前なんだっけ?」

「柴田は異動したから別部署になったぞ」

「俺は行きたくない」

「えー、お兄ちゃんが行かないなら私も行きたくない」


予想通り嫌な風向きになってきた。巧の会社は意外と考えの古い上司が多く、こういったイベントに家族で来ないと出世に響くことがある。巧の出世スピードが遅いのは義母が最も気にしていることで、事あるごとに梨沙へ愚痴なのか嫌味なのかわかりにくい文句をぶつけてくる。


巧はそんな事を気にする様子もなく、知らん顔をしている。子どもの自主性に任せればいいと思っているのだろう。自分の会社のイベントなのに人任せでイライラする。


「じゃあ、来てくれたらお小遣いあげるよ」

「本当!?」

「いくら?」


子どもたちと交渉し、葵には千円、日葵には五百円をバイト代として渡すことになってしまった。モノで釣るのは良くないとわかっているが、子守を義母に頼むといつもより文句を言われるに決まっている。千五百円で済むなら安いと、必死に自分に言い聞かせた。



バーベキューには罠が潜んでいることを梨沙は知っているはずだった。会場で食材を用意してくれても、肉が焼けるまでは時間がかかる。その間、子どもたちになにかを食べさせ、周りの大人と世間話をし、食材の世話をする。

そこまでわかっていたのに準備を怠ったのは梨沙だった。おにぎりを作っておこうと前日まで覚えていたのに、朝にご飯が炊けるようセットをするのを忘れた。冷やご飯は十分な量が残っておらず、おにぎりは作ったが量が少ないのは明白だった。

唐揚げや卵焼きなどを準備しようにも、連日の残業がたたって寝坊した上、買い出しにも行けておらず、冷蔵庫の中はほぼ空っぽだった。


巧も葵も日葵も自分たちが行く準備もせずにダラダラと遊んでいて、バーベキューに出かける前から梨沙の機嫌は悪かった。

なんとかおにぎりを作り、自分の準備を整え、車に荷物を乗せた時点で疲れ切っていた。許されるなら梨沙だって行きたくない。一円にもならない人付き合いをして何になるのかと思ってしまう。


車内では葵と日葵がカーステレオに流す曲で喧嘩をしている。どっちの曲をかけてもいいのだから静かにしてほしい。

巧が折衷案で梨沙の好きな曲をかけ始めたが、案の定子どもたちからブーイングが来る。


「じゃあいいよ、ラジオにしよう」


誰の意見も聞かずにラジオにすると、懐かしい歌が流れていた。


「この歌聞いたことがあるー」

「お、懐かしいな。この歌、パパとママが中学生くらいだったときに流行った歌だぞ」


昔流行ったよなと巧が話しかけてくる。


「そうだね、懐かしい」

「一時期この曲ばっかり流れてた記憶があるな」


巧が小声で歌い出す。二十年経っても歌詞もメロディも覚えているようで、詰まらずに歌っている。この曲は今の時期に流れていたはずだ。嫌な思い出と結びついているこの曲は苦手だった。



もうその子の名前も忘れてしまったのに、やられたことはまだ覚えていた。早く忘れたいと何度も思ったのに、タトゥーのように、あの光景は梨沙の頭に焼き付いている。


夏の日、部活が終わり、校門を出るところで剣道部たちの集団とかち合った。彼女たちは四月からずっと校門のところでおしゃべりをしていた。ただしゃべっているだけでなく、それぞれのお目当ての男子と一緒に帰るために時間を潰していたとしばらくして気づいた。

今日はサッカー部の練習は早めに終わり、すでに全員帰宅していた。剣道部はそれを知らなかったのか、校門で律儀に出待ちをしていた。暑いのに大変だなと思いながら彼女たちのそばを梨沙は通り過ぎる。


「内田さん、もう怪我治ったの?」


彼女が梨沙に話しかけていると理解できず、反応が遅れた。「サッカー部の練習中、ボールが当たって怪我をした生徒がいたためサッカー部が謹慎を食らった話」は有名で、その被害者が梨沙だったこともこの時期には全校中に知れ渡っていた。


「うん、治ったよ」


もともとたいした怪我ではなかったので、擦り傷は一ヶ月もしないうちに治っていた。傷痕が残るほどでもなかった。


「伊藤君に謝んないの?」

「え?」

「内田さんのせいでサッカー部が謹慎食らったじゃん。かわいそうだと思わないの?」


剣道部の練習場所は格技場のため、彼女たちは何が起こったのかを直接見ていない。伊藤がずっと梨沙にちょっかいをかけていたことも知らない。なんて適当なことが言えるんだろうと逆に感心してしまう。


「大体さあ、伊藤君が内田さんにわざとボール当てたとか、自意識過剰じゃないの?」


言い返さないと、と思う反面、面倒くさいと思った。彼女の中で悪いのは梨沙だけで、なにを伝えても彼女には届かない。反論をすれば後ろにいる剣道部たちがなにかを言い返してくる。そうすれば梨沙の立場は悪くなる。また先生が出てくるような事態になったら。区大会前だからトラブルは避けたいのに、剣道部はそんなことを考えないのだろうか。

事態がこれ以上ややこしくなる前に、彼女たちを無視して校門を出た。


「何とか言いなよ、臆病者!」


本当は言い返したかった。何も見ていないくせにわかったような口を利くなと言ってやりたかった。でも、言ったとしても伝わらず、変な噂ばかりが流れるのだったら、黙っている方がよかった。

小学校の時、学童に行かされているのは親に愛されていないからだと心無いことを言ったクラスメイトに反論しても、何も伝わらなかった。あの時から梨沙は諦めることを覚えてしまった。両親も、クラスメイトも、こちらの思い通りになるわけがない。


だったら自分だって彼らの思い通りに動かなければいい。何を言われても黙っていればいい。剣道部がまだ何かを騒いでいるが、梨沙は無視して歩き続けた。

通学路にあるガソリンスタンドの前を通った時、有線放送からなのか、この夏にリリースされた新曲がかかっていた。なにが彼らに刺さったのかは分からないが、男子がこぞって聞いていて、昼の放送で流れれば音楽の授業では歌わないくせに大合唱を初めていた。いつも中心になって歌っていたのは伊藤だった。


誰にも追いかけられてなんかいないのに、その歌が引き金となり、梨沙はいつの間にか走り出していた。走るたびにリュックがバタバタと背中に当たり、痛かったが気にせず走る。途中、横断歩道で赤信号に引っかかり立ち止まる。膝に手を当てて、えずくように息を整えた。


あの子たちに何も言い返せない自分にも腹が立っていたし、理不尽をぶつけられたことに対しての恐怖も入り混じり、涙が溢れていた。何も知らないくせに。私が伊藤にずっとされていたことを、見てもいないくせに。下を向いていると視界に同じ中学の体操服を着ている足が見えた。ダサい白い靴に白いソックス。私と同じ芋臭い中学生。靴のサイズが大きいところを見るときっと男子だろう。

信号が青に変わり、鳩の鳴き声のような音が流れ始める。顔を上げると、その中学生と目が合った。すでに帰路についているはずの伊藤だった。


「内田」


なんでこいつがここに。サッカー部の練習は陸上部よりも早く終わっていたはずだ。もうとっくに帰っていたはずだ。


「お前、泣いてんの?」


その一言で梨沙は泣いていたことを思い出した。泣き顔を伊藤に見られたこと、一番合いたくない伊藤に会ったこと、剣道部に絡まれたことが一気に押し寄せ、梨沙はまた走り出した。




「梨沙が中学生だった頃もこの曲流行ってた?」


歌い終わって満足した巧が話しかけてくる。昔のことを思い出していた梨沙は、巧の言葉で急に現実に引き戻された。


「うん、流行ってたよ。給食の時間にも流れてた気がする」

「俺の中学、一時期ずっとこの歌が流れてたな」

「えー、変なのー」


両親の会話になんとか入ろうと日葵が口を挟んでくる。それをたしなめようと葵が余計な口を出し、兄妹喧嘩が始まる。


「もう、静かにしてって言ってるでしょ!」


梨沙は子どもたちに、通算五回目の雷を落とした。まだ十時にもなっていないのに、なんでこんなに疲れたんだろう。フロントガラスから見える空は嫌味なくらい青かった。


バーベキュー会場に到着した時にはすでに半分近くの社員が集合していた。巧が言っていたように、家族連れが多く参加して、子ども同士で早速グループになって遊んでいた。日葵は恥ずかしがって参加しなかったが、葵は同年代の子を見つけてゲームの話をしたり、走り回ったりしていた。あんなにも嫌がっていたくせにと思うが、遊んでくれるなら何でもいい。


「わあ、萩原さんのお子さんですか?かわいい!」


巧の後輩だと紹介された女性社員たちが日葵を取り囲む。人見知りを発動した日葵が梨沙の後ろに隠れる。


「お名前なんですか?何歳ですか?」


日葵はもじもじしてしゃべらない。


「すみません、日葵と言います。今年小学校一年生になります」

「可愛いですねー。シニヨンヘアしてるけど、バレエとかしてるんですか?」

「そうです、始めたばっかりです」

「そうなんですねー。私も昔バレエやってたんですよ」

「お姉さん、バレエやってたの?」


先程までの人見知りはどこへ行ったのか、日葵は女性社員たちに簡単についていってしまった。防犯意識をしっかり教える必要がある。

視界の端で葵と日葵の動きを追いつつ、巧から紹介される同僚に挨拶をして、簡単な自己紹介、当たり障りない世間話をするだけであっという間に三十分は過ぎた。梨沙が派遣社員で働いていると伝えると、何人かは驚いたような表情をした。なぜそんな反応をするのか不思議に思っていたら、司会が「着席してくださーい」と指揮を取り始め、やっとバーベキューが始まる。


梨沙たちのコンロは子連れで固められていて、明らかに人数が多い。食材は一テーブルで十人分くらいあると言われたが、このテーブルだけ十八人もいる。火起こしをして、野菜や肉を焼くまでの間、梨沙は葵と日葵におにぎりを食べさせた。


「おにぎり、ください!」


その様子を見ていた三歳くらいの男の子が梨沙に言った。同僚と紹介された橘さんのお子さんだ。こういった行事に参加するのは初めてらしく、何も持ってこなかったようだ。


「こら、まー君!あれは他の人のだから駄目。すみません、気にしないでください」

「ねえママ、あの子におにぎりあげていい?」


日葵がおにぎりを一つ取って梨沙に聞く。これで駄目だと言えない状況になった。


「いいよ。でもまずまー君?のお母さんに、あげていいですかって聞かないとね」

「まー君におにぎりあげていいですか?」


梨沙と日葵のやり取りはすべて聞こえていたようで、まー君は嬉しそうにおにぎりを受け取り、お母さんが申し訳なさそうに「すみません」と頭を下げた。


「いえ、大丈夫です。逆にアレルギーとか大丈夫ですか?」

「大丈夫です。本当にすみません。お肉が焼けるまでの間のことを忘れていて」


このやり取りを見ていた他の子どもも羨ましそうにまー君を見ているのに気づいたのは葵だった。葵もおにぎりを手に取り、他の子たちに「食べる?」と聞いている。すでにひと暴れした子どもたちは大声でお礼を言っておにぎりを食べ始めた。誰も梨沙の分を残さなかったので、一つも食べられなかった。巧はちゃっかり自分の分を確保しているところが腹立たしい。

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