七月(3)
予想通り食材は全く余らず、子どもを優先して食べさせていたので大人たちは空腹だった。
食材が余っているテーブルへ乱入し、家族分の焼きそばを持ってきたパパさんもいたが、巧はそういうことをできる人ではなかった。そうこうしているとご飯を終えた子どもたちが遊びに行くと言って中座する。
周りの家庭は「気をつけてね」というだけで誰もついて行こうとしない。意外と視界の悪いところや足場が悪いところもあるのに気にしないのかと驚きながら、葵たちが席を立ったタイミングで慌てて二人の後を追う。
広場はバーベキュー会場から少し離れていて、会場の様子を確認することはできない。今は無理でも、誰かが交代に来てくれるだろう。それまでの辛抱だと、傍にあった自販機でカロリーが高そうなカフェオレを買って飲んだ。子どもたちになにか文句を言われたら面倒だったが、みんな元気に追いかけっこをして遊んでいる。
日差しが強く、梨沙は木の陰に移動して腰を下ろす。いつの間にか帽子は老若男女問わず夏の必需品になった。葵と日葵もちゃんと帽子を被っているが、他の家庭の子が一人被っていない。熱中症にならなければいいけど、と思う。あの子は誰の子だったか。さっき名前を聞いたのにもう忘れている。
鬼ごっこだったはずなのに、子どもたちはリレーのようなことをしている。その光景は梨沙に部活でリレーの練習をしていたあの時期のことを思い出させる。
期末テストが終了し、区大会の練習が本格的に始まった。サッカー部とはあれ以来何事もなかったかのようにグラウンドをシェアしていた。サッカー部も区大会に向けての練習が本格化し、弱小の陸上部に構っていられなかったのだろう。
障害物、短距離、中距離、長距離などを各自で練習しつつ、目玉となった男女混合リレーの練習が始まった。チームの中で唯一の二年生である隆弘は物怖じすることもなく積極的に意見を出していた。リレーの順番を何度も入れ替えて試してみて、フィードバックを行う。三年生にとっては最後となる区大会のリレーは、個人種目練習するよりも熱が入った。目的は区大会の先にある体育大会だったが、練習を始めると自然と熱が入っていった。
「佐久間いいよな」
絵理香と隆弘がバトン練習を行っているとき、片岡が梨沙に話しかけてきた。片岡とはクラスと部活が同じだが、必要なことがない限り話はしなかった。
「え?」
「実力あるし、リーダーシップあるし、後輩の扱い方もうまいじゃん。部長は佐久間で決まりだよな」
「ああ…そうだね」
対外的に見た隆弘は完璧な後輩だ。片岡が言うように、成績もいいし、陸上部では記録を出している。後輩への当たりもよく、先輩への気遣いもいい。部長には隆弘しかいないと絵理香も言っていた。
「西脇ー!集中しろー!」
片岡が声を上げる。テイクオーバーゾーンでのバトンの受け渡しが上手くいかず、絵理香たちはミスを繰り返している。先ほどまではタイミングが合わなかっただけだったが、今回に至っては絵理香がバトンを落としてしまった。絵理香と隆弘が練習を切り上げて片岡と梨沙のもとへ戻ってくる。
「何回やっても、佐久間とタイミングが合わない」
絵理香にしては珍しく弱気だった。区大会まで一カ月を切っているのに形にできていない。いい加減にオーダーを決めておきたいのに、と絵理香がぼやく。
「声掛けしてる?」
「してるよ!声掛けしてるのに、なんでだろう。佐久間が早すぎるっていうか、遅すぎるっていうか。私とタイミングが合わない」
「俺のせいっすか。西脇先輩が俺の速さについていけてないんですよ」
「順番変えてみるしかないか。でも佐久間とのタイミングは俺も合わなかったからな」
すでに片岡と隆弘でバトンの練習はしていたが、片岡がバトンを渡しても、隆弘がバトンを渡しても上手くいかず、絵理香と代わったのだ。
「ねえ、梨沙と私で順番変えてみたらどうかな」
暫定的ではあるが梨沙は第一走者だった。スタートは自信があるからという理由だけで決まったので、順番を変更することに異論はない。片岡とも絵理香とも駄目だったのなら、残った選択肢は梨沙だけだ。
「いいけど上手くいくかな」
「小学校の時も佐久間と陸上部だったんでしょ?私よりは佐久間とタイミング合うんじゃないの?」
絵理香の言葉には「あんたたち、付き合ってるんだからいいでしょ」という意味も含まれていた。隆弘と付き合っていることは絵理香にだけ打ち明けていた。
「じゃあやってみるか」
絵理香と交代し、テイクオーバーゾーンに入る。隆弘はグラウンドの反対側に移動した。
片岡がホイッスルを短く吹いたのを合図に隆弘が走り出す。梨沙はこちらへ向かってくる隆弘を目で追いながら準備をする。絵理香が言っていた通り、梨沙は小学生の頃から隆弘のバトンを受け取ってきた。隆弘の癖が変わっていなければいいが。
梨沙の心配をよそに、隆弘の癖は何も変わっていなかった。テイクオーバーゾーンに入る前、隆弘は加速する。だからそこを見誤らないようにして、ゾーンに入る直前から少しずつ動く必要がある。隆弘がテイクオーバーゾーンに入ったのを確認し、梨沙は走り出した。テイクオーバーゾーンで隆弘はスピードを緩めない。加速したままバトンを渡すのだ。だから受け手も同じスピードで走る必要がある。
「行け!」
バトンを受け渡すとき、大抵の生徒は「はい!」と声を出して合図していた。それだと自分の合図なのかわからないからと差別化をした。隆弘の合図は「行け!」だったが、驚くくらい何も変わっていなかった。自分が小学生になったような気がする。
左手でバトンを受け取り、走りながら右手に持ち替える。テイクオーバーゾーンを飛び出て梨沙は走り出した。バトンの練習だからそこまで本気でやらなくてもいいとわかっていたのに走っていた。
「梨沙ー!」
絵理香が喜ぶ声を聞いて初めて、バトンの受け渡しが成功したと理解した。グラウンドの向こうで絵理香が喜んでいる。普段パッとしない梨沙が誰とやっても上手くいかなかった隆弘のバトンを繋いだことに、片岡が驚いていた。横目でちらちらとこちらを見ていた他の部員も驚きながら、「先輩すごーい」と拍手を送っていた。
「これなら行けるよ!」
隆弘からもらったバトンが日光に反射して地面に光を映した。隆弘が親指を立てる。上がった息を整えながら梨沙はグラウンドの中心へと歩く。誰も繋げなかった隆弘のバトンを繋いだこと、隆弘の癖をすべて覚えていたことで、隆弘を理解したと思い込んでいた。
もし、隆弘と別れていなかったら、私が今いる場所はバーベキュー会場じゃなくて、地元の公園だったんだろうか。自分が小さい頃から遊んでいた公園で子どもを抱いていたんだろうか。たられば論を展開しながら子どもたちを見る。日陰にいるのにとても暑く、汗が体中から流れ出る。
「ねえママ、こっち来てー!」
日葵が梨沙を呼ぶ。重い腰を上げて日葵のそばに行くと、セミの抜け殻を見せてくれた。思わず変な声を上げてしまい、それが面白かったのか、ひたすらセミの抜け殻を見せられ続けた。
子どもたちを休憩がてらバーベキュー会場に連れ戻した時には、宴もたけなわだった。巧はペットボトルのお茶を片手に楽しそうに談笑している。なにかを食べたのか、使い終わった紙皿が巧の前にある。他のテーブルもあらかた食べ終わったのか、食事はほとんど残っていない。私の分を残すほどの思考もなかったのか、と苛立ちなのか、悲しみなのか、あるいはその両方の感情が腹の奥から上がってくる。
「あの、さっきはおにぎり、ありがとうございました」
まー君の隣に座っていたパパが梨沙に声をかけた。手には未開封のペットボトルを持っていて、それを梨沙に差し出してくれた。どこかで聞いたことのある声だった。
「奥さん、なにか食べれました?」
「全然です。もっとなにか持ってくればよかったです」
「子連ればかり固めた会社のミスですよね」
まー君パパは簡単に自己紹介をした。所属は巧と同じ会社だが、現在は子会社に出向しているという。
「奥さんは働かれてるんですか?」
「はい。でも派遣社員なんですけどね」
派遣先の社名を出すと橘は驚いた。
「違ってたらすみません、もしかして貿易事務の輸入を担当されてます?」
「はい。でもどうして」
そこまで言ってあっと気づく。梨沙が担当する顧客の担当者だ。金曜にも電話で話をしていた。
「橘さんですか!いつもお世話になってます」
「こちらこそですよ!いつもご迷惑ばかりかけてすみません。でも驚いたな、まさか
萩原さんが同僚の奥さんだったなんて」
「世間は狭いですね」
それからしばらく仕事の話に花が咲き、やっと大人と喋れたことになんとなくホッとした。
「そういえば、海外事務って英語どのくらい使うんですか?」
「そうですね…読み書きができれば、って感じです。私の派遣先はよっぽど急ぎじゃないと国際電話もかけないんです。だから、相手の言ってることがわかって、自分の言いたいことが書ければ困ることはないです」
「いや、それでもすごいですよ。TOEICとか持ってます?」
「この間受けました。勉強できてなかったので、思ったよりはスコアが伸びなかったんですけど」
「失礼ですがおいくつくらいでした?」
なんで橘が梨沙の英語力に食いついてくるのか、内心首をかしげながら先日受験したTOEICのスコアを伝える。そこまで高いわけではなかったが、橘が大げさに驚いていた。
「そんなにすごくないです。私、大学は英米学科だったので、もっとすごい子いっぱいいたんです」
「え、じゃあ留学とかは?」
「一年程度ですけど、イギリスに行っていました」
「なるほど…」
橘は黙ってしまった。彼の沈黙が不自然で気まずくなり、もらったペットボトル飲料の蓋を開けて口をつける。炭酸飲料が疲れた体に染み渡る。
「すみませんね、不躾な質問ばっかり聞いてしまって」
「いえ」
「いや、実はですね、僕から言うことじゃないとは重々思っているんですけど」
橘は声を潜めて続きを言った。橘の言葉は、梨沙の言葉を奪うのに十分だった。
行きたくないと文句を言っていたが、結局一日中遊び回っていたので、帰りの車の中で葵も日葵も寝てしまった。巧は運転席からずっと梨沙に話しかけてきた。あの時の会話にいた人が、と言われても、会場をうろちょろしていた梨沙にわかるわけがない。
子どもたちが寝たのを確認してすぐ「梨沙も寝てていいよ」と言ったくせに、自分の言葉を忘れたかのように話し続けている。鬱陶しくなり、イヤホンを耳に差して目を閉じる。わざとボリュームを上げたのにまだ巧の声が聞こえる。
巧の声を聞きたくなかった。
「ねえ、寝てていいって言ったんだったら静かにしてよ。寝れないじゃない」
苛立ちながらイヤホンを外して巧に抗議した。片耳からはテンポのいい歌が流れ、梨沙を余計に苛立たせる。
「梨沙、疲れてる?大丈夫?」
「大丈夫なわけないよ。お腹は空いてるし、休憩もできてないから疲れ切ってる」
「ご飯食べれなかったの?」
この人は一体何をしていたんだろう。梨沙がバーベキューグリルの前どころか、同じテーブルに長い間いなかったことに気づいていたはずなのに。
「何言ってるの?ずっと子どもたちの面倒見てたんだよ。代わってって何回か連絡したよね?」
「ごめん、見てなかった。でも他の人と話してたから、休憩くらいできてるかと思ってた」
「食べ物だって何も残ってなかったじゃない。私の分を残しておく事も考えなかったの?」
気まずい沈黙が流れ、巧が何も考えていなかったことが証明される。普段からこうだ。自分だけ楽しければ他のことを考えないのは巧の悪い癖だ。
「どこか寄ろうか?」
「いい。買い物も行かなきゃいけないし」
すでに夕方の十六時になろうとしていた。こんな時間に何かを食べたら晩ご飯が食べられなくなる。ドライブスルーに寄っても高確率で子どもたちが起きるのを経験上梨沙は予想していた。
「本当に静かにして。私すごく疲れてるの」
左側に頭をもたれさせ、イヤホンを差して目を閉じる。いつの間にか曲が変わっていた。日葵のアニメの歌だった。
大丈夫、あなたはあなたのままでいい、楽しいフリなんかしなくていい、と語りかけるように歌うアイドルの歌に、少しだけ救われた。
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