七月(4)

甘いコーヒーを注文したのは大学生以来だった。昔はあんなにも好んで飲んでいたドリンクは、いつの間にか甘すぎると感じ、注文しなくなっていた。

スマホのロック画面を見る。葵と日葵、巧が写っている写真の上に時刻が出ている。

二十一時を過ぎたところだ。


家族からの連絡は相変わらずない。


ロックを解除してSNSを開く。三連休なので遊びに行った報告の投稿が多い。誰かが梨沙の投稿にリアクションをしてくれた通知を無視して、その横にある封筒のマークを押した。


隆弘からのメッセージに返信をしていなかった。今朝しようと思っていたのにそんな時間がなく、ずっと放置していた。三連休は旅行に行くつもりだったけどできないと嘆いていたメッセージ。


大変だったね、と打てばよかったのに、梨沙は指を止めた。代わりに、ずっと避けていた話題を打ち込む。何度も書いては消して、指を止めて、ようやく一文書くことができた。


『久しぶりに会いたいね』


この文章を送ってしまえば何もかもが変わると梨沙はわかっていた。隆弘も梨沙も、無意識のうちに避けていた文章。家族にも巧にもうんざりした今なら送ってしまえる。

理性をなくしたわけではない。ただ昔に戻って話をしたいだけだ。

萩原梨沙じゃなくて、内田梨沙だった頃に戻りたい。内田梨沙を知っているのは隆弘しかいない。

紙飛行機のマークを押す勇気が出なくて、梨沙はコーヒーをもう一口飲んだ。


店内はガラス張りになっていて外の様子が見える。窓に映る自分の顔は泣きそうな顔をしていて、日葵の泣き顔にそっくりだった。


日葵。


ここに来る前、日葵を厳しく叱りつけた。疲れた体でスーパーへ行き、一週間分の食材を購入し、倒れ込みたいのを我慢しながら晩ご飯を作った。レトルトに頼ってしまったが、家族みんなが好きなビビンパを作った。ご飯だよと呼びかけても日葵はテーブルに来ず、もじもじとしていた。


「日葵、何してるの?早く食べようよ」


優しく呼びかけても日葵は動かない。普段ならもう少し耐えれたが、今日は梨沙にも忍耐がなかった。


「日葵!」

「…食べたくない」

「なんで?」

「今日はお外で食べたかったの」

「お昼に外で食べたでしょ?だから夜はお家で食べるんだよ」

「でも、ハンバーガーが食べたかったの!私、ご飯いらない!」


いつもだったら「はいはい」と言って流すことができた。日葵も疲れていたのだろう。ファストフード店に行って外食することもできた。そうしなかったのは、子どもたちの栄養面を考えたからだ。レトルトに頼ってしまったがビビンパは野菜をたくさん加えたし、卵だって入れている。昨日作った味噌汁を添えればそれなりに立派な晩ご飯になった。


「ママのご飯なんか食べたくない!」


日葵の言葉は梨沙の心を折った。ろくに食べれず炎天下の中子どもたちの面倒を見た。巧に交代してほしいと連絡しても気づいてすらくれなかった。クタクタになって帰ってきて、家族のためにご飯を作った結果がこれなのか。怒りを通り越して悲しくなり、涙が溢れてくる。


「じゃあ食べなくていい」


自分でもゾッとするような低い声が出た。こちらを伺いながら食事をしていた巧と葵が驚いてスプーンを止める。


「だったら食べるな。出てけ」


日葵はまだ七歳だ。小学生になったけれどまだ彼女が言うことは理不尽で、世界が自分を中心に回っていると思っている。日葵にひどいことを言っている自覚はあり、止めないといけないとわかっていた。なのに自分で自分を止められない。湧き上がる怒りが、疲れが、虚しさが、梨沙からすべてを奪っていく。


「出ていきなさい!」


大声で叫ぶ梨沙に驚いた日葵が泣き始める。泣きたいのはこっちだ。行きたくもないバーベキューに連れ出され、満足に食事もできず帰宅して、ヘロヘロなのに家族のご飯まで作っている。日葵は立ちすくんだまま声を上げて泣き続け、出ていくわけでも座るわけでもない。


そんな日葵を見て、ひっぱたいてやりたいと思った。少しでも気を抜くと手を上げそうだ。このままじゃ良くないと深呼吸し、カバンを掴む。


「じゃあいい。ママが出ていく」


誰かが何かを言う前に梨沙はリビングから出て、玄関で靴を履いた。そのまま外に出て車に乗り込み、エンジンをかけて発進させる。

勢いで家を出てきたけれど行ける場所なんかなかった。車を少し走らせ、虫が光に吸い寄せられるように、駅前のショッピングセンターに向かった。レストランに入って海鮮丼を食べたあとブラブラと歩き、最終的にコーヒーチェーンに流れ着いた。


日葵の泣き顔が自分にそっくりで嫌になったのか。それともあの子のわがままが、かつて自分が両親に向かってやったことと同じだから嫌になったのか。


スマホを見て、さっき打ち込んだ文章をそのままに、SNSの投稿ページをスクロールする。

何人かの投稿のあとに隆弘の物を見つけた。


『今日は嫁の誕生日なのでリクエストに応えてアウトレットに来たぞ!』


隆弘の奥さんの写真は何度か見ていた。中学生だった時、まったく知らなかった女性と隆弘は結婚した。同い年なのか少し年下なのか覚えていないが、肩までの茶髪を巻いている。自分のおしゃれに時間を使える隆弘の奥さんを見て、いいなと思った。

隆弘は他にも投稿をしていた。奥さんと娘さんがデザートを食べている。幸せそうな家庭だった。


『パパのお小遣いでクレープを食べる女子たち。パパの分は?笑』


もう一度メッセージ画面に戻り、文章を消す。代わりになんて返事をすればいいのだろう。何度も書いては消してを繰り返していると、隆弘からメッセージが届いた。


『もしかして今オンライン?』


梨沙のステータスに気づいたのか、短い文章だけ送ってくる。


『うん。ちょっと一人で外にいるんだ』

『梨沙が外にいるなんて珍しいね』


返事をためらっていると隆弘が追加でメッセージを送ってくる。


『嫁が寝落ちしたみたいで暇なんだよね笑』

『奥さんお疲れなんだよ。今日アウトレット行ったんでしょ?混んでた?』

『めっちゃ混んでた!あのクレープも三十分位並んだんだぜ』

『三連休だもんね。私は旦那の会社の』


バーベキューに行っていたと打ち込もうとしたが、そこでの話を隆弘にしたくなかった。書き直して送信する。


『三連休怖いね笑』


少しの間があって隆弘がメッセージを送ってくる。


『聞きにくいこと聞いてもいい?』


駄目だ。越えるな。このラインを越えるな。梨沙の心が警告を出す。隆弘はなにを言おうとしているんだろう。もし、隆弘が梨沙のことをまだ好きだと言ってきたら。もし、二人で会おうと言ってきたら。梨沙はその言葉に抗うことができるのだろうか。


自分がすがりつける相手がほしい時にたまたまそこにいた。たったそれだけの偶然で、深みにはまる関係があるんだと、梨沙は初めて理解することができた。


今の生活に不満はあれど離婚するほどじゃない。最初から不倫相手を探そうとしたわけじゃない。不倫が悪いことなんてわかりきっている。だけど今、梨沙の中でそのハードルが下がっている。


『いいよ。どうしたの?』


隆弘がメッセージを打ち込むマークが出てくるが、メッセージはなかなか受信しない。聞きにくいことってなんだろう。聞きにくいからなんて聞けばいいのか迷っているのか。

たった数分なのにとても長く感じる。不意に、隆弘からバトンを受け取ったときの緊張感が蘇ってくる。


梨沙!


この店に隆弘はいないのに、急に自分の名前を呼ばれたような気がして梨沙は顔を上げた。

周りを見渡しても先ほどと何も変わっていない。店内にはゆったりしたジャズが流れているのに、梨沙の耳には届いていなかった。体育大会のリレーで、いつも流れる天国と地獄が流れる。


梨沙、拾え!


付き合っている間、唯一みんなの前で隆弘が梨沙の名前を呼んだ瞬間。

勝ち目のなかった区大会は予想通りの結果に終わり、陸上部にとって本命の体育大会を迎えた。走順は区大会と同じにするつもりだったのに、なぜか直前でオーダーを変えることにして、アンカーは梨沙から隆弘になった。隆弘へバトンを渡す練習なんてしていなかったが、ライバルたちの裏をかくための作戦だった記憶がある。

片岡と絵理香の走順も変更し、ライバルを撹乱できた。梨沙にバトンが渡った時、他の部活はまだテイクオーバーゾーンにいなかった。


なにが悪かったのかもう覚えていないが、梨沙が隆弘に渡した黄色いバトンが手から落ちて、テイクオーバーゾーンから転がった。


バトンを落とした。


梨沙も隆弘も信じられないという顔をしていた。一瞬呆然としてしまい、体が反応しない。


拾って!絵理香が叫ぶ声が遠くでする。


頭ではわかっているのにバトンが遠い。梨沙がバトンを拾わないと隆弘は動けない。

後ろから他の走者が近づいてきている。早くこのバトンを隆弘に渡さないと。


「梨沙!」


中学生たちが思い思いに叫んでいてとてもうるさかったが、不思議とその声は梨沙の耳に届いた。


「梨沙、拾え!」


私の名前。人前で呼び捨てにしないと決めていたのに隆弘がルールを破った。それだけ隆弘も切羽詰まっていたと気づいて、体がやっと動き、バトンを拾って走り出す。それを見て隆弘も走り出す。

三十メートルの追いかけっこ。追いつけ、でも追い越すな。

届け。

バトンが隆弘の手のひらに当たる感触がして、梨沙はバトンから手を離す。


隆弘は後ろから来たバトミントン部に抜かされていた。もう駄目だ。バトミントン部の高木は足が速い。今年は陸上部が負ける。連勝記録が私のせいで止まる。


コースから出てトラックの中に入ると、絵理香と片岡が話しかけてくる。


惜しかったね、よくやったよ。急にオーダー変えてごめん。


その一つ一つに反応せず、トラックを走る隆弘を見つめる。テイクオーバーゾーンを先に抜けた高木にどんどん追いついている。


きゃあ、頑張れ!四方八方から応援の大声が聞こえる。みんなが盛り上がる中、梨沙は声を上げられなかった。アンカー同士の戦いは接戦のままコーナーへ差し掛かり、隆弘が追いつく。

佐久間、行け!抜かせ!高木、頑張って!走って!

声変わりを迎えた男子と女子の甲高い声がする。バトミントン部の男子も簡単に抜かせる相手じゃない。


「隆弘!」


梨沙も思わず声を上げていた。学校中の生徒が声を張り上げているのに、隆弘が梨沙の声に反応してこちらを向く。走っている隆弘と目が合う。


「頑張って!」


最後の五十メートルになり、ゴールテープが見える。黄色いバトンと緑色のバトンを持った二人がラストスパートに入る。

佐久間、高木、頑張れ、行け、抜かせ、頑張れ、やれ!

興奮した声が溢れて、何を言っているのかがわからない。

ゴールテープが切られ、秋晴れのグラウンドに歓声が響く。


「ただいまの結果…」


放送席にいた生徒が緊張した声でアナウンスをする。


どちらが先だったのだろう。祈りながらアナウンスの続きを待つ。たった一秒程度なのにとても長く感じた。数秒後、中学生の大声が響いた。

ゴールで息を切らしている隆弘が右腕を突き上げて叫んでいる。

太陽の下で喜ぶ隆弘はとてもかっこよかった。


スマホの画面が動き、隆弘からのメッセージを受信した。隆弘からのメッセージは梨沙を現実に引き戻した。


『この間ポストしてた指輪、どこで買ったか聞いてもいい?嫁の誕生日にプレゼントしてあげたいんだよね』


梨沙の目から涙がこぼれた。わかりきっていた結末を私が勝手に歪めていただけ。それだけだ。隆弘は私のことが忘れられなかったのではない。


彼はただ、中学校時代の先輩とずっとやり取りをしていただけだ。


お互いに既婚者で、子どもがいるのだから、その先を求めるほうが間違っているとわかっていた。隆弘なら梨沙のバトンを繋いでくれると、梨沙が勝手に勘違いをしていただけだ。


テイクオーバーゾーンに残っていたのは梨沙だけだった。隆弘はとっくにゴールテープを切って、次のステージへ進んでいる。


嫌な事があったからと言って隆弘に逃げようとした自分が恥ずかしかった。数分前までの気持ちが引き潮のようにスッと引いていき、冷めた目で隆弘からのメッセージを眺める。

少しだけ残っていたコーヒーを飲み干すと、底の方にシロップが溜まっていて、今までの比じゃないくらい甘かった。


『なんて素敵な旦那さんなの!羨ましい。うちの旦那なんかそんなことしてくれないよ。あの指輪は名駅で買ったよ。ホームページのリンク送るねー』


メッセージを送ったあと、そのブランドのURLを送信した。スマホをカバンにしまって席を立つ。

梨沙にはまだやることがあった。

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