五月(4)

萩原家は一階にLDKと水回り、二階に主寝室と子ども部屋がある一般的な間取りだ。田舎にある分、各部屋が広い。義実家が援助をしてくれると言ってくれた。貯金はあったが結婚式で残高が心もとなくなっていたため、萩原家の申し出は素直にありがたかった。

梨沙はどうしても敷地内同居が嫌だったわけでもなく、自分の中で腑に落ちる前に「結婚祝いに家を建ててあげよう」と義父に言われたことで首を縦に振った。言葉通り義両親は土地も巧と梨沙名義にしてくれ、建物も二人の名義にしてくれた。間取りや建具、キッチンのメーカーに口うるさく指図してきたこともなく、梨沙が住みたい家を建ててくれた。


後から知ったのだが、敷地内同居で自分の子どもと孫を囲うのはこの地方では「勝ち組のステータス」だった。娘または息子一家に家を建ててあげる代わりにこの土地から出さない。そうして自分たちが死んだ後も子世代が同じことを孫世代にしてあげられる。こうして脈々と自分たちの土地を守っていくのだ。


巧は家づくりに一切興味を示さなかったので、梨沙が主体となりすべてを決めた。キッチンをアップグレードすると大幅な増額になるとわかったとき、予算のことは気にしなくていいと義父が言ったが、さすがにそこまで甘えられないと梨沙は言った。


「キッチンなんて二十年もすればリフォームしますし、大丈夫です。今回は諦めます」

「でもこれが気に入ったんだろう?だったら遠慮しないでこっちにしなさい」

「いえいえ、でもさすがに悪いです」


何度か押し問答が続いた後、「休憩にしましょう。梨沙さん、お茶の準備を手伝って」と義母が梨沙をキッチンに連れ込んだ。さすがに図々しかったと反省していたが、義母は梨沙に予想外のことを言った、


「あのね、お金のことだけどね、本当に気にしなくていいのよ」

「でもお義母さん、あのキッチンだけで百万単位の増額ですよ。私も払います」

「梨沙さん。私たち、あなたには本当に感謝しているの。巧と結婚してくれたでしょう。今まであの子、浮いた話なんか一つもなくて、ここで萩原の家が終わると思っていたの。でもあなたが来てくれた。それに」


義母は梨沙の腹に目をやった。あの時梨沙は葵を妊娠していた。赤ちゃんが生まれる前に早く家を建ててしまいましょうと急ピッチで打ち合わせが進んでいた。


「跡取りまで生んでくれるじゃない。あなたのための家だし、赤ちゃんのためでもあるの。お願い、受け取ってちょうだい。私たちが貯めこんでいてもしょうがないのよ。あの世にお金は持っていけないからね」


あの時、梨沙は義母の言葉に違和感を覚えた。妊娠がわかったといってもようやく胎嚢を確認したくらいで、母子手帳ももらえる時期ではなかった。性別はもちろんのこと、無事に出産できるのかも保証ができない妊娠初期だったのに、「萩原の家を続けてくれる」とプレッシャーをかけられたのが重かったのだろうと自己分析をした。


「受け取っておけばいいんじゃないの。何が嫌なの?」


義両親と別れた後、巧と話し合いをしたが、予想通り巧は「何が嫌なのかわからない」という顔をしていた。


「アップグレードするなって言われたんならわかるけど、していいって言われてるんだろ。なんで遠慮するんだよ。もらっておきなよ」

「でも、申し訳ないよ。十万二十万の世界じゃないんだよ」

「おやじも言ってたけどさ、みんな梨沙が来てくれて嬉しいんだよ。もちろん俺だって嬉しいよ。だから受け取っておこうよ」

「うーん…」


気まずい沈黙が流れた。梨沙も何が嫌なのか、何がここまで引っかかるのかを自分の中で消化できていなかったから説明ができなかった。


「じゃあ分かった。こうしよう。アップグレードの分は俺が出しておくよ。おやじたちには俺から伝えておく。それでいいかな」

「それなら…」

「梨沙は出さなくていいよ。結婚式も俺と梨沙で折半したし、梨沙、会社辞めるだろ。それに今は妊娠中だから、お金のことで悩んでほしくないんだよ」


巧の言うことはもっともだった。梨沙の代わりに入ってくる新入社員への引継ぎ業務で三カ月ほど会社には在籍する予定だが、そのあとは退職が決まっていた。出産をした後もすぐに働ける保証はなく、梨沙名義の貯金が増える目処は全く立っていなかった。一方巧は数カ月前に昇進したらしく、基本給は変わらなかったが手当がついたと報告された。その報告を聞いたとき、巧のことをうらやましいと思った。


今までやっていた仕事に興味もなければ情熱も特に持っていなかった。早く辞めたい、転職したいとばかり思っていたのに、いざ退職が決まると後悔が押し寄せてきていたのも事実だった。もっと興味を持って仕事をすればよかった、もっとこうすればよかった、と後悔しながら引継ぎ用のマニュアルを作成した。

結婚できたことも、妊娠したこともこの上ない喜びだった。会社に長くいる先輩社員たちの一歩先に行けた優越感があった。休日のたびに結婚式の打ち合わせを行い、ウェディングドレスの小物合わせや衣装合わせのたびにお姫様扱いされ、有頂天になったのも事実だ。


なのに、一つを手に入れたら一つを失うことを不公平だと感じた。女というだけで結婚したら仕事を失う。女だから妊娠したらキャリアを失う。男は結婚してもキャリアを失わないし、配偶者が妊娠しても自由に動ける。残高が大幅に減った通帳を見て梨沙は何度もため息をついた。

結婚式の打ち合わせの帰り道、巧にそんな話をしたことがある。なんてことはない、ただの世間話のつもりだった。巧は運転しながら、「なるほどなあ」と答えた。


「そんなことを女性は考えるのか。男は男で違うことを考えるんだけどね」

「例えばどんなこと?」

「責任が増えるってこと」

「責任?」

「そう。家族を持って、養う人が増えて、自分にかかる責任が増えてくるってこと。今では転職も珍しいことじゃなくなったけど、一生仕事を辞められないってプレッシャーだよ」


巧の横顔は笑っていたが、その言葉にはどこか棘が含まれていた。梨沙はそれ以上何も言えず、黙ってカーステレオの音楽を変えた。


おそらく巧はあの時の話し合いのことを引き合いに出しているのだろう。梨沙の貯金を心配しているのになぜその厚意を受け取れないのか。巧の態度はそう言っていた。


「わかった」


これ以上反論するのも面倒で、梨沙は考えることをあきらめた。結局キッチンは梨沙が気に入ったものになり、トイレや浴室、壁紙や床材なども若干アップグレードされた家が完成した。家が完成した時、梨沙のお腹は大きくなっていた。新居への引っ越しもすべて引っ越し業者に任せ、梨沙は何もしなかった。家具屋や電機屋をめぐって購入していた家財道具も順調に搬入され、梨沙が思い描いていた新居が完成した。


この頃にはお腹の子どもの性別もわかり、ベビー用品も買い始めていた。男の子を妊娠しているとわかったとき、義両親は涙を流して喜んだ。普段は寡黙な義父でさえ梨沙の手を取って「ありがとう」と涙を流しながらお礼を言ってきた。


「名前はもう決めたのか」


完成したばかりの新居のリビングで義父が梨沙に聞いた。義父は梨沙が見たことがないくらい上機嫌でビールを飲んでいた。


「候補はいくつかあるのですが、まだ決められなくって」

「どんな名前があるんだ」

「お父さん、今そういうのはあまり聞かないほうがいいのよ」


珍しく先走っている義父を義母がたしなめた。


「いえ、いいんです。よかったら一緒に考えてください」


梨沙はメモ用紙を取り出し、一枚のメモ用紙に一つの名前を書いていった。

周弥、龍一、凛太郎、凛久、葵。他にもいくつか出した。義両親は一つ一つの名前を宝石のように吟味し、時折感慨深そうにしていた。巧は退屈そうにビールを手酌でグラスに注いでいた。


「梨沙さんはどの名前がいいか、希望はあるかい」

「そうですね、私は…」


どれがいいだろう。どの名前も思い入れがある。自分なりに字画を調べて、苗字との兼ね合いを確認した。書きやすいか、読みやすいか。自分が呼びやすいか。梨沙は「凛久」が一番気に入っていた。


「凛久」


凛久を指さしたとき、義両親の表情が若干こわばったのに気づいてしまった。一番選んでほしくない名前だったのだと気づいたとき、今まで義両親が自分にしてくれたことを思い出した。家を建ててくれた。家の名義に自分を入れてくれた。梨沙を自分たちの娘のようにかわいがってくれている。孫の誕生を心から喜んでいる。義両親をがっかりさせたくない気持ちが勝り、慌てて取り繕っていた。


「凛久、はないかな、と思っています。いいなと思って書いてみたけど、なんというか、こう、ちょっと今風すぎるというか」


メモ用紙を取り下げた梨沙を見て義両親は明らかに安心していた。


「そうね、ちょっと女の子らしいというか中性的というか」

「萩原凛久だと、萩なのか、原なのか、陸なのかわからんからな」

「名前なんかどうだっていいんじゃないの」


空気を読んでいない巧がビールを飲みながら横やりを入れた。


「しっかり考えて名前を付けてればいいんじゃないのって思うんだけど」

「何言ってるの」

「おやじたちが初孫に浮かれるのはわかるけどさ、名前にまで口出しするのは違うんじゃないの。俺と梨沙の子どもだろ。どんな名前を付けようが、俺らの勝手だよ」


その日は気まずい雰囲気のまま解散となった。義両親が帰宅した後食器を片付けながら巧は梨沙に注意をした。


「別にあそこまでおやじたちに気を遣わなくていいから。家を建ててもらったとか、そういうことを考えて遠慮なんかすんなよ」

「遠慮なんか」

「してただろ。凛久って名前一番気に入ってたじゃん。おやじたちの顔色見てやめる程度の思い入れだったわけじゃないだろ」

「でも、お義父さんたちの孫でもあるし」

「産むのは梨沙だろ」


巧が皿を洗いながら不愛想に言った。梨沙のお腹が大きくなるにつれて、皿洗いは巧がやってくれるようになった。いつもだったら食洗機を使用するが、食器の量が少ないときは手洗いをしていた。巧は何かにイラついているようで、食器を洗う手に力がこもっていた。お気に入りの皿を割りませんようにと梨沙は祈った。


「きっとさ、これからおやじたちは事あるごとに出しゃばってくると思うんだよ。ベビー用品を買うとか、子守をするとかで。そんなことでいちいち恩義を感じて遠慮しなくていいから」

「そうかなあ」

「そうだよ。この先遠慮してたら疲れるから、ほどほどでいいんだって」


疲れたから風呂に入ってくるね、と言い残して巧はキッチンから出て行った。今になって思えば、巧は何一つ間違ったことを言っていなかった。義両親は事あるごとに出しゃばってきたし、孫と関わりたいと言って頼んでもいないのに子守を買って出たことも一度ではない。最初の頃はありがたかったが、今はそうでもない。逆にもうあまり関わらないでほしいと感じているくらいだ。巧の言うことを聞いておけばよかったのだと気づいたときにはすべてが遅かった。


義母が作ったから揚げは子ども向けに味付けされていて、夜の二十時過ぎに大人が食べるには荷が重かった。完食できず、中途半端に残ったから揚げを明日の自分の弁当用のおかずに回した。弁当箱を冷蔵庫にしまい、解凍されている豚肉と目が合った。明日のお弁当用に焼いておこうと思っていたがすっかり忘れていた。明日のおかずに回しても大丈夫だろうかと不安になるが冷蔵庫の力を信じることにした。

巧と日葵の声が大きくなり、風呂から出てきたのだと気づく。食器を食洗器に突っ込んでボタンを押し、風呂に入る準備をする。



結局すべての家事を終えたのは二十二時を過ぎてからだった。残業をしたときは残業代が入るが、家のことを誰かが代わりにやってくれる訳ではない。葵と日葵が就学児になった今、だいぶ手がかからなくなっただけマシだと自分に言い聞かせる。


主寝室に入るとすでに巧がダブルベッドの中でタブレットを触っていた。寝室や子ど

も部屋にスマホを持ち込まないのが萩原家のルールで、親も例外ではない。巧が持っているのは電子書籍用のタブレットだ。


「お疲れ様」

「今日も一日お疲れ様。仕事はどうだった?」

「溜まっていたメールを捌くのに午前中一杯かかったよ」

「どこも同じだよね」


日本が祝日でも海外にとっては普通の平日だ。連休明けに大変な日が待っているくらいだったら連休なんていらないと、働き始めてから思うようになった。残業をしていたから巧とほとんど会話をしていない。会話はしたが、子どものことや家のことについての業務連絡のような会話だった。


「梨沙、仕事はどうだった?」

巧は子どもがいないときだけ梨沙のことを名前で呼ぶ。結婚してからずっと変わっていない。


「仲田さんって人の仕事を手伝ってたの。それで残業。可哀想よね、連休明けの午前中ずっと会議だったみたい」

「その人正社員?」

「うん」

「じゃあしょうがないよな。でもスケジュールくらいなんとかすればいいのに。連休明けなんて忙しいことわかってるんだからな」

「相手に入れられたみたいよ」


残業中、仲田さんが席を立った瞬間に他の社員がそんなようなことをささやきあっていた。普段なら電話やコピー機の稼働音で聞こえないが、静かなオフィスでは離れた席にいる梨沙にも十分聞こえた。


「ふーん。でも、災難だったな」


巧がタブレットをベッドサイドテーブルに置いた。災難だと思うんだったら、少しくらい想像を働かせて家事をやってくれればよかったのに。


「電気消していい?」


お願いと答えると巧はリモコンで照明を消した。部屋が暗くなると一気に眠気が梨沙を襲う。


「梨沙」


巧が梨沙に触れる。その手を払い除ける元気もない。


「今日、どう?」


奥さんが疲れたと言っているのに、どうしてセックスができると思っているのだろう。


「…ごめん、疲れてるの」

「そっか」


セックスを断っても巧は怒らない。残念そうな声を出して眠りにつくだけだ。一瞬だけ罪悪感を覚えるが、本当にセックスしたいなら家のことをやって私の負担を軽くしなさいよ、と開き直る。実際巧が夕食後の後片付けや、リビングに散らばったおもちゃの片付け、子どもを急き立ててランドセルを片付けさせてくれれば梨沙もここまで疲れなかった。


目を閉じる。夜が明けても日常は待ってくれない。ものすごいスピードで梨沙を急き立てるだけだ。


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