五月(3)

「ごめん、萩原さん、これやってもらってもいい?」

「大丈夫です、気にしないでください。お疲れ様です」

「本当にごめん、ありがとう。すみません、お先に失礼します」


お疲れ様です、と声が上がり、大久保さんが足早にオフィスを後にする。時短勤務をしている彼女は定時より一時間早く上がる。普段は誰も気にしないが、連休明けの繁忙期には皆彼女を気遣う余裕がない。梨沙も少し前まで萩原の立場にいたので、帰りにくいけれど帰らなければいけない、あのいたたまれなさを知っている。

ほとんどの人は気にしていなくても、子どもがいない独身社員たちの中には「早く帰れていいですよね」とロッカーで話している子たちもいる。お前たちも結婚して子どもができたら大久保さんと同じ立場になるんだぞ、と梨沙は心の中で呪文のように唱える。大久保さんはシングルマザーみたいなものだと前に聞いたことがある。あまり深く突っ込むのも野暮なので、「へえ、そうなんですね。大変ですね」と受け流したが、その対応が正しかったのかどうかはわからない。

彼女から引き継いだ仕事はたいして時間がかかるものではなかった。あんなに恐縮しなくてもいいのに、と思いながらキーボードをたたく。私だっていつ突発的な休みを取るかわからないんだから、せめて子持ちの派遣同士では協力し合いたい。


「萩原さん、今日残業できる?」


同じ輸入チームの社員が申し訳なさそうに聞いてきた。


「何かあったんですか?」

「仲田さんの仕事が終わらないの。あの人今日会議があったんだけど、急ぎの仕事ばっかり入っちゃってて」


仲田さんが担当の会社はうるさい会社で有名だった。自分たちのミスを棚に上げて、こちらのミスばかりつついてくる会社。でも取扱量が多いから会社としてはおいしい客。

仲田さんをちらりと見ると、青い顔をしてパソコンに向かっている。確かに午前中ずっと不在だった。係員の予定を記入するホワイトボードに「会議」と書かれていた。

残業をすることは可能だし、残業代が入るのはありがたい。二つ返事で「やります」と言いたいが、まず子どもたちの様子を確認しないといけない。


「多分大丈夫だと思うんですけど、ちょっと待ってもらっていいですか?残業できるか聞いてみます」


スマホを持ってオフィスを出て、非常階段へ向かう。窓もなく、風通しの悪い非常階段は音が反響するし、どことなく蒸し暑い。けれど人目をはばからずに電話ができるスポットはここしかない。

義母宅の電話番号を探し、電話をかける。小学校が終わった後、葵も日葵も敷地内別居をしている義母の家で宿題をやった後、自由に過ごしている。四コール目で聞きなれた声がした。


『もしもし?』

「ああ、お義母さん、こんにちは。梨沙です。ご飯時のお忙しい時間にすみません。実はですね、今日会社から残業を頼まれてしまって。残業してもいいでしょうか?できるだけ早めに帰るつもりですので」

『あらあ、大変ね。お休み明けだものね。いいわよ、大丈夫。ご飯を食べさせておけばいいかしら?』

「はい、お味噌汁とご飯のセットはできていますので。メインも解凍してある豚肉で生姜焼きを作るだけなので。すみませんがお願いできますか」

『いいわよ、任せてちょうだい。お仕事頑張ってね』

「ありがとうございます。帰るときにまた連絡します」


はあい、じゃあね、と義母が言った後電話を切る。急な残業が入るとき、いつも子どもたちを義母にお願いする。嫌味を言われたり、駄目だと断られたことは一度もない。梨沙が働くことに義母は理解を示しているし、孫たちの世話をすることを楽しんでいる。ただ、義母に頼ってしまうことが嫌なだけだ。

ほんの数分非常階段にいただけなのにすでに暑く、汗をかいている。義母と話したからではないと自分に言い訳して、オフィスに戻る。


「残業できます」


梨沙がそう告げた瞬間、輸入チームの空気が緩んだ。仲田さんが泣きそうな顔で梨沙のデスクに寄ってきて、「萩原さん、ありがとうございます。本当すみません」と言って書類を渡してくる。書類の上には個包装のチョコレートが乗っていた。


「え、仲田さん、これ」

「こんなので悪いんですけど。ささやかなお礼です」


こんなの、と呼ばれたチョコレートはコンビニで一つ数百円する高級なチョコだ。梨沙は値段にびびって一度も買ったことがない。


「嬉しい、ありがとうございます。大事に食べます」


にっこり笑ってチョコレートをデスクの上に置いた。大人っぽいパッケージデザインのチョコレートは見ているだけで気分が上がった。



仲田さんの仕事に思ったより手間取り、何とか終わらせたときには十九時半になっていた。それでも梨沙が会社を出た時、輸入係はまだ半数近く残っていた。義母にメッセージを送り、今から電車に乗って帰ることを伝える。個別でメッセージを送ったつもりが、義両親と巧が入っているグループメッセージに連絡をしていた。

今から帰ります、と送ると、巧から『お仕事お疲れ様。子どもたちはもうご飯食べました。こっちのことは心配しないで』と連絡が入る。「ありがとう」と返事を打つ。今から帰宅しても、自宅に着くのは二十時近いだろう。だったら今、一人で夕食を済ませられたら楽だな、と考える。


「ご飯食べて帰っていいかな」と文章を作成していると、義母から『今日は日葵ちゃんのリクエストでから揚げにしました。梨沙ちゃんの分もあるから、楽しみにしていてね』とメッセージが入る。先手を打たれてしまった。この流れで「外で食べて帰ります」とは言いにくい。


『ありがとうございます。から揚げ、楽しみです』。


嬉しそうな文面のメッセージを打つが、義母には内心イラついていた。電話で「豚肉を解凍している」と言ったし、今夜は生姜焼きだと伝えた。おそらく日葵が「から揚げ食べたいな」と言ったことで、梨沙の用意したおかずは義母の頭から抜けたのだろう。子どもたちの面倒を見てくれるのはありがたいが、こちらの指示を無視して違うことをする義母にはできれば頼りたくない。豚肉は早めに焼かないといけないが、明日までもつだろうか。今夜料理をする気力はない。朝食で豚肉はヘビーすぎる。義母も善意でやってくれている分たちが悪い。


あそこで残業を断っておけばよかった。さっさと帰って豚肉を焼いておけばよかった。馬鹿正直に義母に電話をかけるのではなく、巧に電話をかければよかった。モヤモヤした気持ちを抱えながら電車に乗り込み、座席に座る。普段より遅い時間だから空いている。空いている座席に座り、仲田さんからもらったチョコレートを食べる。上品な甘さが口に広がり、疲れた体を少しだけ癒してくれた。



梨沙と巧が知り合ったきっかけは、勤務先の社長の紹介だった。大学を卒業後、梨沙は三河地方でそれなりに有名な会社に就職したが、その会社は今時考えられないくらい後進的な考えを持っていた。女性は結婚したら遠回しに退職をさせられる。残るためには優秀であるか、社長のお気に入りになる必要がある。それほど優秀でない女子社員はさっさと退職してもらおうという魂胆があったのか、三年目くらいからお見合い話が舞い込んでくる。


社長が何かの社会奉仕団体に所属していたおかげで、「うちの若いのをお宅の女性社員にどうかな」と紹介話が後を絶たない。女性だけでなく男性社員にももれなくお見合い話は舞い込んできていたが、退職を迫られるのは女性だけだった。

就職から三年目で梨沙もお見合い候補のリストに載った。ある日いきなり社長に呼び止められ、「食事に行ってくれないか」と話を出された。すでにその噂話は知っていたし、自分がそこまで優秀でもなく、社長に好かれているわけでもないと知っていたので、ついに来たか、と思った。


了承してから流れるように社長から何人かの人を紹介されたが、全員「上司から無理やり行けと言われただけで、結婚する気はない。付合わせてしまって申し訳ない」と謝罪された。現代のやり方に合っていないんですよね、と笑いあって、先方からお断りを入れてもらった。私が至らないせいで社長にご迷惑をおかけしてすみません、と思ってもいないことばかり述べて社長に頭を下げた。これで解放されると安心していたが、社長もなかなかしつこかった。どうしても私を追い出したいのかな、とぼんやりと思った。


「内田さんは結婚とか考えている?」

「まだ素敵な方に出会っていないので、時期が来たら考えたいです」

「じゃあ、最後の一人に会ってもらってもいいかな。そいつ、結婚したいのになかなかご縁がないらしくて。ボランティアだと思ってくれていいから」

「ですが、私が至らないせいですでにお断りをされているので、きっと私では釣り合わないかと…」


深々と首を垂れながら、今の時代にパワハラかましてんじゃねえよ、と内心毒づく。


「いやいや、内田さん、頭なんか下げないでよ」


社長が梨沙の手に何かを握らせた。デパートの商品券だった。


「これで好きなもの買っていいから。これで最後だからさ」


名古屋の実家から通える距離ではなかったため、梨沙は社会人になって一人暮らしをしていた。一人暮らしは予想外に出費が多く、やりくりに苦労していた。デパートの商品券をもらえるなら食事くらい行ってもいいか、と梨沙は簡単にほだされた。


巧とは名古屋駅のホテルのラウンジでお茶をした。今までの人とは違い結婚に前向きで、結婚への条件を最初に述べてきた。両親と敷地内同居をする必要があるが、自分たちの家を敷地内に建てられること。仕事はやめたくなければ続けていいなどの条件の他に、巧の勤務先なども最初に伝えられた。もろもろの条件は梨沙の理想にかなり近かった。冷静に考えて自分はそろそろ結婚適齢期に入る。ここから婚活を始めても、巧のような条件の人に出会える可能性は低いだろう。社長の紹介なので変な人ではないだろうという安心感もあり、梨沙は巧との付き合いを開始した。付き合いを開始してから一年後、入籍をした。たった十年ほど前の話なのに、ひどく昔の話に思える。



予定していた電車に乗り遅れたせいで、梨沙が最寄り駅に着いたのは二十時を過ぎていた。改札を出てから月極駐車場に向かい、自分の車を開錠する。運転席のドアを開け、車に乗り込む。巧の勤務先のメーカーが出しているコンパクトタイプのファミリーカーは去年買ったものだ。本音を言えば違うメーカーの軽自動車がよかったのだが、旦那のライバル会社の乗用車を購入する度胸はなかった。この地域はほとんどが大手自動車メーカー関連の仕事に就いているため、違うメーカーの車を見たことがない。カバンからスマホを取り出し、メッセージを打ち込む。


『今車に乗りました。今から帰ります』


すぐに誰かが梨沙のメッセージを読んだようで、小さく既読のマークがつく。


『お疲れ様です。みんな、ご飯食べました。梨沙ちゃんの分もあるからね』


ご飯よりもお風呂に入って寝たい。やっぱり食べてから帰るべきだったと思いながら、メッセージを打ち込む。


『ありがとうございます!ご飯楽しみです』


シートベルトをしてエンジンをかける。スマホをカバンの中に入れたつもりが、助手席のシートに落ちていた。家に帰ったら拾おうと考える。


家に帰ったらご飯を食べて、お風呂に入って、子どもたちの話を聞いて、あと何をするべきだろう。巧は帰宅しているだろうが、片づけをやってくれているかはわからない。きっとやっていないだろう。子どもたちはどうだろうか。解凍していた豚肉をどうしよう。お弁当に入れるために今日焼いてしまおう。それから何をするべきか。明日の仕事はどうだろう。交通量が大幅に減った道路を運転しながら、答えが出ない疑問ばかりが浮かんでは消えていく。



帰宅してすぐに目についたのは子どもたちのランドセルだった。ラベンダー色のランドセルと、深緑のランドセルが転がっている。どうしてこの状態で義母も巧も平気なのだろう。靴を脱いでいるときにバランスを崩し、ラベンダーのランドセルを蹴飛ばした。ランドセルは平気な顔をしているが、梨沙の足は平気ではない。


リビングから子どもたちのはしゃぐ声が聞こえる。巧が制止する声、日葵が叫ぶ声。葵が叫ぶ声も聞こえる。今日は何が原因で喧嘩をしているのか。


「ちょっと、何してるの?声が玄関まで聞こえてるよ」


ただいまよりも先に注意をしてしまう。ママ、お帰り!日葵が抱きついてくる。


「はい、ただいま。日葵、何を叫んでいたの?」

「だってさ、お兄ちゃんがさ、ひどいんだよ。私何もしていないのに」

「違うよ!日葵が俺の本蹴ったんだよ」

「だってお兄ちゃんが!」

「はいはい、わかった。とにかく、喧嘩しないの。ね?ママ今帰ってきて疲れてるの。日葵、あなたはお兄ちゃんに謝りなさい。葵、あなたは本を出しっぱなしにしないの。二人とも、明日の用意はしたの?ランドセルはどこに行ったの?」


明日の用意、という言葉は二人の喧嘩を中断させるのに十分だった。明日も学校があるので時間割に沿った用意をしないと目も当てられないことになる。先を争うように玄関に向かった子どもたちを見送り、改めてリビングを見渡す。おもちゃが散らばっているが、思ったよりはきれいで安心した。


「お帰り。お疲れ様」

「ただいま。パパもお疲れ様。久しぶりの仕事はどうだった?」

「疲れたよ。ママは?」

「見ての通り、久しぶりに残業したよ」

「大変だったな。ばあばが飯作ってくれてるから食べなよ。俺、日葵をお風呂に入れてくるから」

「うん、ありがとう。おなかペコペコ」


キッチンカウンターの上におかずが乗ったお皿がある。義母が宣言した通り、今日はから揚げだ。から揚げだけでなく、きんぴらごぼうとポテトサラダも乗っている。ご飯と味噌汁を用意して、ダイニングテーブルに座って食べ始める。日葵と巧の声が洗面所から聞こえる。何を言っているかはわからないが、泣き叫んでいる様子はない。葵の声がしないのは、二階の子ども部屋に行ったからだろう。四年生になってから葵は子ども部屋で過ごす時間が増えた。

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