珍しく早く帰宅した父は手にケーキの箱を持っていた。父がケーキ屋に立ち寄るときは誰かの誕生日か、クリスマスだけだったが、今日はそのどちらでもなかった。余程嬉しいことがあったのだろうか。


父が夕食の時間までに帰宅しないのはいつものことなので、いつからか父を待たずに夕食を母と妹と三人でとることが当たり前になっていた。母も驚きながら口に手を当てて、お帰り、と言った。


「お、今日は生姜焼きなんだな。うまそうじゃないか」

「こんなに早く帰ってくるなら連絡くらいしてよ。今準備するから」


フライパンに残っていた生姜焼きを盛り付けるために母が席を立つ。父はケーキ箱を見せながら「ケーキあるぞ。食後にみんなで食べよう」と言った。

珍しく機嫌がいいんだなと葵は思った。父はいつも無表情で本かタブレットを見つめているだけで、会話に加わることはほとんどない。


「なんかあったの?」

「葵、聞いてくれよ。お父さんな、北米本社への転勤が決まったぞ」


なんの冗談を言っているのか理解ができなかった。


「嘘だろ?」

「本当だ。ずっと希望してたんだけど、やっと行けることになったんだ。みんなで行くぞ」

「は?いつだよ」

「二か月後には向こうでの仕事が始まるから、引継ぎが終わったらすぐにでも、かな。でも葵も日葵も学校の手続きとかがあるから、先にお父さんだけ行くことになるな」


葵は母と妹の顔を見た。二人とも信じられないという顔をしている。母は呆然としながら父の皿を持ってダイニングテーブルへ戻ってきた。


「私行かないよ」


最初に口を開いたのは日葵だった。


「え?」


日葵の言葉は予想外だったのか、父が驚いている。


「お父さんは知らないと思うけど、私コンクールがあるから今の教室から移籍なんかしたくないよ」

「でも、バレエだったらアメリカでもできるだろ?アメリカのほうが本格的なレッスンが受けれるだろうし」

「だってお父さんの会社、ニューヨークにないじゃん。ケンタッキー州でしょ?ニューヨークだったら行ったけど」

「俺も行かないよ」


日葵の後に続いて葵も口を開いた。妹が行かないと言っているうちに自分も意思表明をしておいた方がいい。


「俺、もうすぐ受験じゃん。行きたい高校があるんだよ。だから、アメリカにはいきたくない」

「いや、アメリカだったら高校受験しなくてもいいんだぞ」

「アメリカじゃ行けない高校に行きたいんだけど」


その言葉は嘘ではなかった。葵は地元から離れた進学校を志望校にしていて、今の調子を保っていれば問題なく受かるだろうと先日の三者面談で担任教師からも言われていた。


「お母さんは」

「私も行けるわけないでしょう」


席に戻ってきた母がご飯を食べながら冷たく言い放つ。


「去年、おじいちゃんが亡くなって、おばあちゃんが気落ちしているの、お父さんだって知ってるでしょ?あんな状態のおばあちゃんを一人にして海外なんて行けないわよ。…とにかく座って。ご飯食べましょ」


母が一つだけ空いているスペースに目をやる。平日の夜に四人そろって食事をするのは本当に久しぶりだったのに、父がいるだけでいつもの食卓ではなくなった。日葵も葵も何を話していいのかわからなくなり、黙って夕食を食べた。


父だけが必要以上に二人に話しかけてきたが、当たり前のことをずっと聞いてきて鬱陶しい。日葵のバレエは去年から週三回になっているし、葵だって今日はたまたま塾が休みになったから家にいるだけだ。家族にとっては当たり前の話なのに、父は二人の話にいちいち驚いていてイライラする。


食後に父が買ってきたケーキが出てきたが、小学生の頃に二人が好きだったアニメキャラクターをモチーフにしたケーキが出ていて葵も日葵も失笑した。父の記憶はいつから止まっているのだろう。自分の子どものことなのに、情報をアップデートしようと思っていない父がひどく滑稽だった。


「俺たちが成長してるって知ってる?もう小学生じゃないんだけど」

「ごめんお父さん、私ケーキいいや。夜に甘いものは食べないようにしてるの。お母さん、リンゴある?剥いて食べていい?」


日葵はキッチンへ行き、リンゴの皮を自分で剥き始める。日葵が包丁を使っているところを父は初めて見たのか、目を丸くしている。かわいいケーキは葵と母が手を付け、中途半端に残ってしまった。



ヘッドフォンをしながら自分の部屋で勉強していたが、喉が渇いて集中力をなくした。下で水を飲もうと、葵はヘッドフォンを外して立ち上がった。

父が多忙を理由に家族との時間を持っていなかったのはわかっていたが、あそこまで家族のことを知らないとは思いもしなかった。葵はもう中学三年生の受験生なのに、父の中ではまだ小学五年生くらいなのだろう。親戚のほうが葵の成長速度に追いついている。


廊下の電気をつけようかと思ったが面倒くさいのでそのまま階段へ向かう。受験まであと半年もない。早く解放されたい反面、もう少し中学生活が続けばいいのにとも思う。


「…から、お前が何か言ったんじゃないのか」


階段を降りようとしたその時、父のいらだった声が聞こえた。一階で両親が喧嘩寄りの話し合いをしている。この時間なら子供たちはヘッドフォンをして過ごしているから、多少声が大きくなってもいいと思ったのだろう。葵は動きを止める。


「何かって、なにそれ。家族と関わろうとしなかったのはあなたじゃない」

「仕事があったんだからしょうがないだろう」

「私だって仕事してるけど?男っていうだけでやらないっていう選択肢ができていいわね。それに、あんなにお世話になったお義母さんを見捨てて、よく家族だけで海外赴任しようって思えるわね」

「だから、おふくろには施設にでも入ってもらって」

「こき使っておいて用済みになったらポイするの?どういう思考回路してるの?他の誰でもない、あなたの親でしょ」

「そもそも、おふくろが勝手に手伝ってきたんだから、こっちが気を遣う必要ないだろ」

「勝手に手伝ってきたって言うけど、手伝わせていたのは私たちじゃない。私はお義母さんにお世話になったから、今は恩返しをする番だと思ってるけど」


母の言い分は葵から見てももっともだった。中学生になるまで祖母は葵と日葵の面倒をよく見てくれた。葵ですら、祖母を置いて海外に住むことは失礼だとわかっているのに、父はそんなこともわからないのかと驚きを通り越して呆れてしまう。


「お前が海外赴任したいって言ったじゃないか」

「いつの話?…まさか、五年前のこと?それか、結婚前のこと?」


五年前は葵が小学四年生の時だ。その時に父と母に何かあったのだろうか。


「あの時だったらまだ行けたけど、今は無理よ。葵は受験生だし、日葵もコンクール目指して頑張ってるところじゃない。ねえ、あなた、葵の志望校知ってるの?今度日葵が挑戦するコンクール、どこでやるやつか知ってるの?お義母さんの今の状態わかってる?」


父は言葉に詰まったのか静かになった。

答えないのではなく、母の質問に父が何一つ答えられないのを葵は知っていた。休日も父は葵と日葵のことに無関心で、自分のことをやっていた。読書だったり、テレビを見ていたり、勉強だったりと様々だが、二人が話しかければ「うるさい」と怒ってきた。そのうち二人とも父に話しかけることをやめ、母とだけ話すようになった。


きっと父は母に対しても同じような態度を取っていたのだろう。そのうち家族全員が父との会話を、関係の構築を諦めた。父が孤立したのは誰のせいでもなく、父の責任だ。


「私があなたのことを百パーセント理解できないのはしょうがないじゃない。あなたも私のことを全部理解できないし、子どもたちだって同じだよ。ねえ、海外赴任を私がしたいって最近言ったの?最近私と会話をした?葵と、日葵と、会話をした?誰かが海外に行きたいって言った?」


父は答えない。どんな顔をして両親は話し合っているのだろう。


「葵と日葵の将来の夢を知ってる?親子関係ってね、黙ってればできるものじゃないんだよ。努力して作らないといけないんだよ」

「俺が頑張っている姿を見てわかってくれてると思ったんだよ」

「それはあなたの勝手な理想だよ。とにかく、私たちは行かないから」

「浮気相手がいるからか!」


浮気、という言葉が父の口から出てきたことに驚いた。たまに母が嬉しそうな顔をしているときがあり、何かあったのかなと思う瞬間はあったが、母が浮気をしているとは想像もしなかった。


「…は?」

「知ってるんだぞ。ずっとメールでこそこそと連絡とってる男がいるだろ」

「佐久間のこと?あの子は中学時代の後輩よ。ていうか、浮気って」


母がおかしそうに笑うが、その声はどこか冷たい。きっと母の目は笑っていないのだろうと葵は予想した。あの笑い方は母が心から怒った時の癖だった。


「自分には心当たりでもあるの?疑うのなら佐久間とのやり取りでも、私の携帯でも、好きなものを好きなだけ見ればいいじゃない。ほら。パスコードだって教えてあげるわよ」


沈黙が流れる。会話が進むにつれ両親の声は大きくなってきた。日葵に聞こえたらどうしようと心配になるが、日葵の部屋からは足音が聞こえる。イヤホンで音楽を聴きながら何かのバリエーションを踊っているのだろう。妹の軽快な足音は葵を安心させた。


「人のことを疑う前にやることがあるんじゃないの?」


洗濯機が能天気な電子音を立てて洗濯の終了を告げる。その音を合図に、母はリビングを出て洗面所へ向かう。洗濯機の蓋を開け、パン、パン、と洗濯物を伸ばす音が聞こえる。


葵は階段の電気を付け、わざと足音を立てて階段を下りた。葵の足音に気づいた母が洗面所から顔を出す。


「どうしたの?」

「喉が渇いたから水が欲しくて」

「冷蔵庫にお茶があるからそっちでもいいよ」


母の顔は先ほどまで父と言い争いをしていたとは思えないほど穏やかだった。


「母さん」

「ん?どうしたの?」

「あの」


さっきのアメリカの話って。さっきの喧嘩大丈夫だった?俺、よかったら親父と一緒にアメリカ行こうか。もっとばあちゃんのこと手伝おうか。母に伝えたいことはたくさんあるのに、何一つ言葉にならない。葵の表情を見て母は何かを察したのか、洗濯物を置いて葵のそばに来た。


「大丈夫。葵はなにも気にしなくていいから。自分のやりたいことをやりなさい。お母さん、いつでも葵の味方だから」


母の笑顔は力強く、心から葵のことを大切にしているのがわかった。

父が言うように、母が不倫をしているなんて想像もつかない。

父は母の何を見ているのだろう。

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