日葵

母が亡くなってから家の中が広いと感じるのは、比喩でもなんでもなく事実だった。


昔は家族四人で暮らしていた実家は、まず父が海外赴任で出ていき、兄も進学で出ていき、その後はずっと母と日葵で暮らしていた。

母は仕事をしながら子育てをして、祖父を見送り、気落ちした祖母の面倒を見て、海外赴任から帰ってきた父と過ごした。今、母と同じことをやれと言われても逃げ出す自信しかない。


父が病気で亡くなって、第二の人生がこれからというときだったのに、母も病に冒された。幸いにも人生を整理する時間があったので、「この方が気が紛れるから」と言って身辺整理を自分で行っていた。いつも当たり前にそばにいた母が亡くなる現実を受け入れられなかった日葵のほうがメソメソしていて、何度も母に怒られた。


母の一周忌が日葵だけで無事に終わったのも、母が残してくれたエンディングノートの指示に従っただけだ。


日葵は小一で始めたバレエに邁進し、何度か国内コンクールで優秀な成績を収める事ができたが、海外のコンクールでは入賞すらできなかった。けれどスカラシップを手に入れて、フランスのバレエアカデミーに留学した。帰国してからバレエ団に所属したが自分の限界を感じ、バレエ教室の先生になった。自分でやるのと人に教えるのは違った難しさがあり、日々試行錯誤だったが、幸いにも日葵のレッスンは好評で、たくさんの生徒さんがついてくれ、五年前に自分の教室を持てた。日葵の成功を誰よりも喜んでくれたのも母だった。


リビングから庭を見つめる。祖父母の家も空になり、この家にも日葵一人になった。


『俺もこんな仕事だし、ここには住まないと思う。俺が相続した分はいずれ売るつもりだ。日葵はどうする?』


兄の仕事は転勤が多い。義姉の実家のそばに家を買う予定だと言っていた。

兄が相続した祖父母の家を売るなら私もこの家を手放そうと思う、と伝えた。この広すぎる家はメンテナンスが大変だし。祖父母も父もこの土地を守ることにこだわっていたが、母は兄と日葵の好きにすればいいと常々言っていた。広さはあるが、最寄り駅まで車で十五分もかかる実家は不便だった。

もう少し落ち着いたら兄と一緒にこの家を売り、駅前に新しく建ったマンションに引っ越そうと決めていて、兄もその方がいいと賛成してくれた。

昔は子どもが多かったこの地域も、若い世代はもっと便利な場所へ移住してしまい、過疎化が進んでいる。時代の流れをさみしく思うも、住人は仕方がないと半ばあきらめている。


目を横にやると、手入れが追いつかず荒れ果てた状態の庭が見える。売る前に庭師を入れて整えたほうがいいだろう。腕時計を確認するともうすぐ約束の時間だった。

母から託されたエンディングノートには、一周忌が終わったあとに連絡を取ってほしい人がいる、と記載されていた。中学生の時の大事な友人で、長い間SNSでやり取りをしていたらしい。母が病気になったことも自分で連絡をしていたが、弱っていく姿を見せたくないと、一周忌が過ぎたら来てほしいと伝えていたらしい。


母の死後、メモを頼りにその人に電話をかけた。萩原梨沙の娘と名乗る女性からの電話は最初こそ警戒されたが、いたずらでないとわかったあとはとても親切な人だった。


「お母さん、わざわざ西尾まで呼んでなにをしたいのよ」


仏壇に向かってつぶやく。先程火を付けた線香の煙がゆらゆらと揺れている。

表から車の音がして、日葵は立ち上がる。チャイムが鳴ったのは同時だった。はあい、と返事をしてドアを開けると、約束の相手が立っていた。どこにでもいるような人当たりの良いおじいさん。それが日葵の感想だった。


「佐久間さんですよね」

「萩原日葵さんですか。この度は御愁傷様でした」

「いえ。わざわざご足労いただきありがとうございます。上がって下さい」


部屋に通し、準備していたお茶を出す。


「お仏壇に手を合わせても構いませんか」

「気づかずにすみません。お願いします。母も喜ぶと思います」


佐久間は長い間仏壇に手を合わせていた。佐久間の横顔を見ながら、母とどういう関係なのだろうと思った。友人にしては佐久間の態度は親密すぎる気がする。そもそも他の友人についてはノートには何も書かれていなかった。母のことを好きだったんだろうか。それとも母がこの人のことを好きだったんだろうか。

日葵の視線に気づいたのか、佐久間が顔を上げ、日葵に微笑みかける。


「お母さんと僕は中学生の時同じ陸上部にいたんだよ」

「その話は伺ったことがあります」

「中学校を卒業したらそれっきりだったんだけどね。日葵さんが小学校一年生のときかな。地元の公園で再会したんだ」


残念ながら日葵は、小一の時に母方の地元に行った記憶すらなかった。いろんな記憶がごちゃ混ぜになり、どの時期のものかがわからない。


「それからずっと育児について相談に乗ってもらっていてね。直接会ったのは本当に…五年くらい前に一度きりだったんだけどね」

「そうだったんですね」


それから一時間ほど母の思い出話に花が咲いた。佐久間が話すのは日葵が知らない話ばかりだった。何となくだが、日葵が気落ちしないように、でも母の威厳を傷つけない程度に面白い話が多く、佐久間の人柄が伺えた。

話に夢中になってぬるくなったコーヒーを飲み、日葵は口を開いた。


「実は私が高校生の頃、母が浮気しているのかと疑ったことがあるんです」


佐久間は一瞬驚いた表情をしたが、何も言わなかった。


「なぜでしょうね。母は仕事に育児に介護に、家のこともやっていたからそんな暇はなかったはずなのに、なぜだかそう思った時があるんです。たまに携帯電話を見て嬉しそうにしていたり、新しいジュエリーを買ってはぼんやりと眺めていることもあって。私も多感な時期だったので、そういうことにすぐ結びつけてしまって。おかしいですよね、そんなことあるわけないのに」


あるわけないのに、と言いながら本気で母の浮気を疑っていたのは事実だ。

父にも兄にも言ったことはなかったが、きっと母には父以外に、他に好きな人がいるのだろうと何となく思うときがあった。

そもそも母は父を愛していなかっただろう。父と母はお互いのことを大切に思っていただろうが、二人ともどこかよそよそしく、お互いをパートナーというよりもルームメイトのように見ているようなところがあった。


「変なこと言ってしまってごめんなさい。母にも失礼なことを言いました」


仏壇に目をやる。線香はいつの間にか消えていた。仏壇には元気だった頃の母の写真が飾られている。


日葵、あなたはまた変なことを言って。母が今ここにいたらたしなめられていただろう。


「ジュエリーで思い出しました。母から伝言を預かっています」


日葵はカウンターに用意していた三段のジュエリーボックスをダイニングテーブルの上に置いた。カウンターも母が健在の頃はカウンターとして使用していたが、いつの間にか物置に成り下がった。


「母が、佐久間さんに一つアクセサリーを持っていってほしいそうです」

「僕に?」

「はい。指輪でも、ピアスでも、ペンダントでもいいそうです」


ジュエリーボックスに並んだアクセサリーは母が少しずつ買い集めていたものだった。ブランドや素材もまちまちで、気に入ったデザインがあれば買っていたようだった。保証書もボックスに保管されていたが、どのアクセサリーのものなのかがわからない。


アクセサリーに関しては、母との趣味が合わない。日葵がもらっても箪笥の肥やしになるのが目に見えていたので、一応義姉にも聞いたが、子どもが小さいのでアクセサリーは使わないと言われてしまった。そりゃそうだろうと納得し、遺品整理をするときにまとめて買い取りカウンターに持っていこうと決めていた。佐久間に持って行ってもらえる方が母も喜ぶだろう。


「懐かしいな。お母さんにはよく、僕の妻に送るアクセサリーの相談に乗ってもらっていてね。一緒に買いに行くことは奥さんに失礼だからと怒られて一度も一緒に行ったことはなかったんだけれどね」


日葵は保証書を開いて中を確認する。一段目にはピアスが入っている。保証書によると、ピアスはほとんどがタンザナイトだ。


「十二月の誕生石だね」


保証書を一緒に確認していた佐久間が口を開く。


「母の誕生日、十二月でしたね」

「きれいな青色をしている。やっぱり梨沙さんはセンスがいい」


タンザナイトの他に、若干だが真珠やサファイア、アメジストのアクセサリーもあった。家族の誕生石ではないので、純粋に気に入ったデザインだったのだろう。

二段目にはネックレスと指輪が入っていた。母が結婚指輪の上に重ね付けをしているのを見たことがあるが、日葵は指輪が嫌いだ。母には悪いが、やっぱり全部売ろうと思った。


指輪の保証書を見ると、ダイヤモンドを使用したアクセサリーがほとんどだった。カラット数が小さいし、有名ブランドのものではない。高くてもせいぜい数万円のものだろう。こんなものでも売れるだろうかと少し不安に思う。


「お母さん、こんなに指輪持ってたんだ…」


きれいに並んだ指輪を見て思わず独り言が出てしまう。どれも年季が入っているが、そのほとんどを見たことがない。佐久間はピアスの時とは違い、とても静かに指輪を眺めていた。

一番下にはペンダントが入っていたが、佐久間の目はある指輪にくぎ付けになっていた。


「これをいただいても?」


佐久間が選んだのはゴールドのリングに小さなダイヤが付いた指輪だった。指輪の保証書を探し、該当の指輪の保証書も渡すことができた。


「日葵さん、本当にありがとう。来るべきか迷ったけれど、梨沙さんにご挨拶ができてよかった」

「いえ、とんでもないです。こちらこそ遠いところをわざわざお越しいただいてありがとうございます。よかったら駅まで送ります。私も駅前に用事がありますし」


名古屋から来た佐久間には、駅まで車を使わないと行けない距離というのは不思議なのだろう。そういえばそうだった、と笑い、二人で日葵の車に乗り込んだ。

駅までの道すがら、佐久間は静かだった。先ほど渡した母の形見を愛おしそうに見つめていた。佐久間の目線はどう見ても友人のそれじゃないと確信していた。


母のお気に入りだった指輪を佐久間が選んだのは偶然ではないだろう。父が海外赴任してから、ずっとそれを結婚指輪の上に重ね付けをしていたから日葵も覚えている。


『ダイヤ好きなの?』


何かの時に母に質問した。ずっとその指輪してるけど、ダイヤ好きなの?日葵の無邪気な質問に母は意味深な笑顔で、『ダイヤじゃなくて、四月は特別な月だから好きなの』と答えた。あの時の母の顔は、彼氏について延々と語っていた日葵のクラスメイトと同じ顔だった。母が言ったことが何なのかわからなかったし、それ以上聞いたらいけないような気がして、何も言えなかった。


(やっぱり不倫相手?)


詮索したところで何にもならないのはわかっていた。母は他界し、父も他界した。今更真実を教えてくれる人はいない。母の秘密を暴いたところで誰も幸せにならない。

西尾駅に到着し、ロータリーに横付けする。この時間なら急行に乗れると佐久間に伝え、日葵も車を降りて佐久間に挨拶をした。


「では、日葵さんもお元気で」

「あの!」


歩き始めた佐久間を呼び止めてしまった。佐久間が振り返って日葵を見る。


「佐久間さん、もしかして、お誕生日って四月ですか?」


佐久間は不思議そうな顔で日葵を見た。


「いいえ?僕の誕生日は五月だよ」

「そうでしたか。すみません、失礼しました」


佐久間はにっこり笑って駅へと向かった。佐久間が駅の中に消え、少ししたタイミングで、ロータリーに送迎の車が到着し始める。もうすぐ電車が到着する。日葵は車に乗り込みエンジンをかける。


「そうだよね。お母さんが浮気なんかするはずないよね」


四月が母にとって何の意味を持つのか、佐久間がなぜその指輪をもらったのか、日葵が知ることはこれからもない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

テイクオーバーゾーン @Natalie_Y

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ