テイクオーバーゾーン

山田ナタリー

五月(1)

小学生の頃、呆れるくらい通い詰めた公園は何も変わらず、二十年前と同じように親子連れや子どもを受け入れている。変わったのは遊具か。昔はもっと無機質な滑り台だった気がするが、老朽化した遊具で子どもが怪我をした事故が全国で頻発したため、比較的安全なものに変わったのだろう。梨沙が子どもだった時にあった、地球儀のような丸い鉄製の遊具はなくなり、バイクの形をした一人用のシーソーに変わっている。他にも何かが変わっているのだろうが、思い出せない。


久しぶりに実家に帰ってきたというのに、私は一体何をしているんだろう。縦横無尽に走り回る子どもたちを見つめながら、萩原梨沙はそんなことを考えていた。

実家に帰ってきたのならもう少しゆっくりできるかと思っていたが、小学生を二人連れている以上、それは難しいのが現実だった。

五月の大型連休を利用して一日くらい実家に顔を出したのだが、小学校四年生の息子と小学校一年生の娘にとって祖父母の家は退屈極まりなかったようだ。近所のショッピングセンターに行ってランチを食べ、おもちゃや洋服を買ってもらった後二人は手のひらを反すように「公園へ行きたい」とわめきだした。もう少しじいじとばあばに小学校の話をしてあげて、となだめたが、息子の葵は「おじいちゃんとおばあちゃんでしょ。そんな子どもっぽい呼び方なんか俺してないよ」と言い返してきた。


梨沙にとって土地勘がある場所でも、小学生二人を公園まで送り出すのには抵抗があり、仕方なく、二人を連れて公園までやってきた。

公園に来るのは久しぶりだった。最近葵は友だちと勝手に公園で遊んでくるし、娘の日葵に至っては完全にインドア派で、外に出ようとしない。日葵が退屈したらどうしようかと不安だったが、物珍しい公園で元気に兄と走り回っている。

これなら私もベンチに座れそうだ。年季の入った木製のベンチに腰掛ける。


公園を見渡すと、連休最終日だからか親子連れが多かった。小学生くらいのグループは普段葵がやっているように、子どもたちだけで遊んでいる。一歳児くらいの子どもを連れた母親、兄弟を連れた父親。皆必死に子どもと遊んでいる。

ボールが梨沙の足元に転がってきた。子どもたちが小さかった頃に使っていた、ゴム製の柔らかい、当たってもいたくないボールだ。拾い上げると、父親と目が合った。すみません、ありがとうございますと言われ、会釈をしてボールを投げる。ボールは見事にキャッチされ、子どもが笑う。パパすごい、と舌足らずな声が聞こえる。


今の人、隆弘に似ていた。


他人の空似なのに昔を思い出してしまうのはここが地元だからだ。昔遊んだ公園も、昔使っていた通学路も何一つ変わらずそこにある風景。すべてに些細な思い出が詰まっていて、否が応でもいろんなことを思い出す。自宅付近では決して起こらないのに。


またボールが足元に来た。さっきと同じピンク色のボール。もう一度手に取り、父親へ渡す。


「どうぞ」

「ああ、ありがとうございます」


やっぱり似ている。その父親と不自然に目が合い、思わず目を逸らす。


「…梨沙?」


名前を呼ばれて驚く。まさかとは思っていたけれど。


「…隆弘?」

「やっぱりそうだよな。梨沙だよな。似ていると思っていたけど、違ったら嫌だったから声をかけられなくて」

「やだ、嘘。こんなところで会うなんて」


二十年ぶりに再会した隆弘は、梨沙の記憶よりも逞しくなっていた。隆弘の足元に女の子がまとわりつき、パパ、だあれ?と声を上げた。



隆弘の娘はボールで遊んでいる。隆弘が投げたボールを取りに行き、隆弘に渡す。隆弘はもう一度彼はボールを投げ、同じことを繰り返す。犬と遊んでいるみたいだと思っていたら、隆弘も「これ犬みたいだよな。でも、沙織が好きなんだ」と言い訳した。


「沙織ちゃんっていうのね」

「そう。佐久間沙織。今二歳半」


梨沙の子どもは?と隆弘が聞く。遊具エリアにいる小学生たちを指さし、「今滑り台を元気に逆走しているのが息子の葵。砂場で山を作っているのが娘の日葵」と紹介する。


「すごいな、お子さん小学生なの?」

「小四と小一になったばっかり」

「結婚早かったの?」

「うん、上司の紹介で」

「今どこに住んでるの?」

「西尾のほうだよ。隆弘は?」

「俺は相変わらずこの辺にいるよ」

「うらやましい。離れてみてわかったけど、この辺ってすごく便利だよね」

「わかる。昔はこんな田舎町出て行ってやるって思ってたけど、大人になると便利すぎて出ていけない。友だちも同じこと言ってる」


適度に田舎で、適度に都会。中途半端な街だと学生時代はずっと文句を言いあっていた。東京に行きたい。大阪に行きたい。もっと都会に行きたい。視野の狭い中学生が言い合っていた夢だった。住んでみるとこんなにちょうどいい街はない。


「今、なんて名前になったの?」

「萩原。ついに真ん中より後ろに行けたのよ」

「もう内田じゃないんだな」

「は行だよ、は行。もう、何もかもちょうどいいの。は行っていいよね」


その感覚は相変わらずわかんねえ、と隆弘が笑う。梨沙の旧姓である「内田」はあいうえお順でも毎回五番以内になり、運が悪いと出席番号が二番目になる。出席番号が前だと、授業でよく当てられた。中学校では日付で当ててくる教師がいて、毎月初旬は生きた心地がしなかった。卒業式の練習も出席番号順で行ったため、常に教師の指示を聞いて動作を覚えないといけない緊張感に晒されていた。出席番号が遅ければ遅いほど、前列のやり方を見て真似すればいいだけだから不公平だと思っていた。


沙織がバランスを崩して転び、泣き声を上げる。隆弘が沙織を抱きかかえ、大丈夫、痛くないよと声をかける。ああ、隆弘も父親になったんだなと小さな感動を覚える。

あれから何年たったのだろう。十年以上なのは間違いないが、とっさに計算ができない。


ママ!と呼ばれ振り返るが、返事をしたのは他の母親だった。この公園にいる大人はみんなママかパパで、子どもがママと呼べばみんな振り返る。思わず振り返った梨沙を見て、隆弘が「梨沙、母親なんだな」とつぶやく。沙織は泣き止んだが疲れたのか、隆弘の肩に顔を押し付けている。


「沙織ちゃん、疲れちゃったのかな?」


隆弘の独り言には答えず、沙織に話しかける。二歳半という年齢なら、あれだけ走り回っていれば疲れるだろう。今夜はきっとよく寝てくれるだろう。


「いや、甘えてるだけかな」

「今日奥さんは?」

「美容院に行ってる。間が持たないから公園に来たんだ」

「私と一緒だね。子どもたちがさ、祖父母と一緒にいてもつまんないっていうのよ」

「気持ちはわからんでもないな」

「沙織ちゃんだってすぐだよ。あっという間」


沙織がぐずぐずし始める。やはり疲れたのだろう。梨沙たちが公園に来たのは三十分程前だが、隆弘たちはその時にはすでに公園にいた。前髪が汗で額に張り付いている。


「ねえ、沙織ちゃん喉が乾いてるんじゃないの?お茶は?」

「持ってきてない」

「なんでよ。帽子は?」

「してきてない」

「ちょっと。まだ夏じゃないけど脱水症状になるかもしれないんだから。公園に来るときは水筒くらい用意しなさいよ」


奥さんみたいなことを言うなよと隆弘は言うが、梨沙はこの場にいない奥さんの心中を察した。隆弘に子どもを任せるのはさぞかし不安だっただろう。


「沙織ちゃんの体調が悪くなるかもしれないからもう帰ったほうがいいよ。家でお茶とかお水とか飲ませてあげて。で、汗をかいているから着替えもしてね」


そこまでしなくてもいいのに、つい心配で小言を言ってしまう。隆弘は鬱陶しがることもせず、「ああ、お前変わってないな」と笑った。

沙織が泣き出し、隆弘が「ごめんごめん、もう帰ろうな」となだめる。


「じゃあね、気を付けてね」


二人に向かって手を振る。隆弘は沙織をなだめるのに必死で、梨沙を振り返ることもなかった。



帰りの車の中は静かだった。葵も日葵もぼーっと外を見ている。さすがに公園で一時間以上走り回っていたのだから疲れたのだろう。二人はいつの間にか小学生のグループに入り込み、地元の小学生たちと友だちになっていた。子どもの適応能力にはいつも驚かされる。


「楽しかった?」


声をかけても反応はない。夕飯は二人のリクエストで回転すしに行った。どこにでもあるチェーン店だが、今は二人が好きなアニメとコラボしている。合計金額が一定以上になると、クリアファイルがもらえるのだ。いいシステムをしているなと言った父親の意見に完全同意をする。

普段は速攻で却下されるデザートまで食べることができて、レストランで二人ともご満悦だった。散々甘やかされたのだから、楽しかった、くらい言ってほしいのに。


「お母さん、日葵寝ちゃったよ」

「そうか。だからこんなに静かなのね」


日葵は朝起きた時から夜寝るまでずっとおしゃべりをしている。小学生になってからは内容のあるおしゃべりをするようになった。ちゃんと話を聞いていないと怒られるので、運転中に寝てくれるのは嬉しい。実家から自宅までは一時間程度しかかからないが、交通量が多く、スピードを出すトラックが多い。夜道はあまり運転しない梨沙にとっては静かなほうが好都合だ。


「お母さん」

「どうした?」

「音楽聴いてもいい?」


どうぞ、と答えると、葵は慣れた手つきで自分のスマホを取り出し、音楽アプリを操作した。Bluetoothで接続されたカーステレオから葵のお気に入りの曲が流れる。葵のスマホは梨沙が昔使っていた型落ちの古いもので、今はWi-Fiがないと使えない。音楽アプリを自宅で操作し、好みのプレイリストを編集して車で流すことが葵の楽しみだった。


すぐに激しい音楽が流れ始める。日葵が起きていたら「お兄ちゃんばっかりずるい」と怒るので、二人が好きな曲しか流せない。かといってイヤホンで自分だけ音楽を聴くことは、まだ許していない。葵も葵なりに我慢しているのだ。音楽に合わせて葵が歌を口ずさむ。英語の部分も歌っているのに気づく。子どもだと思っていたのに、あっという間に大きくなった。


「葵、英語の部分も歌えるのね」


葵はすぐに答えなかったが、間奏になったところで「うん、英語の授業でやってる」と返事をした。

梨沙が子どもだった時、英語は中学校からの必修だった。三十年たって、英語は小学校での必修科目となった。自分が小学生だった時からいろいろなことが変化している。


「葵、あと三十分くらいでおうちに着くからね」


カーナビを確認して残り時間を伝える。そうでないと、葵のお気に入りの曲が流れる前に打ち止めになってしまい、機嫌を損ねてしまう。一度拗ねてしまうと葵の怒りはしつこく、手に負えないことが多い。小四にもなってと思う反面、まだ十歳の子どもに何を求めるのだろうと思うときもある。



「ただいまー」


自宅についてもまだ眠っている日葵をたたき起こし、荷物を持って玄関を開ける。中から夫の巧が出てきた。今日は一日家でゆっくりしていたはずだ。


「お帰り。楽しかった?」

「うん、じいちゃんとばあちゃんに服買ってもらった」

「そうか、よかったな。日葵は?楽しかったか?」


日葵は答えないで目をこすっている。


「さっきまで寝てたの。お風呂入れてくれる?」

「そうか。じゃあパパとお風呂入って寝るか」


いやーと口答えしつつ日葵は巧に抱っこされて洗面所へ連行される。すぐにギャー!と叫び声が上がる。

両親から持たされた荷物を両手に持ち、リビングへ向かう。一泊していないのに荷物であふれているのだから、泊まっていたらどれだけの荷物になっていたのだろう。


「葵、ごめん、これお部屋に持って行って」

「えー」


なんで僕がと言いたそうな口ぶりだ。昼間ショッピングセンターで祖父母にねだって買ってもらった本なのに、すでに興味を失ったのだろうか。


「いらないならママがもらっちゃうよ」

「うそうそ、いります。僕のだよ」


葵は荷物を両手に持って、二階にある自室へ向かった。「日葵が出たらお風呂に行きなさいよ」と声をかけると「わかったー」と朗らかな返事が聞こえる。あの声を出すときは大体こちらの言うことを聞いていないし、わかっていない。


「ママ」


いつの間にか風呂から出てきた日葵が梨沙の背後から抱きつく。髪の毛はまだびしょびしょに濡れている。


「どうしたの」

「パパがやめてくれないの」

「日葵が上を向かないからだろ。シャンプーの時は上を向きなさいって言ってるのに」

「でも嫌なの」

「そうなの、嫌だったの。でもね日葵、まずはパジャマを着ようか」


眠たくてぐずる日葵をなだめつつパジャマを着せ、歯を磨かせる。ベッドに連れて行ったあとに葵に声をかけて風呂に入るように促す。その間に荷物を片付けて。そうだ、洗濯物。


「パパ、洗濯物ってやった?」

「もう畳んでおいたよ」


出かける前に頼んでおいた洗濯物の片づけを終わらせて誇らしげな巧だが、畳まれた洗濯物はかごの中に入っている。片付いている状態ではない。


「じゃあ、それを片付けてくれる?それか、日葵の寝かしつけと荷物の片づけ、葵をお風呂に行かせるのとどっちがいい?」


巧はすぐに「洗濯物片づけるね」とかごを持ってリビングを出て行った。丸一日自由時間があったのに、どうして洗濯物を片付ける頭がなかったのだろう。舌打ちしたい気持ちをぐっとこらえる。



予想通り葵はすぐにお風呂に行きたがらなかった。しょうがないから梨沙が先に風呂に行こうと準備をしていたらやっと重い腰を上げ、「お母さんが先に入らないでよ」と文句を言ってきた。だったらさっさと入ればいいのに。

仕方なくリビングに戻ると巧がソファでスマホを触っていた。


「葵、お風呂行った?」

「ようやくね」

「実家どうだった。ゆっくりできた?」


実家に行けばゆっくりできると思い込んでいるのは子育てに参加しない大人だけだ。実家に行ったところで子どもの相手からは逃げられない。


「全然。葵と日葵の相手で手一杯。公園にも行かされたよ」


多少の嫌味を込めて伝えるが、巧がそれに気づいた様子はない。


「まだ公園に行きたがるのか」

「だって、おじいちゃんおばあちゃんのおうちっておもちゃもゲームもないじゃない。子どもにとっては退屈よ」


葵は自分のゲームを持っているが、日葵はまだ持っていない。不公平になるので外出先にゲームを持っていくのは禁止していた。


「そうかあ。イオン行くって言ってたから、楽しかったかと思ったんだけどな」

「子どもなんて、ほしいものを買ってもらったらそれで終わりじゃない」

「まあそうだよな。俺もそうだったもんな」

「あなたはどうだった?ゆっくりできた?」


本当は巧も含めた四人で実家に行くはずだったが、連日残業続きで疲れていると巧は出発直前に体調不良を訴え、一人で留守番していた。少し寝ればよくなるからと言っていたのを証明するかのように、朝と比べると顔色が違う。


「もう大丈夫。ごめんな、一緒に行けなくて。お義父さんたち、どうだった?」

「相変わらずよ。元気も元気」


十年以上前に退職した両親は現在お互いの人生を生きるのに忙しい。父親はゲートボール、母親はフラダンスを習っていて、顔を合わせるのは夕食の時だけだと笑っていた。


「次は俺も行くよ。なんだかんだでずっと行けてないもんな」

「一緒に行ければいいんだけど、無理しないで。ずっと残業続きだもん」


少しだけ嫌味を込めて伝える。嫌味が伝わったのかは定かではない。


「そうだな、仕事が落ち着けばな」


巧はいつもそういうが、彼の仕事が落ち着いたことはこの十年で一度もない。梨沙はすでに巧に期待もしていないし、梨沙の両親も何も言わないが巧は来ないものだと思っているのを知っていた。


「お母さん、俺お風呂出たよー」


葵が洗面所から声をかける。やっとお風呂に行ける。


「はーい、じゃあ次お母さんねー」


用意した着替えを手にして立ち上がる。この後、お風呂から出たら明日の準備をしないと。久しぶりに目覚まし時計のアラームをセットすることを忘れないように。久しぶりに仕事に行くから少し緊張する。働き始めてから長期休み明けはいつも緊張するようになった。トラブルが起こっていませんように、と湯船の中で祈る。




翌朝は予想通り戦場だった。数日休みがあっただけで日常をすっかり忘れた子どもたちをたたき起こし、朝食を食べさせる。ぐずぐずしている日葵に指示を出し、朝になって「上靴、洗ってない」と申告する葵を𠮟りつける。合間に夕食の準備を並行して行う。冷凍していた豚肉を冷蔵庫に入れて解凍させ、お米を洗って炊飯器にセットする。帰宅してからだと時間が無くなるので、先に玉ねぎとニンジンをスライスしておく。電子圧力鍋に味噌汁のセットをして予約調理を行う。子どもたちの世話、夕飯の準備、朝ご飯の準備と片付け、その隙間時間に自分の身支度を整える必要がある。名古屋駅で仕事をしている梨沙は家族の中で一番に家を出る必要があり、いつも平日は一人でばたばたしている。子どもたちがだいぶ大きくなったからまだ楽になったが、一人でのんびりしている巧にイライラする。


「パパ、食べ終わった?だったら日葵の準備を手伝ってあげて」

「ああ、ごめん。今やるよ」


のんきにコーヒーを飲みながら朝のニュースを見ている時間が私にあると思っているのだろうか。嫌味の一つも言いたいが、そんなことを言っている間に味噌汁の予約を完成させたい。巧と違い、機械は指示をすれば動いてくれるのだ。指示をしなければ動かない巧に怒りたくなるが、お掃除ロボットだってスイッチを押すのは人力で、それと一緒だと思うことにする。


「あー、もうこんな時間。ごめんパパ、私もう行くね。洗い物お願い」

「おう、任せておけ。行ってらっしゃーい」


行ってらっしゃい、気を付けてね!子どもたちがリビングから声を上げる。


「はーい、みんなも行ってらっしゃい!学校楽しんでね!」


返事を聞く前に玄関のドアを開ける。車のドアを開錠し、運転席へ滑りこむ。エンジンボタンを押すと静かにエンジンがかかる。オーディオを操作し、ラジオを選択する。いつも七時半に始まるコーナーに間に合う。このコーナーが始まる頃に家を出れば十分間に合う。今日はぎりぎりだったが間に合った。

梨沙の住んでいる地域では、駅に行くまでに車で十五分ほどかかる。この地域に住む住人は基本的に車で通勤していて、公共交通機関を使う概念がない。名古屋駅まで出るのは車より電車が便利だから、梨沙は駅まで車を使い、名鉄電車を使用して通勤している。


駅に到着し、車を降りて名鉄の改札を通る。どことなく乗客の表情は疲れているように見える。みんな楽しい連休を過ごしたのだろうか。高校生のグループが朝からハイテンションで何かをしゃべっている。昨日見たテレビかSNSについてか。ひたすら「やばいって」「マジヤバイ」と繰り返している。何がそんなにやばいのか興味もない。耳にイヤホンを差し込み、連休中一度も開けなかった自分だけのプレイリストを開く。自分が高校生の頃に好きだった歌手のアルバムが再生される。


仕事へ向かう通勤電車の中が、梨沙に許される限られた自由な時間だ。この時間だけはスマホを見ていようが、寝ていようが、文庫本を読んでいようが、誰かに邪魔されることもない。家だと子どもたちが寝ていたとしても、こんな時間はなかなか手に入らない。

自分が好きな音楽を聴いていると、タイムスリップをしたような気持ちになる。昨日偶然とはいえ隆弘に会ったから、余計にそう思う。




誕生日の関係で学年は一つ違うが、佐久間隆弘と内田梨沙の関係は一言で表すと「幼馴染」だ。住んでいた町も小学校を挟んで反対側にあり、小学校での接点はほぼなかった。唯一の接点は同じ学童クラブに通っていたことだった。


当時、梨沙の小学校では共働きの家庭がまだ少なく、児童は基本的に学校が終わったら帰宅するのが当たり前で、学童クラブに通う子どもは少なかった。まっすぐ帰宅する児童たちから「お前ら、なんで家に帰らないの?」と聞かれるのが心から嫌だったことを覚えている。梨沙の両親は共働きだったのだが、学童クラブに通う子どもたちの中にはシングル家庭もいた。子どもたちも一緒に過ごすうちにお互いの家庭事情の差に気づき、家庭のことをあまり話さなくなる。その代わりに学童クラブにいる間、「みんな家族」と言わんばかりに結束が強くなっていた。


隆弘が入所した年、一年生は彼だけだった。四月には他にも数人いたはずだが、夏休み前に皆やめていき、残ったのが隆弘だけだった。隆弘は持ち前の弟キャラをうまく生かして、年上のお姉ちゃんたちにかわいがられるポジションを手にしていた。梨沙の中で隆弘は「生意気な弟」くらいの認識だった。


学童クラブは複数の小学校から児童の受け入れを行っていた。小学校が違う子どもと人間関係を作り、小学校ではまた違う人間関係を作る必要がある。小学校で居場所がなくても学童クラブに行けば自分を受け入れてくれる。小学校という閉鎖された世界だけがすべてじゃないと梨沙に教えてくれたのは、両親ではなく学童クラブだった。学童クラブで嫌なこともたくさんあったし、意地悪をされて泣きながら帰ったこともある。両親に「もうあんなところ行きたくない」と泣きついたことも一度ではない。それでも仕事を続ける選択をした両親は娘の泣き言を受け入れつつも、学童クラブをやめさせることはしなかった。



梨沙が四年生になると、小学校で部活動が始まった。強制ではなく、「やりたかったらやってね」というスタンスだったが、クラスの児童がほとんど部活動を始めた。男子は野球かサッカー、女子はバドミントンが人気だった。バトントワリング部は数年前まであったのだが、梨沙の代になってコーチの確保が難しいという理由で廃止された。スクールカースト上位の子たちは皆バトントワリング部への所属を希望していたが、それができなくなり、第二希望のバドミントン部は早々に定員になった。


さてどうしようか、と梨沙は思った。バドミントン部に入れるほど自分のスクールカーストは高くない。かといって、部活に入らないとクラスから「変人」扱いを受ける。四年生で学童クラブに通っているのはすでに梨沙だけになり、「梨沙ちゃんは学童に行っているから平日遊べない」と線引きされ、クラスの中で若干浮いていた。これ以上変なレッテルを貼られたくないという気持ちは子ども心にもあった。


部活動紹介を見ていくと、誰も入りそうもない陸上部があった。顧問は今年赴任してきた二年生の担任の若い教師で梨沙とは接点もない。陸上部自体今年からできた部活で、紹介文には「みんなで楽しく活動しましょう」としかない。週に二回しか活動がないのもちょうどよかった。この頃になるとお金の価値を知り始めていたので、必要な用具が体操服だけというのも子ども心に安心できた。今考えるとおかしな話だが、当時梨沙は「うちのお母さんが働いているのは、うちが貧乏だからだ」と思い込んでいた。幼心に、少しでも家計に負担をかけたくなかったのだ。


陸上部の活動は本当に緩く、徒競走の練習ばかりしていた。たまにメンバーを縦割りしてリレーの練習をしていた。中でもよくやっていたのがテイクオーバーゾーンの練習だ。長さ三十メートルの区域で、走者が次の走者にバトンを渡すことができるゾーンでのバトンの受け渡しは小学生には難しく、運動会でもバトンの受け渡しで順位が変動することがよくあった。新任教師はそこに目を付けたらしく、運動会前はずっとこの練習だった。最初はうまくできない子どもたちも、時間がたてばスムーズになる。どうやれば早くバトンをもらって走り出せるかを話し合い、チームごとに掛け声をかけあう、次の走者は前だけ向く、バトンをもらったらすぐに左手に持ち替えるなどの案が出た。


練習のおかげもあり、その年の運動会で陸上部は健闘した。陸上部の子たちがリレー選手になり、バトンの受け渡しで活躍したのだ。翌年、陸上部は人気の部活に昇格した。最初から所属していた梨沙は先見の明があると言われ、クラス内の序列が若干上がった。

四年生が初めて部活に参加した日、隆弘を見つけて驚いた。学童ではサッカー部にすると豪語していたのに。


「あんたも陸上部にしたの?」

「うん、俺もバトンかっこよく渡したい」

「あっそう」


隆弘の学校でのカースト順位は梨沙よりも上だった。小学校ではそれなりに面白くて足が速い男子というだけで女子から「かっこいい」ともてはやされる。隆弘目当てで入ってきた四年生の女子もいて、隆弘が人気だったことに驚いたのを覚えている。隆弘が一年生の頃から知っている身としては、「あいつのどこがいいの?」と首をかしげるばかりだった。


学童で仲良く遊んでいても、その関係性を学校に持ち込まないことが、当時の梨沙たちのルールだった。学校と学童は別で、もっと言えば、学校と学童、部活はすべて別物だった。教室でいじめられていても、学童に行けばいじめられない。同じクラスの子がいても、教室を離れてしまえばいじめられることはなかった。今考えると不思議なルールだったが、あの時は絶対の不文律だった。梨沙と隆弘は三つの関係性をうまく使い分けていた。学校では他人、学童クラブでは友だち、部活では必要事項以外話すことがないチームメイト。梨沙にとって、それ以上でもそれ以下でもなかった。



小学校を波風立てずにやり過ごし、梨沙は中学生になった。中学生になると、スクールカーストはより顕著なものになった。花形の部活に所属している、ギャルグループに所属している、頭がいいなどの違いが学校での地位を変化させる。とにかく面倒なことに巻き込まれなくない一心で、梨沙はカーストの中間を目指した。好きな子がいるとかいないとか、そんなうわさ話はできるだけ回避して、目立たないように過ごしていた。


学童クラブは小学生までだったので自動的に卒所したが、両親は梨沙を一人で自宅に置いておくことに不安があったようだった。中学校になっても部活は続けるようにと言われ、当たり前のように陸上部を選んだ。今更違う部活に入って一から教えてもらうのも面倒だったし、用具をそろえる手間もあった。陸上部は基本的に体操服での参加で、試合前にユニフォームをそろえる必要があるだけだった。一年生のうちにレギュラーになることは滅多にないと言われ、安心して入部した記憶がある。陸上部は相変わらず弱小部で、地方大会を通過する人がいればラッキー程度の心構えだった。そのため練習は緩く、先輩もみんな優しかった。部員が五人以下になると廃部になってしまうので、厳しくしてやめられるよりは優しくして存続させようと言っていた。一年後、緩い陸上部に隆弘が入部してきたとき、梨沙は驚いた。隆弘が入部したことで何人かの女子生徒も陸上部へ入部し、珍しく豊作の年となった。




派遣社員として働く梨沙の現在の職場は名古屋駅にある。大手船会社の輸入係に配属され、早いもので三年が過ぎた。派遣法改正に伴い、同じ職場で働けるのは三年間だけで、そのあとは直接雇用をする必要があるが、一向にそんな話は聞こえてこない。派遣先も派遣社員を正社員にする気はないし、派遣会社も簡単にスタッフを身請けさせるつもりはないのだろう。勤続二年半くらいの時に派遣会社から「三年でやめなくていい方法があります」と言われ、よくわからないままその提案に同意した。なにがどうなったかわからないが、三年を過ぎた今でも同じ職場で働いている。


梨沙が出社すると、輸入係の半分はすでに仕事を開始していた。連休明けはどうしても忙しくなるので、早めに出社する人が多い。私もできるなら早く来たかったと言い訳をしてパソコンを立ち上げる。メールを確認すると、五十件以上受信している。思ったよりは少なかったと喜びながらメールを振り分けていく。あとでいい、今やる、既読にすればいい。あとでいい。既読。急ぎ。振り分けつつ重要なメールを印刷して、必要なら社員に回していく。梨沙に求められるのは責任ある仕事を回すことではなく、正社員が忙しくてできない通常業務を担うことだ。


この職場を選んだ理由は「英語が使えること」と「時短勤務ができること」だ。三年前、日葵が幼稚園に入園したタイミングで仕事に復帰した。ブランクがある以上簡単に仕事が見つからないだろうと思いながら登録した派遣会社で自分の状況を説明した。英語が書けて読めること、時短勤務ができれば嬉しいこと。そんな会社はないだろうと思っていたが、予想に反して派遣会社が見つけてきた会社がここだった。英語に苦手意識がある人材は意外と多いらしく、物流業界は人が定着しないと後で知った。子持ちで突発的な休みが発生しようが、時短勤務になろうが、英語ができる人材を求めていた派遣元のニーズにたまたま一致したのが梨沙だった。

面談という名の雑談会のようなものを受け、派遣会社の営業から「萩原さんはどう?この会社で働きたい?」と軽く意思確認をされた。働けるならぜひお願いしたいです、と力強く言い切った二日後、正式に派遣社員としての採用が決まった。梨沙の前任者は体調を崩して急遽退職したため、引継ぎもなく、とにかくすぐに来てほしいと言われた。物流の知識など微塵もなかったが、先輩の派遣社員に教えてもらったり、自分で本を買って読んだりして何とか知識を付け、何度かミスを犯しながらもここまで来た。あとはどこまで居座れるかだ。



「連休どうだった?」


あっという間に午前中が過ぎ、弁当を食べ終えた後トイレで歯磨きをしていたら、同じ派遣社員の大久保さんが話しかけてきた。彼女は梨沙より一年ほど長く勤務していて、ここで働く前に同業他社での勤務経験もあるという。梨沙と同年代だが、大久保さんのほうが「できる派遣」扱いをされている。梨沙も困ったことがあると社員ではなくまず彼女に質問をする。


「大変でした。子どもの相手ばっかり。行きたいところも全然行けなかった」

「萩原さん、どこに行きたかったの?」

「一人で買い物行きたかったんです」


ああ、永遠の夢だよね、と大久保さんは笑う。彼女には四歳になる娘がいる。


「大久保さんはどうでした?連休」

「娘の希望で映画を見に行ったよ」

「映画いいですね。面白かったですか?」

「映画って言っても、子ども向けのやつだよ。見たくもないアニメ映画に二千円近く払って、子どもに駄々こねられてグッズを買わされて、時間が中途半端だったから外食して。一日で一万円使っちゃった」

「うわ、きっつ。映画ってお金かかりますよね」

「テーマパークに行くよりは安いってわかっているんだけど。高いんだよね」


派遣の給料では一日働いても一万円にはならない。一日半分の労働が一日で消えたとなると文句の一つも言いたくなるだろう。


「萩原さんのところ、お子さん小学生だよね?どう?保育園よりもお金かかる?」

「まだ塾に行っていないから、そこまで実感はないです。でも下の子がバレエを習いたいって言い始めていて怖い」


バレエか、と大久保さんは顔をしかめた。バレエは古今東西お金のかかる習い事として知られている。続けるには本人の根気があることと、金銭的余裕があることが絶対条件だが、日葵にその根気があるのかは謎だ。


「あー、うちもバレエやりたいって言いだしたら困るな。ピアノも困る。マンションだから防音対策もろくにできないし」

「女の子の習い事ってどうしてこうもお金がかかるんでしょうね」


男の子の習い事はせいぜい野球、サッカー、水泳、剣道くらいで、女の子と比べると比較的費用は安い。

二人で笑いあいながらトイレを出て、オフィスに戻ってスマホを見る。何件かメールを受信しているが、プロモーションのお知らせばかりだった。まとめてチェックを入れて削除し、SNSを開いた。最近は書き込むことも減ったが、つい癖でチェックしてしまう。


ゴールデンウイークが終わったばかりだからか、連休についての書き込みが多かった。海外旅行に行った、ライブに行った、結婚式に参加した。ざっと流し見をして、適当にリアクションを付ける。今年のゴールデンウイークこそ海外に行きたいと思っているが、子どもたちのパスポートを用意しないといけない。そのために区役所に行って戸籍やら、パスポート申請用紙を準備して、そこから子どもたちを連れて旅券センターに行くと考えただけでうんざりする。自分のパスポートも期限切れになっている可能性がある。そもそも、行先はどうする。日葵がまだ小さいから観光メインよりはホテルでのんびりしたほうがいいだろう。となると、グアムやハワイなどのリゾート地。海外の食事は子どもの口に合うだろうか。だったら無理に海外へ行くよりも、沖縄のほうがいいのかもしれない。

沖縄は日本国内だからパスポートを準備する必要もない。いつもここまで考えるが、具体的に旅先について調べることはしない。家族四人の旅行費はびっくりするほど高いし、ゴールデンウイークなんて繁忙期にはもっと金額が跳ね上がるだろう。巧がきっと難色を示す。「ええ、旅行?梨沙が行きたいんだったらいいけどさ」の言葉の裏には「俺は責任を取らないから、全部日程とか考えてね」の意味が含まれている。結局日程からパッキング、滞在先の下調べまで全部自分でやって、一つでもミスをすると「あーあ」という表情をする。だったら自分でやりなさいよ、と梨沙が怒るところまでが想像できる。


気が付くとスクロールする指が止まっていて、スマホの画面が消えていた。ロックを解除し、もう一度SNSを開く。

今まで気にしていなかった、「あなたの知り合いかもしれません」と紹介されているアイコンたちに気づいた。赤ん坊の後ろ姿の写真をアイコンにしている「Takahiro S」。思わずタップして「Takahiro S」の投稿を見る。簡単な自己紹介には「娘が生まれました」と一言記入してある。誕生日、出身地、出身校はすべて非公開になっている。最近の投稿もすべて非表示になっていて、何を書いているのかは全くわからない。カバー写真と呼ばれる、プロフィール画面に出てくる写真の変更だけは履歴で確認できた。娘が生まれてからアイコンを娘の写真にしている。愛娘の写真は生後数か月くらいで、昨日公園であった女の子なのかはわからない。この人が昨日公園で会った隆弘と同一人物だという自信はない。友だち承認リクエストを送る気になれず、アプリを閉じた。


机に突っ伏して昼寝をしていた社員たちが起き始める。まもなく十三時になり、忙しい午後が始まる。

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