第十二話

「昨日の最後の試合は接戦だったから、今日はとうとう一番得意なキャラを解禁しようかな」

「望むところだよ」

 初めてこの部屋に入り、中を見回した時に思った。下に世界地図が敷いてある勉強机のマット、星やロケットが描かれたベッドの布団に、壁に貼りつけたままの九九表……あっ、冴島君の部屋だな、と。他の人の部屋に訪れたことはないから断定できないけど、このオシャレや見栄えに対する無頓着さは、彼特有のものな気がする。

「じゃあ、私は今日もゲンブで」

「じゃあ、俺は宣言通りスザクで」

 あの日ゲームセンターで使ったよしみで、私は今でも、あの大男「ゲンブ」を愛用している。このキャラクターの面白いところは、なんと言っても、コンボを決め続けると変身するところだ。ガタイのいい真面目そうなサラリーマンが、服をビリビリに破ってバケモノのような形相になる瞬間は、何度見ても笑える。

『レディー、ファイッ!』

 ゲームセンターで聞いたものよりも、少し音質が良い。冴島君が選んだ「スザク」というキャラクターは、クジャクの羽で作られた扇を持った、痩身の老婆だった。

 まあ、いくら得意なキャラクターだと言っても、少しは善戦できるだろう。私だって、この一週間で成長しているんだ。かつてはピョコピョコと動かすことしかできなかったゲンブを、現に昨日の試合では、ほぼ毎回、上裸に変身させられたのだから……なんて思っていたけど、冴島君の操作するスザクは、私の予想の遥か上を行った。

「えっ、強過ぎるでしょ」

 三回ほどしか攻撃できず、ストレート負けした時は、もはや呆然とした。

「ふふっ、まあな」

 そう言って誇らしげな顔をすると、冴島君は「どうする? 俺、別のキャラを使った方がいいか?」と訊いてきた。

「まさか」

 たったそれだけのことで、私の闘争心には火がついていた。私の頑固な性格と、こういった対戦ゲームとの相性は、ある意味では最高で、ある意味では最悪だ。


「ごめん。お腹が痛くなってきたから、トイレ借りていい?」

 コントローラーについた手汗をポケットティッシュで拭いながら、 座りっぱなしで悪くなった血流を良くしようと、立ち上がってドスドス足踏みしている冴島君に訊く。

「もちろん」

「ありがと」

 そそくさと立ち上がり、ドアノブに手をかける。すると早速、微かに聞こえてきた。また新しい歌だ。

『西日が染みたワイシャツの背中を……』

 トイレを出た後、リビングのドアの前で、少しの間耳を澄ませた。もう慣れたはずなのに、やっぱり今日も、さっきまで聞いていた派手な効果音や情熱的なBGMとの落差に、笑いそうになる。冴島君のお母さんが家事をしながら聞いている、このしめやかな歌は、「昭和歌謡」と呼ばれるものらしい。

〈……なあ、母さん。昭和歌謡と言えば、やっぱり歌詞だよな〉

〈そうそう。例えば、いま流れてる『雨の夕刻』は、男女の悲恋を描いた歌なんだけど……〉

 初めてこの家を訪れた月曜日に、私は好奇心で家の中を案内してもらった。ここには、私の家にはない色々なものがあるけど、中でも特に興味を引いたのは、やっぱり大音量で流れるこの昭和歌謡だった。

 「何を聴いているんですか?」と軽く質問しただけなのに、お母さんだけでなく冴島君本人までも、だいぶ熱を込めて魅力を語ってきたから、親子で好きなのだろう。


 私が戻った時、冴島君はCPUを相手に練習していた。ただでさえ圧勝していたのに、更に突き放すつもりなのだろうか。そこまでの待ち時間ではなかったはずなのに、もう既にすごい集中力で、私が帰って来たことにも気づいていない様子だ。

「今もまたムーディーなのが流れてたね」

 少しの間、突っ立って待った後、流石にいたたまれなくなって、話しかけた。

「どんな歌詞だった?」

 だけど私は、そんな自分の行動をすぐに後悔した。コントローラーを地面に置き、こちらを振り向いて、俄かに目を輝かせた冴島君を見て。

「えーと、あれー? どんなんだっけなー、確かワイシャツが……」

「あー、『あなたの帰る家』か」

 必死で濁したが、無駄だった。心の中で溜め息をついてから、「まあ、何十分も続くわけじゃないさ」と割り切って、座布団代わりのクッションに腰を下ろした。

「あれも良い歌だよな。仕事に疲れた恋人を想う主人公の健気さと、純粋な愛情が綺麗に表現されていて。まず出だしから最高なんだよ……」

 少し外れた音程で実際に歌ってみながら、歌詞の素晴らしさを語る冴島君。彼の説明はわかりやすくてテンポも良く、伝えたい魅力も確かにヒシヒシと伝わってきた。だけど……やっぱり、私の好みではなかった。

 向かい合ってうんうんと相槌を打ちながら、視線は冴島君の背後にある本棚に向いていた。ゲームをしている時の私の集中力というのは、どうやら自分で思っているよりも凄まじいようで、これだけ存在感を放っている本棚を、私は今まで一度も意識したことがなかった。それにしても、清々しいほどに小説が一冊もなく、マンガだらけだ。もしも、この格闘ゲームに飽きたら、次はマンガでも読ませてもらおうかな……と、無意識のうちに考えていた。

『恭平! お菓子用意したから取りに来てー!』

 二番のサビと一番のサビとの違いについて語られていた時、一階にいる冴島君のお母さんから号令が掛かり、私は解放された。

「私が行くよ」

「いやいや、いいよ。ここで待ってて」

 そう言うと、冴島君は早々に立ち上がり、去ってしまった。

『なにやってるの!』

 中断していたCPU戦を終わらせ、次の対戦の準備を終わらせた時、一階からまた大声が聞こえてきた。

『物置からホウキ持って来るから、待ってて』

 部屋の外に出て状況を確認した。飲み物を入れたガラスコップを、運んでいる途中に落としてしまったのだろう。階段の四段目辺りでは、オレンジ色の液体とガラスの破片が散乱していて、階段の前では、冴島君がションボリと立っている。

「手伝おうか?」

「いや、いい……」


 最初は冴島君のように一人で練習しようと思っていたけど、途中で好奇心に負けて本棚を見物することにした。

「へー、色々あるな」

 背表紙の数字は、全ての作品で一から始まっている。途中で抜けている番号もなく、おそらく最新刊まで買い揃えているのだろう。

「色々な種類があるんだな……うわっ、上手」

 なんの気なしに開いてみた瞬間、その迫力に息を呑んだ。ゴールキーパーの脇に、ボールが物凄い速度で飛んでくるシーンを描いた見開きだった。もちろん小説も面白いけど、マンガはマンガで違った面白さがありそうだ。「どうせなら何か借りようかな」と思い始め、左から順に手に取り品定めをして、四段あるうちの下から三段目に入った時。私は、一つの変化に気がついた。

「あれ、上の二段に並んでるマンガは、全部女の子向けっぽいな」

 こういったマンガを読んでいる冴島君の姿を想像すると、不意に可笑しくなったけど、笑うのは堪えることができた。この前買っていたものを含め、小さなテディベアの兄弟が、勉強机の奥の縁に並んでいるのを見つけた時は、ダメだったけど。

「じゃあ、この引き出しの中身はなんだろう」

 そして本棚の見物を終えた私が、その下にある引き出しを開けたのと、冴島君が部屋に戻って来たのとは、ほぼ同時だった。


「……もう見ちゃっただろ?」

「う、うん」

 縫いつけられた視線を剥がし、彼の方を振り向く。彼は冷静を取り繕っていたが、プラスチックのコップとポテトチップスの袋が載ったお盆を持つその手は、確かに震えていた。

「……これ、一体なに?」

 だけど、振り返れば非論理的な話だと思う。いっそのこと全てを打ち明けてしまっても、あの女にそのことを言わなければ、バレるはずなどない。あの時の私は、隠し事や嘘をつくことに、少しのためらいも持っていなかったのに、どうしてあの時、知らないふりをしてしまったのだろう?

「……説明する。まず座ってくれ」

 冴島君のその言葉を聞いた私は、まるで妖怪の類を封印するかのように、手に持っていたそれを……聖護会の聖典を、引き出しに仕舞い込んだ。


 オレンジジュースで時折口を湿らせながら、彼は神妙な顔で、あの聖典が引き出しにあったわけを語った。亡くなってしまったおじいさんが聖護会の信者であったこと、生前の彼は家族のお金を盗んでまで教会に献金していたので、みんなが困っていたこと。教会で彼を見かけた日に知ったことだけが語られるのだと、最初は思っていた。


「……実はな、じいちゃんが自殺した理由は、単に宗教のことで家族とケンカしていたからじゃないんだ。本当は遺書があった。わからないって嘘ついてごめん」

 流れるように淡々としていた説明が、途中で突っかかったかと思うと、冴島君は苦しそうな表情でそう打ち明けた。

「なんて書かれてたの?」

 姿勢をより正して訊いたが、内心では、「秘密を打ち明ける」という選択をした彼に落胆していた。そしてその失望は、「嘘をついてしまったことを気にしている様子の彼を、元気づけてあげたい」という気持ちよりも、あろうことか大きかったんだ。

「……自殺した俺の姉ちゃんに会いに行くため」

 しばらくの沈黙の後、彼はそう答えた。その時も、彼は私の顔をしっかりと見つめていた。芽生えた罪悪感がボンッと大きくなって、心ごと地の底に沈んで行く。ブラックホールのように真っ黒く輝きを失った目が、そこにただ二つあった。「もう開き直ったはずなのに、どうしてこんなにも苦しいんだろう?」と、私は絶望的な気分になった。

「姉ちゃんが自殺するまでは、本当に優しい人だったんだ。もちろん俺も大好きだったけど、特に姉ちゃんがじいちゃんっ子で……ちょうどこの部屋の前にある自分の部屋でさ、姉ちゃんが首を吊ったあの日の光景は、きっと死ぬまで忘れられない」

 鳥肌が立っていた。月曜日に案内してもらった時には、「プライベートなものを仕舞ってる部屋だから見ないで」と説明されたあの部屋が、まさか亡くなったお姉さんの部屋だったなんて。

「……聖護会を信仰し始めたのも、『神の教えを守り続ければ、もう一度会いたいと願った故人に、死後の世界で会うことができる』っていう謳い文句に乗せられたから。じいちゃん、狂っちゃったんだよ。まあ、俺を含め他のみんなも大概だけどな」

 その言葉を最後に、私たちは沈黙の海の底に沈んだ。冴島君は懐かしそうに目を細めて、本棚の上の段を眺めている。直接そうだと言われたわけじゃないけど、もしかするとあの女の子向けのマンガは、かつてお姉さんのものだったのかもしれない。


「――最低だよな」彼の吐き捨てるような言葉につられて、俯けていた顔を上げた時、冴島君はもうそこにいなかった。

「結局さ、宗教の教えなんて、真っ赤な嘘だよな。ふざけるなよ、死後の世界なんてあるわけがないじゃん。待ってるのは無だよ。闇すらない空っぽの空間で、何も見えず聞こえず考えられず、時間の経過すらもわからないまま、永遠に閉じ込められる。じいちゃんだって、わかってたはずなんだ。だけど、ホラ吹きのアイツらのせいで……」

 さっきまでの静かな声とは違う、激しい怒りに満ちた声だった。彼は本棚の前に立ち、引き出しから取り出した聖典を、ギッと睨みつけている。

「これを読んだら、アイツらの言っていることも、少しはわかるかと思った。だけどやっぱり、俺にはわけがわからなかった。こんなのを信じてる奴らなんて、所詮ただのキチガイだ!」

 そう言って、彼は聖典をラグの外側のフローリングに叩きつけた。思わず体がビクッとするような、怖くて大きな音が鳴り響く。その時の彼は、普段の姿からは考えられないほど狂暴で、それを目にした私は、「これもある意味では、私の嫌いな『豹変』だな」と思った。だけど……その時の私の心は、不思議と恐怖とは対極の状態だった。

「……って、心の底から純粋に憎めたら、どれだけ楽なんだろうな」

 張り詰めていた空気が不意に緩んだ。彼は、自らの手で床に叩きつけた聖典を拾い上げ、さっきとは真逆の穏やかな動作で、引き出しの中に仕舞った。

「聖護会の人たちをキチガイだって罵る権利は、俺にはないよ。だって、俺の父方のじいちゃんはお坊さんだもん。少し厳しいところもあるけどさ、とっても良い人なんだ。『宗教を広めている』っていう点では同じなんだから、聖護会の人たちを憎むのなら、そんな父方のじいちゃんことも同時に目の敵にしないといけない。だけどさ……俺には、そんなことできないや」

 そう言って、彼が寂しそうに笑ったのを見た次の瞬間、私の脳裏には、ある日の光景が浮かんだ。

〈多くの人々が人生を懸けて追求する『幸せ』っていうものも、ある意味では神様や仏様と同じ、霞のような実体のないものでしょ?〉

 聖護会に関連する嫌な経験をしていることや、隠し事をしたまま友達と過ごす苦しさを知っていること。今までは奇跡みたいな共通点だと思っていたことが、急にありふれたものに思えてきた。「聖護会に対する怒りの大きさや、それに対する向き合い方まで一緒なんだ」と気がついた今では。


「……聞いてくれて、ありがとう。お陰でスッキリしたよ」

 その言葉の通り、彼は本当に晴れやかな顔をしていた。そして不思議なことに、その時の私の心を埋めていたのは、「嫉妬」なんてものではなく、全てを打ち明けた彼の勇気を褒め称える気持ちだった。

 せっかく掴んだ幸せが壊れることもない、彼に対する醜い気持ちも消え去った。この完璧な状態で踏み止まっていたら、どれほど良かっただろうか。


「冴島君はさ、聖護会のこと、もう割り切れてるの?」

 自然と体が動き、私は立ち上がってそう訊いた。しばらく黙り込み、彼は「まさか」と答えると、笑ったまま静かに泣き出した。その姿を見た私は、「世界で一番、健気で可哀想だ」と心の底から思った。……問題だったのは、その時の私が本当に言葉の通り、彼のことを「自分自身だ」と思っていたことだ。


「……恭平は、よく頑張ってるよ」

 わけのわからない巨大な力に引っ張られ、私は動いた。

「復讐の対象にさえも、公平でありたい。その心構えは、とても立派だよ。だけどさ……人っていう生き物の心は、そんなにお利口じゃない。理屈なんていうお上品なものだけで説得することなんて、できるわけがないよ。現にさ、聖護会のこと、今でも憎いでしょ?」

 あの夢のような明晰夢を見ている気分だった。彼をギュッと抱きしめながら、その耳元で悪魔のように囁く……なんてこと、私は望んでいないのに。越えてはいけないと定めていた一線を、少しの躊躇もなく越えていったその時の私は、既に理性の支配から脱していた。

「……そのままでいい。そう、そのままでいいんだよ。だってさ、恭平の幸せを先に奪ったのは、アイツらでしょ? 『仕返しなんてしてはいけません』なんていうのは、所詮キレイゴト。先に手を出した方が、絶対的に悪いの。理不尽に恨まれても、蔑まれても、アイツらは文句なんて言えないんだよ」

「で、でも……」

 私の腕の中、必死に体をよじって暴れる彼を、私は放さなかった。後ろにあった本棚にぶつかり、マンガが数冊落ちる。その時の彼の表情は、間違いなく恐怖の色をしていた。

「大丈夫」

 そう言って彼の頭を撫でた後、少しの間の記憶がない。


「……ありがとう。なんか、色々と整理ができたよ」

 そして気がついた時には、私は床に崩れて座っていた。体勢的に突き飛ばされたのだろう。

「今日は二人とも暇だろうから、麻里や由紀も家に呼ぼう。四人で遊んだ方が、きっと楽しいよ」

 そう言いながら、彼は自らの右頬を服の袖で拭っていた。体中が冷たくなっていたのに、心臓だけがうるさく空回りしていた。その仕草だけで私は、「自分が何をしてしまったか」を悟っていたんだ。

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