第十三話

 冴島君がスマホで連絡を取ると、由紀ちゃんと麻里ちゃんは、ものの三十分程度でやって来た。あの日のように格闘ゲームで大会をしたり、みんなでパーティーゲームをしたりして、和気あいあいとした時間が流れたが、私だけはずっと作り笑いを浮かべたままだった。

 だけど冴島君は、そんな私とは対照的に自然体だった。さっきのことなど、まるで忘れてしまったみたいに。


 その最中も、終わって家に帰ってからも、時の流れは私をいじめるかのようにゆっくりだった。心の中を埋めているのは、自分自身への失望と、冴島君や由紀ちゃんに対する申し訳なさだ。

 あの時、私が冴島君に対して言った言葉は、実質的に全て自分自身に宛てたもの。あんな狂暴な本音を心の奥に飼っているのなら、いっそのこと全てを解き放って、心の赴くままに復讐できたらいいのに。だけど残念ながら、そんな勇気、私にはない。

 調理台の下のあの扉を開けて、包丁を取り出して、今こうして目の前に座っている、あの女の胸を滅多刺しにしてやる。してやれたら……なんて、所詮は手の届かない空想なんだ。


 人を悪の道に誘い込んだくせに、自分はまだ縁石の上で揺れている。こんな中途半端な状態のままでいるのは、絶対に嫌だ。


(早く変わらないと)

(でも、どうしたら変われる?)

(変わるにしても、そもそも私はどうなりたいの?)

 お絵描きも読書も手につかないまま、そんなことばかり考えて、ついに迎えた日曜日の夜。再びみんなに顔を合わせる覚悟などなかった私は、心の底から学校に行くのが嫌になっていた。

「……で、報告は終わり?」

「うん」

「じゃあ、教会に行きましょう」


 教会の周りは街灯も住宅も少なく、夜になるとスリにでも遭ってしまいそうな治安の悪い感じがする。もうすぐ春だということもあって、夜の寒さは和らいできた。

 いつも通り約三キロの道を歩き切り、私たちは教会に到着した。案の定というべきか、この教会の暖房はあってないようなものなので、室温は外と大して変わらない。そのせいか、副教会長は昨日からインフルエンザに罹ったらしく休みだ。

「トイレに行ってくるから、少し待ってて」

「わかった」

 こうして一人になると、また考えてしまう。いくら考えたって、正しい答えが見つかる見込みは一切ないのに。正直言って、もう嫌なんだ。こんな悩みなど吹き飛ばしてくれるような、何か強烈なできごとが起きてくれたら、どれだけ良いだろうか。今この瞬間も、頭の半分では自問自答をして、もう半分ではそんな願いごとをしていた。


「……えっ?」

 予想なんて、つくわけがなかったよな。その願いが、こんな形で叶うことになるなんて。

「冴島君?」

 頭が真っ白になり、ピクリとも動けなかった。そして彼もまた、私と同じ状態らしかった。狭いロビーには、私と彼の他には誰もいない。

「そ、それ……」

 少しの沈黙の後、やっとの思いで口を開く。真横からのアングルだったから、ハッキリと見えた。その時、彼が背中に回した手に持っていたのは、間違いなく……包丁だった。

「徒花に言われて、俺、決めたんだ。『理屈なんて関係なしに、自分のしたいことをする』って。いま俺の一番したいことは、聖護会の連中への復讐だった。ただ、それだけだ」

 そう言うと、彼はこちらに歩み寄って来た。驚くほど堂々とした立ち振る舞い、そのセリフに血の気が引いた。理屈なんて関係なしに、自分のしたいことをする。それはつまり、茜が言っていたような「自分の欲求を満たすためだけに生きる」という生き方に等しかった。

「それでさ、徒花って今、どうしてここにいるんだ? もしかして……聖護会の信者なのか?」

 だったら殺す、と暗に言っているのがハッキリとわかる、そのただならぬ気配に私は覚えがあった。答えようにも恐怖で声が出ない。嘘を考える脳みそも空回りする。膝が震えて、その場に崩れ落ちそうになった。


「――徒花、その子は誰?」

 そしてあの女は、そんな最悪のタイミングで戻って来た。


「が、学校の友達」

 あの女の冷たい表情を見上げながら、必死に言葉を紡ぐ。巨大な寄生虫が頭の中で孵化したみたいだ。頭が割れそうなほど痛い。

「名前は?」

「冴島恭平」

「なるほど。……ねえ、冴島君。君、どうして包丁を持っているの?」

 お門違いに私だけがドキッとして、冴島君は至って冷静だった。「どうしてこんなことになってしまったのだろう?」と嘆くが、答えはもうわかっている。悪魔のような言葉で唆し、彼をこんな風に変えてしまったのは、他の誰でもない私なのだ。

「答える義理はない。俺は今、徒花と話してるんだ。……さて、もう一回訊くぞ。徒花は聖護会の……」

 ここでノーと答えたら、私はきっと死ぬよりも辛い目に遭うだろう。そう考えた瞬間に、私の口からは言葉が零れていた。

「愚かな我らに、神のご慈悲を。悪魔の手下に、神の鉄槌を。回る地球に、安らかな死を。……ねっ、素敵な言葉だと思わない?」

 冴島君の顔が、みるみるうちに青ざめていく。もう後戻りできないところまで来てから、私はやっと気がついた。「あー、私は今、冴島君の気持ちを少しも考えていないな」と。

「……う、嘘だろ?」

 よく考えたら、私はずっと前から、尋問の最中の仕方ない場合には、普通の顔をして嘘をついていた。なのに、「嘘をつく」ということを解禁してからも、友達に家庭の事情を打ち明けなかった。そもそも、あの女の下にいることが辛いなら、周りの大人に相談すればよかったじゃないか。なのにどうして、そんな考えに至ったことすらなかったんだ?

 所詮は鳥かごの中と言えども、私はこれまで、自分の意思で生きているつもりだった。だけど、こんなにもたくさんの矛盾に気がついてしまったら、もう認めるしかない。


 ――もう覚えていないくらいの昔から今まで、私をずっと支配してきたのは、あの女に対する絶対的な恐怖なのだ。


「嘘じゃない、本当だよ。それにしても、予想通り尻尾を出したね。私たちと同じ『神の御加護を受けている者』であるあなたのおじいさんと、この教会であなたが揉めているところを目撃してから、ずっと見張っていたの。妙な気を起こして、いつか崇高な神に牙を剥くのではないかと思ってね」

 冴島君は唇を噛み、冷め切った憎悪の視線を私に向けた。私にはもう、「大切な人との時間のために生きています」なんて言う資格はないな。

「……どこまでも自分勝手だな」

 そう吐き捨てて、彼は去って行った。もう隠す気もなくなったのか、その右手に握られた包丁は、太ももの脇でプラーンプラーンと揺れている。

「さて、お祈りに行こうか」

 手を引いて一歩踏み出すが、あの女は微動だにしない。

「……彼のことを見張っていたって、嘘でしょ」

 貪る死肉を見定める穴が、私の顔を見下ろしている。「あー、カラスが降りてきたんだ」と、私は心の中で呟いた。だけど、心は不思議と凪いでいた。

「だとしたら?」

 そう言った瞬間、私は思い切り頬を平手打ちされて、床に倒れ込んだ。口の中に血の味が滲む。

「まあ別に、本当でも許されないんだけどね。判明した瞬間に何か手を打たなかった。その時点であなたは論外よ」

 痛い思いをしたくない、という気持ちよりも、もう何も考えたくない、という気持ちの方が勝っていた。

 そうだな、これが終わったら、今までとは少し違う生き方をしてみようか。「正しい生き方は?」とか、「幸せになりたい」とか、そんなこと一切考えずに、の言いなりになって、流されるままに生きるんだ。


「……わかった」

 酸っぱい梅干しを想像することも、床に吐き捨てることもせず、私は口の中に溜まった血と唾を、ゴクンと飲み込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る