第四話
彼女と過ごした時間に比例して、私は徐々にワガママになっていった。欲望のフレームというのは、どうやら針金製らしい。収まり切らない大きな幸福が訪れると、そのフレームは、いとも簡単に広がってしまう。
確かに、今の私は「生きる目的」を持っていなくても、あの地獄に耐えられる。日々を生き抜くことができる。だけど、「できる」と「したい」は全くの別物だ。私はもう、茜がいないと、生きる目的である「大切な人との時間」がないと、幸せになれない。
「……なるほど、素晴らしい小説だった」
あの日の翌日から、私は茜と二人で昼休みを過ごすようになった。茜は読書が大好きで、この図書室の過剰なほどの広さと蔵書の豊富さには、いつも目を輝かせている。
「ねえ徒花ちゃん、感想を語り合いたいから、これ読んでよ」小説を読破した後の彼女特有の真顔で、茜はいつものように無理なお願いをしてくる。
「無理なものは無理」
「……徒花ちゃんのそういう真面目すぎるところ、嫌い。おうちの人には、言わなければいいだけじゃん」小学五年生が読むものとは思えないような、ハードカバーの分厚い単行本。その間から垂れる紐状の栞を、指でいじりながら、茜は口を尖らせて言った。
「それはそうなんだけど……できる限り、隠し事や嘘をつくことはしたくないの」
良い子ぶっているのではなく、心の底からそう思っていた。褒めて自信をつけてくれる家族はいないのに、私が卑屈な性格になっていないのは、他の人よりも強く、自分で自分を肯定しているからだ。正しい道を行く正直者。それは、私が目指している人間像だった。
「あっそ、お堅いんですねー」
そっぽを向きながら言うと、茜は立ち上がり、本棚の方に消えていった。いつものパターンだ。これで良い本を見つけられると、笑顔になって帰ってくる。全く、親に構ってもらえなかった子供みたいな拗ね方。さっき本を読んでいた時の姿なんて、大人びた文学少女そのものだったのに。
「……なに描いてるの?」しばらくすると、すっかり機嫌を良くした茜が、戻って来て私の肩を叩いた。
「ラベンダー畑」
この図書室にある小説やマンガ以外の本は、既に一通り手に取っていて、興味のあるものは、もう全て読み終えていた。だから私は、図書室の中だと言うのに本は読まず、家から持って来たコピー用紙と色鉛筆で、昔からの趣味だったお絵描きをしていた。
「へー、上手だね」
コピー用紙を優しくつまみ上げ、八割ほど完成したラベンダー畑に、視線を落とした茜。
「全部、同じラベンダーなのに、一輪一輪、微妙に形や色合いが違うね。単調に見えないように、工夫してるんだ」
「うん、まあね」
心がけていたポイントを的確に見抜いてくれるから、変に高い声で「上手い上手い」と褒められるより、ずっと嬉しい。すっかり上機嫌になった私は、右手に持った紫の色鉛筆をクルクルと回した。
「……ラベンダー畑か、いつか家族全員で行ってみたいな。徒花ちゃんは行ったことある?」
声はとても楽しそうなのに、どこか遠い目をしていた。「そういえば、いつかの尋問の時に、ラベンダー畑について訊かれたこともあったな」と、その時の自分の受け答えを唐突に思い出して、苦笑いしそうになった。
「いいや、ないよ」
そんな心の揺らぎを抑え、いつも通りの表情で答える。すると茜は、声を潜めて「これも家庭の事情のせい?」と訊いてきた。私の右手は自然と停止して、掴まれていた色鉛筆はテーブルにコトンと落ちた。
「……うん」これ以上は訊かないでくれ、と心の中で訴えかけた。聖護会の教えでは、自らが聖護会の信者であるということを、明かしてはいけないことになっている。「悪魔に命を狙われる危険があるから」という、バカみたいな理由とセットで、私の頭に最も印象深く残っている教えだ。
「……そっか」私の願いが通じたのか、茜は神妙な顔で黙り込んだ後、そう呟いただけで、特に追及してこなかった。
「茜は、どんな本を借りてきたの?」さりげなく話題を変えると、茜は、両手の人差し指と親指で作った「」に、借りてきた本を入れて、饒舌に語り出した。
姿見の前で、晴れやかな笑顔の女の人が、コートを脱いでいる。開け放たれた窓からは、日の光が差し込み、桜の花びらが舞い込んでいる。そんな光景を描いたイラストが表紙で、タイトルは「コートと春風」。いかにも茜が好きそうな本だ。
「簡単に言うと、『すごく貧乏な家庭に生まれた女の子の成長の物語』かな。まだあらすじしか読んでいないから、よくわかんないけど、表紙がハッピーエンドな感じだよね」
さっきの神妙な雰囲気など、もう忘れてしまったかのように、ニコニコしている茜。なにせ二面性のある人なので、ただ単に切り替えが早いだけなのか、それとも気を使ってくれているのか、判別できない。
「そうだね。それにしても茜って、ほんとにハッピーエンドが好きだよね」
「うん。人生なんて、所詮は運が九割のクソなんだから、フィクションの世界くらい、ハッピーエンドがいいよ」
いつもは綿菓子みたいにフワフワしている口調が、ハッとするほど鋭くなった。心がチグハグな方向に引っ張られているみたいに、ギュッと息苦しくなる。だけど幸い、間の抜けた音質の悪い予鈴は、そんな気まずい沈黙を掻き消すように、すぐ鳴ってくれた。
「さて、帰ろうか。続きは放課後ね」茜は、何事もなかったかのように、いつもの口調に戻っている。
「うん」背筋に冷たいものが這うのを感じながら、私は頷いて立ち上がった。
経験則を築けるほど、たくさんの人と関わってきたわけじゃない。だけど、様々なくだらない争いが溢れている「小学校の教室」という場所で、日々を過ごしていれば自然とわかる。人付き合いにおいて、最も大切なものは「妥協」だ。だから、「大切な友達の唯一の嫌なところくらい、笑って受け入れてあげるべきだ」ということも、ちゃんとわかっている。
なのに……どうしても私は、茜の唯一の難点が、「人の豹変する瞬間」というものが嫌いだった。
「……徒花ちゃん、なに見てるの?」
あれは夏休みが明けて少しした頃。茜との帰り道、通学路にあるお寺の掲示板に貼られていた「法話案内」の紙を、ぼんやりと見ていた時のこと。
「……仏様なんているわけないのに、バカみたいだね。徒花ちゃんもそう思わない?」
「わからないよ。いるかもしれないじゃん」聖護会の教え同様、本当に信じてはいない。だけど私は、反射的にそう言っていた。
「非科学的だよ」口を尖らせて反論する茜。
「でもさ、『世界にある全てのことが科学でわかる』っていう証拠って、本当にあるの? 科学じゃ証明できなくても、実在するものってあるんじゃないかな? 例えば……」
「ああ、もう! ごちゃごちゃうるさい!」
論破できた優越に浸りながら、名前の通り茜色になった彼女の顔を眺める。すると茜は、気持ちを切り替えるように咳払いして、「とにかく、宗教なんか信じている人は、みんな頭がおかしいの」と言った。
「……それは違うよ」
正直、便乗したい気持ちはあった。だけど、「積もり積もった憎悪を抱いているからこそ、それをぶつける相手を見誤ってはいけない」と、自分を戒める気持ちの方が大きかった。
「宗教を信じること自体は、別に何も悪いことじゃない。だって、多くの人々が人生を懸けて追求する『幸せ』っていうものも、ある意味では神様や仏様と同じ、霞のような実体のないものでしょ? 問題なのは、その教えを人に強制すること。これは『宗教だから』とか関係なく、人としてダメなことだから……」
途中から自分に言い聞かせるのがメインとなり、思わず喋り過ぎてしまった。「ごめん、説教臭かったね」と早口で謝り、隣を振り向くと……そこには、茜の絶望的な横顔があった。
「茜、どうし……」
「今は黙ってて」
ランドセルが、石化したように重くなった。あれからどんな気持ちで、どんなことを話して帰ったか、もう全く覚えていない。「これくらいのことで傷つくなんて、デリケートすぎるだろ」と自分でも思うけど、こればっかりは仕方がない。あんな母親に育てられては。あの日のできごとを皮切りに、茜は今でも時々、あの時のような豹変を見せる。
「人の豹変」に対する私の嫌悪感は、あの女に植えつけられたトラウマのせいで発症した、アレルギーのようなものだ。ケーキ好きの子供が、突如として小麦アレルギーを発症しても、その「好き」という気持ちは変わらない。それと同じで、茜があの豹変を見せる度に、少しずつ増えていく消えない傷が、いつか心の核に届いたとしても、私はきっと、茜のことを好きなままでいるだろう。そう思うと、たまらなく怖いんだ。
いつか伝えようと思っていた「やめて」を、私はもっと早くから、もっと根気強く何回も言うべきだったのかもしれない。登校中にスズメの死体を見つけて、給食の時間に先生が味噌汁を零して、昼休みに茜が「コートと春風」を借りたあの金曜日の、あの放課後。私たちは、手遅れになってしまった。
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