第四話

 茜と過ごした時間に比例して、私は徐々にワガママになっていった。欲望のフレームというのは、どうやら針金製らしい。収まり切らない大きな幸福が訪れると、そのフレームは、いとも簡単に広がってしまう。すると人は、今までなら喜べていたはずの小さな幸せを、喜べなくなる。

 確かに、今の私は「生きる目的」を持っていなくても、あの地獄に耐えられる。日々を生き抜くことができる。だけど、「できる」と「したい」は全くの別物で、他のみんなにとっては、「楽しさは一切ないけど、生きてはいられる人生」も、ただの地獄なんだ。


「……なるほど、素晴らしい小説だった」

 あの日の翌日から、私は茜と二人で昼休みを過ごすようになった。夏休み前は、あの花壇の前や私の教室で、他愛もないお喋りを延々としていたけど、話題というのも無限ではなく、少しずつ尽きてくるものだ。夏休みが明けて、そろそろお喋り以外のことがしたくなると、私たちは、一緒に過ごす場所を図書室に移した。茜は読書が大好きで、この図書室の過剰な広さと蔵書の豊富さには、いつも目を輝かせている。

「ねえ徒花ちゃん、感想を語り合いたいから、これ読んでよ」

 小説を読破した後の彼女特有の真顔で、いつものように、無理なお願いをしてくる茜。

「無理なものは無理」

「……徒花ちゃんのそういう真面目すぎるところ、嫌い。おうちの人には、言わなければいいだけじゃん」

 小学五年生が読むものとは思えないような、ハードカバーの分厚い単行本。その間から垂れる紐状の栞を、指でいじりながら、茜は口を尖らせて言った。

「それはそうなんだけど……できる限り、隠し事や嘘をつくことはしたくないの」

 良い子ぶっているのではなく、心の底からそう思っていた。褒めて自信をつけてくれる家族はいないのに、私が卑屈な性格になっていないのは、他の人よりも強く、自分で自分を肯定しているからだ。正しい道を行く正直者。それは、私が目指している人間像だった。

「あっそ、お堅いんですねー」

 そっぽを向きながら言うと、茜は立ち上がり、本棚の方に消えていった。いつものパターンだ。これで良い本を見つけられると、笑顔になって帰ってくる。

 親に構ってもらえなかった子供みたいな拗ね方。さっき本を読んでいた時の姿なんて、大人びた文学少女そのものだったのに。

「……なに描いてるの?」

 しばらくすると、すっかり機嫌を良くした茜が、戻って来て私の肩を叩いた。

「ラベンダー畑」

 この図書室にある小説やマンガ以外の本は、既に一通り手に取っていて、興味のあるものは、もう全て読み終えていた。だから私は、図書室の中だと言うのに本は読まず、家から持って来たコピー用紙と色鉛筆で、昔からの趣味だったお絵描きをしていた。

「へー、上手だね」

 コピー用紙を優しくつまみ上げ、八割ほど完成したラベンダー畑に、視線を落とした茜。

「全部、同じラベンダーなのに、一輪一輪、微妙に形や色合いが違うね。単調に見えないように、工夫してるんだ」

「うん、まあね」

 心がけていたポイントを的確に見抜いてくれるから、変に高い声で「上手い上手い」と褒められるより、ずっと嬉しい。すっかり上機嫌になった私は、右手に持った紫の色鉛筆をクルクルと回した。

「……昔、家族と行った北荻浦のラベンダー畑も、こんな感じだったなあ。けっこう有名だけど、徒花ちゃんはどうかな? 行ったことある?」

 声はとても楽しそうなのに、どこか遠い目をしていた。「そういえば、いつかの尋問の時に、ラベンダー畑について訊かれたこともあったな」と、その時の自分の受け答えを唐突に思い出して、苦笑いしそうになった。

「いいや、ないよ」

 そんな心の揺らぎを抑え、いつも通りの表情で答える。すると茜は、声を潜めて「これも家庭の事情のせい?」と訊いた。私の右手は自然と停止して、掴まれていた色鉛筆はテーブルにコトンと落ちた。

「……うん」

 これ以上は訊かないでくれ、と心の中で訴えかけた。聖護会の教えでは、自らが聖護会の信者であるということを、明かしてはいけないことになっている。「悪魔に命を狙われる危険があるから」という、バカみたいな理由とセットで、私の頭に最も印象深く残っている教えだ。

「……そっか」

 私の願いが通じたのか、茜は神妙な顔で黙り込んだ後、そう呟いただけで、特に追及してこなかった。

「茜は、どんな本を借りてきたの?」

 さりげなく話題を変えると、茜は、両手の人差し指と親指で作った「」に、借りてきた本を入れて、饒舌に語り出した。

 姿見の前で、晴れやかな笑顔の女の人が、コートを脱いでいる。開け放たれた窓からは、日の光が差し込み、桜の花びらが舞い込んでいる。そんな光景を撮った写真が表紙で、タイトルは「コートと春風」。いかにも茜が好きそうな本だ。

「簡単に言うと、『すごく貧乏な家庭に生まれた女の子の成長の物語』かな。まだあらすじしか読んでいないから、よくわかんないけど、表紙がハッピーエンドな感じだよね」

 さっきの神妙な雰囲気など、もう忘れてしまったかのように、ニコニコしている茜。なにせ二面性のある人なので、ただ単に切り替えが早いだけなのか、それとも気を使ってくれているのか、判別できない。

「そうだね。それにしても、茜って、ほんとにハッピーエンドが好きだね」

「うん。人生なんて、所詮は運が九割のクソなんだから、フィクションの世界くらい、ハッピーエンドがいいよ」

 いつもは綿菓子みたいにフワフワしている口調が、ハッとするほど鋭くなった。テーブルに両手をつき、別のテーブルで絵本を読んでいる低学年の男の子を、ぼんやりと見つめている茜。その視線が、こちらに向いていないのが、せめてもの救いだった。正面から見た優しい顔で言われるより、横から見たシャープな顔で言われる方が、ギャップが少ない。

 心がチグハグな方向に引っ張られているみたいで、苦しかった。だけど幸い、間の抜けた高音の予鈴は、そんな気まずい沈黙を掻き消すように、すぐ鳴ってくれた。

「さて、帰ろうか。続きは放課後ね」

 茜は、何事もなかったかのように、いつもの口調に戻っている。

「うん」

 背筋に冷たいものが這うのを感じながら、私は頷いて立ち上がった。


 経験則を築けるほど、たくさんの人と関わってきたわけじゃない。だけど、様々なくだらない争いが溢れている「小学校の教室」という場所で、日々を過ごしていれば自然とわかる。人付き合いにおいて、最も大切なものは「妥協」だ。だから、「大切な友達の唯一の嫌なところくらい、笑って受け入れてあげるべきだ」ということも、ちゃんとわかってる。

 なのに……どうしても私は、茜の唯一の難点を、「人の豹変する瞬間」というものを好きになれなかった。茜はまるで、湿っぽい日陰にある大きな石のような人だ。彼女がその裏側を私に初めて見せたのは、一学期最後の日のことだった。


「……徒花ちゃん、なに見てるの?」

 茜との帰り道、通学路にあるお寺の掲示板に貼られていた「法話案内」の紙を、ぼんやりと見ていた時のこと。

「法話案内? へー、仏様なんているわけないのに、よくやるね」

 茜にしては鋭い言葉だったけど、「これもいつもの気まぐれだろう」と特に気に留めなかった。

「わからないよ。いるかもしれないじゃん」

 聖護会の教え同様、私自身が信じているわけではなかったけど、私には「誰かが否定しているものは肯定したくなる」という少しアマノジャクなところがあった。

「非科学的だよ」

 口を尖らせて反論する茜。

「でもさ、『世界にある全てのことが科学でわかる』っていう証拠って、本当にあるの? 科学じゃ証明できなくても、実在するものってあるんじゃないかな? 例えば、『命というものは、どうやって誕生したか』とか……」

「ああ、もう! ごちゃごちゃうるさい!」

 論破できた優越に浸りながら、名前の通り茜色になった顔を眺める。すると茜は、気持ちを切り替えるように咳払いして、「とにかく、宗教なんか信じている人は、みんな頭がおかしいの」と言った。

「……それは違うよ」

 正直、便乗したい気持ちはあった。だけど、「積もり積もった憎悪を抱いているからこそ、それをぶつける相手を見誤ってはいけない」と、自分を戒める気持ちの方が大きかった。

「宗教を信じること自体は、別に何も悪いことじゃない。だって、多くの人々が人生を懸けて追求する『幸せ』っていうものも、ある意味では神様や仏様と同じ、霞のような実体のないものでしょ? 問題なのは、その教えを人に強制すること。これは『宗教だから』とか関係なく、人としてダメなことだから……」

 途中から自分に言い聞かせるのがメインとなり、思わず喋り過ぎてしまった。「ごめんごめん、少し説教臭かったよね」と早口で謝って、隣を振り向くと……そこには、財布をドブに落としてしまったような、茜の絶望的な横顔があった。

「茜、どうし……」

「今は黙ってて」

 授業のない終業式の帰りで、いつもよりずっと軽いはずのランドセルが、石化したように重くなった。あれからどんな気持ちで、どんなことを話して帰ったか、もう全く覚えていない。

 「これくらいのことで傷つくなんて、デリケートすぎるだろ」と自分でも思うけど、こればっかりは諦めて自然治癒を待つしかない。あの女が、私の一挙手一投足でスイッチが入るようなキチガイじゃなければ、こうはなっていなかったのだけど、違う世界線を妄想したって、虚しくなるだけだ。


 あの日のできごとを皮切りに、長い夏休みを経て二学期になっても、茜は時々、あの時のような豹変を見せるようになった。その瞬間は、決まって「社会や人生の理不尽」について語る時に訪れるが、かと言って「そういう話題を避ければ解決」とはならないから、もうどうしようもない。今日のように関係ない話題からでも飛び火して、スイッチが入ってしまうから、いくら気をつけても無駄だった。


 だけど……一つだけ、勘違いしてほしくないことが、勘違いしたくないことがある。それでも私は、間違いなく、茜のことが大好きだったんだ。出会った日に抱いた印象通り、優しくて賢いところも、大人の余裕が感じられる、落ち着きのある立ち振る舞いも、最初は少しガッカリさせられた、たまに見せる子供っぽい姿も。全部全部、本当に。

 「人の豹変」に対する私の嫌悪感は、あの女に植えつけられたトラウマのせいで発症した、アレルギーのようなものだ。ケーキ好きの子供が、突如として小麦アレルギーを発症しても、その「好き」という気持ちは変わらない。それと同じで、茜があの豹変を見せる度に、少しずつ増えていく消えない傷が、いつか心の核に届いたとしても、私はきっと、茜のことを好きなままでいる。そして、それは確実に、「人並みの幸せ」というものを欲しがってしまった私にとって、耐えられないほど辛いことだ。


 いつか伝えようと思っていた「やめて」を、私はもっと早くから、もっと根気強く何回も言うべきだったのかもしれない。登校中にスズメの死体を見つけて、給食の時間に先生が味噌汁を零して、昼休みに茜が「コートと春風」を借りたあの金曜日の、あの放課後。私たちは、手遅れになってしまった。

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