第三話
再び生きる目的を見失った私は、ひたすら自己研鑽に励んだ。聖典を読み返し、一度まとめた「禁忌ノート」の内容をより詳細にしたり、毎日の夕飯後に行われる尋問に備えるため、作文などで論述のスキルを磨いたりした。
「今日、社会で地域の勉強をしたそうね」
時間割のプリントを見ながら、あの女が言う。極度の緊張で、心臓の鼓動は速まり、全身からは汗が噴き出して、気分は最悪だった。狭く静かなダイニングの空気が、毒ガスに変わったように感じられる。
本格的な自己研鑽を初めてからは、三か月。初めて暴力を振るわれた日の翌日、この尋問が始まった日からは、もう三年が経つのに、どうしても慣れることができないな。
「この街の北には、有名なラベンダー畑があるけど、それについて徒花はどう思う?」
顔色が私へのヒントにならないように、あの女は完璧なポーカーフェイスを貫いていた。
「愚かだと思ったよ。生物というのは、神が自然の流れに沿い創り出すもので、我々人間が、むやみに生物を繁殖させ、その流れを乱すことは、本来とても無礼なこと。差し迫った事情があるのなら、神は、その寛大な心で、愚かな我々をお許し下さるかもしれないけれど、『自分たちの癒しにするため』なんて、もっての他だよ。悪魔に生み出されてしまったラベンダーたちが、不憫でならない」
もちろん、私自身がそう思っているわけじゃない。細胞分裂と生殖で生物が殖えるメカニズムを、私は本で知っている。だけど、「正しさ」なんていうくだらないものを追及していては、また地獄を見るだけだ。
「その通りね。神の御加護を受けている者として、素晴らしい考えだわ。それじゃあ、もう行ってよし」
あの女の顔に、初めて笑みが浮かぶ。今日も、無事に乗り切れたようだ。積み重ねた努力の効果は、やはり表れていて、昔は週に三回くらいだった暴力のペースは、今では週に一回くらいになっている。
読書にも飽きて、すっかり手持ち無沙汰になった昼休みを、私はあの日も、校舎の前の花壇で過ごしていた。角の丸いレンガで囲われたその花壇は、そこそこの広さで、花の種類により、四つに区切られている。左から順に、マリーゴールド、ガザニア、インパチェンス、ペチュニアだ。
「綺麗だな」
私のお気に入りは、ガザニアだ。咲き乱れるカラフルな大輪の花は、眺めていたら自然と明るい気持ちになって、まるで小さな太陽のようだった。
「ケイゴ、パス」
背後のグラウンドでは、同学年の男子たちが、楽しそうにサッカーをしている。こういう時に、交ぜてほしいとウズウズしていた昔の私は、「嬉しいことに」と言うべきか、「悲しいことに」と言うべきか、もうどこにもいない。
今では、公園で遊ぶ子供たちを眺める老人のように、ぼんやり「元気だなあ」と思うだけだ。昔よりも暴力を振るわれなくなり、成長と共に忍耐力がつき、私はあの地獄に、目的がなくても耐えられるようになっていた。
「……君、名前は? あと、何年生?」
あれから五分くらい経って、「そろそろ他の花を見ようかな」と思っていた頃、上級生と見られる知らない女の子に、突然、声を掛けられた。独りでいる私が可哀想で話しかけてくれた、というところだろう。こういうことは、これまでに何度もあった。
ありがたい話なのは、重々わかっている。だけど、心の奥で「余計なお世話だ」と中指を立てている自分を、どうしても諫められなかった。孤独な私を見て、勝手に同情して、私がついて行けるはずのない、彼ら彼女らの思う「楽しい話」を一方的にして、話し尽くすと興味をなくす。どうせこの人も、そうやって去って行くのだから。
「更科徒花、四年生です」
顔もロクに見ないで、素っ気なく答えた。
「なるほど、徒花ちゃんね。私は
すると彼女は、弾けるような明るい声でそう言って、唐突に私の手を握ってきた。私はビックリして、視線を右往左往させていた。
(これから?)
その四文字を心の中で復唱する度、私の動揺は増した。なんだかんだ言っても、あの頃の私はまだ幼く、「素っ気なく振る舞って、早く帰ってもらおう」という意志は、さっそく揺らぎ始めていた。
彼女は今までの人とは違う……かもしれない。だって、こんなの初めてだ。私が立ち上がるまで、立ったまま待っているのではなく、私の隣にしゃがみ込んで、一緒に花を眺めてくれるなんて。
「徒花ちゃん、このお花って、なんていう名前なの?」
先ほど正面から見た彼女の顔は、なんだか優しそうだった。太っているわけじゃないのだけど、顔も唇も鼻も目も、かけている眼鏡さえも、ヤスリで角を取ったように丸かったから。だけど、今こうして見つめている横顔は、また違う印象で、不思議なくらいシャープで理知的だった。
「ガザニアです」
「なに? ラザニア?」
そう訊き返すフワフワした声が、幼くニヤついている。目から入ってくる情報と、耳から入ってくる情報のギャップに、少し混乱した。
「今の聞こえてましたよね?」
「いやー、聞こえなーい」
固く結ばれたポニーテールが、彼女が笑って肩を揺らすのに合わせて、その名の通りポニーの尻尾のように揺れる。
「ガ、ザ、ニ、ア、です」
一音ずつ区切って言う。
「ラ、ザ、ニ、ア?」
一音ずつ区切って訊き返される。感じていた「シャープで理知的な印象」は、もう崩れ去っていた。実を言うと、こういう賢そうな人は、私の密かな憧れの的だったから、少しガッカリした。
変なスイッチが入って、絶対に諦めないと決めた私は、こういう問答を、あれから何度も繰り返した。
「……だから、どうして花壇に料理が生えてるんですか? ガザニアだって!」
そして、ついに相手の思う壺になった私は、どんな老人でも聞こえるような、大きな声でそう言った。すると彼女は、初めて「ああ、ガザニアね」と理解した。
「どうして今まで、聞こえないふりをしていたんですか?」
「えっ? なんて?」
彼女が懲りずに訊き返してきた直後、昼休み終了五分前を告げる予鈴が鳴った。あーあ、結局、昼休みを無駄に潰されてしまった。そろそろ、教室に戻らないと。
「……もういい、帰る」
立ち上がり、うなだれて背を向ける。
「えっ? 帰るって? 急にどうしたの?」
「あー、うるさいなあ! 年上のくせに、どうしてこんなバカみたいなことをするの? アホなの? アホなら、もう来ないで!」
そのアホなイジワルに、自分がまんまと乗せられていたことを棚に上げて、私は思いのままに大声を出した。すると彼女は、お腹を抱えて急に爆笑し始めた。小四の割には大きかった私のプライドは、もう完全に剥がれ落ちていた。
「笑うな! なんも面白くない!」
「ははっ、ごめんごめん。徒花ちゃんが、ずっと敬語だったから、こうやって敬語で言ったセリフを聞こえないふりすれば、タメ口で話してくれるかなって思ったの」
「ストレートに言ってよ! わかりにくいじゃん!」
「ふっ、徒花ちゃん、顔真っ赤だよ」
その言葉で、ふと我に返った。恥ずかしさが、後から後から湧いてきた。
「……で、どうして私に話しかけてきたの?」
そう訊くと、彼女は立ち上がって私の隣に並び、語尾にハートがついているような甘い声で、「わっ、茜って呼んでくれた。嬉しー」と言った。ツッコミたかったけど、残念ながら時間がないので、歩き出して答えを促す。
「質問に答えて。どうして私に話しかけてきたの?」
「えー、そんなの、『徒花ちゃんと友達になるため』だよ。それしかないでしょ?」
さも当然といった口調で、彼女は答えた。少しずつ崩れていっていた私の心の壁は、その言葉で完璧に壊れた。
自分自身が情けなく思えてくるくらい、「私はこの好意に応えられないのではないか?」という不安が、ドクドクと湧き出してくる。これをどう処理すればいいか、私は黙り込んで迷っていた。
「……でも、私はそんな面白い人じゃないよ?」
だけど、結論は案外すぐに出た。よく考えたら私は、自分の子供っぽいところを、この人に既にたくさん見られている。今さら取り繕っても、もう無駄なんだ。いくら情けなく思われてもいい、不安なことは全部、直接訊いてやろうじゃないか。
からかわれて腹も立ったけど、それ以上に、彼女と一緒にいると楽しい。最初に抱いていた敵意なんて、もう微塵も残っていなかった。私は今、「この人と友達になりたい」と思っている。渇望に近いほど、強く強く。
「家庭環境が、なんて言うかその……少し複雑だからさ、私、アニメの話も、ゲームの話も、ファッションの話も、世間話だってできないんだよ? そんなんじゃ、茜もつまらないと思う」
普通の声で言うつもりだったのに、いつの間にか、弱々しい不安が籠もっていた。隣を歩く彼女の横顔が、不意に真剣になったのを見て、「もしかして、余計なことを言ってしまったのでは?」と、どうしようもなく心配になった。
気丈に振る舞おうとしても、なぜかできなかった。そして、更に不思議なことに、普段隠している弱い自分を、彼女に見せれば見せるほど、私は得も言われぬ安心感を覚えていた。
「……徒花ちゃん、さっき見ていたガザニアの花言葉を教えてくれる?」
唐突な質問だったけど、「どうしてこんなことを訊くんだ?」と疑問に思う余裕もない。
「確か、『きらびやか』とか『あなたを誇りに思う』とかだよ」
その声なんて、もはや震えている。あの時の私は、立て続けに起こる異常な変化に、ただただ混乱していた。
「ほらね、こんなこと、徒花ちゃん以外の人は知らないよ。アニメやゲームの話は、他の人とでもできるし、私自身もう飽きている。だけど、こういうお花に関する詳しい話は、徒花ちゃんとしかできないし、新鮮で面白い。だからさ、不安になる必要なんてないよ」
玄関の扉の前、満面の笑みでそう言ってくれた彼女。「時間ヤバいから、また明日」と言って、背を向けた彼女の手を、私はとっさに握り、引き留めた。心臓が、割れそうなほどバクバクしていた。
「茜! 私と友達になって!」
振り向いた彼女が、笑いながら大きく頷いてくれた時、私は、これ以上ないほど幸せな気持ちになった。小学四年生の夏、七月十六日、五時間目開始の約二分前。かくして私は、茜と友達になった。
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