第三話
「明日も、来るからね」
萎れた紫のアサガオを撫でる。夏休みも今日で終わると言うのに、首筋に降り注ぐ日差しは、まだまだ強い。
「徒花ちゃん、今日もありがとうねえ」
目の前の広い花壇をぐるりと見渡して、帰ろうとしたその時、加賀さんに声をかけられた。
「いえいえ、私の趣味でやってるので、いいんですよ。今日は、これで帰ります」
詰まっていた脂肪をほとんど取り除いてしまったような、シワだらけの頬に、微かなえくぼができている。見ている人も、自然と微笑んでしまうような、素敵な笑顔だった。
「だけど今は、ちょうど一番暑い時間帯だから、少し涼しくなるまで、家に上がってなさい。お菓子も出してあげるから」
やっぱり今日も、いつもの流れになった。
踵を返して、家の方へ歩き出した加賀さん。その背中を、早歩きで追い越す。先に到着した私は、扉を手で押さえ開けたままにして、加賀さんを待った。ゆっくりな歩調で、こちらに近づいてくる加賀さんの姿を眺めながら、私は、昨日の夕飯の曲がったエビフライを思い出していた。
「気を使わせちゃって、ごめんねえ。歳を取ると、こんなことも満足にできなくなって……」
この扉が重いのが悪いんですよ、と心の中で呟いた。「ほんと、情けないわ」と吐き捨てるように言った加賀さんは、ひどく悲しそうな顔をしていた。
加賀さんと初めて出会ったのは、夏休みの初日。図書館に本を借りに行こうと、普段あまり通らない道を歩いていた時だ。ジョウロを重そうに持ち、花壇の花に水をやっていた加賀さんの姿を見て、「手伝いますか?」と声をかけたのが、始まりだった。
「あら、嬉しい。じゃあ、水やりを手伝ってくれる?」
加賀さんに言われた通り、水やりを済ませると、今度は自主的に草むしりをした。私は、すっかり夢中になって、さっきまで図書館に行こうとしていたことなど、もう忘れてしまっていた。
「お花、好きなのかい?」
ペットボトルの麦茶を差し入れるついでに、加賀さんは、そんなことを訊いた。
「はい。水と土と日光だけで、すくすくと大きくなるところが、なんか、生命の力強さを感じると言うか、美しいと言うか……」
「憧れるのかい?」
的確な占いをされたみたいで、少しドキッとした。加賀さんは、コハクに閉じ込められた気泡のような目で、私を見つめていた。
「そうです、そう言いたかったんです」
「そっかあ。じゃあ、あの人と同じだねえ」
加賀さんは、懐かしそうに呟いて、花壇の奥の方に目を遣った。そこには、花を落としてげんなりとしている、背の高いバラが佇んでいた。
「四年前に死んだ私の旦那は、飽き性でお金の使い方が荒くてね、『俺は、無欲なのに力強く生きている、花みたいな人間になりたい』って、よく言ってたんだよ」
加賀さんは、おもむろに空を仰いでから、無言で花壇の中に入っていった。私も、それについて行き、枕木で作られた細い道を、加賀さんの歩調に合わせて、ゆっくりと歩いた。
「この花壇はねえ、旦那が仕事を定年退職して、この家に引っ越して来てから、二人で作り始めた花壇なんだ。ずっと、ずっと、大切にしてきたのさ。だから徒花ちゃん、良かったら……」
「花たちのお世話、私が代わりにしますよ」
――環境のせいで、自力では叶えられなかったけど、私は昔から、大きな花壇で花を育ててみたいと思っていた。あの時、私が加賀さんに声をかけたのも、それが理由だ。「気が向いたら行こう」なんて思いながら、私は結局、あの日から夏休みの最終日の今日まで、毎日、加賀さんの家に通い続けた。
「徒花ちゃん、はい、クッキーだよ」
木目の綺麗な小さいボウルに入れられた、たくさんのチョコチップクッキー。お店で買ったと思われる、透明で綺麗な氷が浮かんだ、オレンジジュース。
「ありがとうございます」
目の前で微笑む加賀さんを眺めながら、私は物思いに耽っていた。
夏休み明け初日のクラスでは、いつものように、喜びと憂鬱とが七対三くらいの割合で、混ざり合っている。そんな中、私は無色透明なままで、ランドセルを背負い席を立った。「そろそろ、アブラムシを取ってやらないとな」と、加賀さんの家の花壇に思いを馳せながら。
「……徒花ちゃん、一緒にかーえろ」
何も変わらないと思っていた二学期、その最初の日。私のクラスメイト、
「蘭ちゃん、どうしたの?」
本当はとても驚いていたけど、平静を装って訊いた。蘭ちゃんと私は、クラスメイトであること以外、何の接点もない。なのに、どうして急に?
「一緒に帰ってみたくなったから、誘ったの。嫌だった?」
嘘をついているようには、見えなかった。だけど、「ああ、そうなんだ」とも思えなかった。蘭ちゃんは、優しく明るい性格で、クラスのみんなから人気だ。一緒に帰る相手なんて、何もしなくても集まって来るだろう。わざわざ私を誘う意味が、やっぱりわからない。
「良かった、嫌じゃないんだね。じゃ、行こう」
沈黙は肯定(いや、この場合は否定か)ということで、蘭ちゃんは早速、私の手を取った。急に手を握られて、私は少し寒気がした。
だけど、蘭ちゃんの腹の内がわからないままなのも気持ち悪いので、真意を探るためにも、仕方がなく一緒に帰ることにした。
初日は、蘭ちゃんと二人で帰った。「趣味は?」とか「好きな食べ物は?」とか、とにかく色々な質問をされた。私が、「園芸」とか「目玉焼き」と答えると、蘭ちゃんも、「アイドルのグッズを集めること」とか「シュークリーム」と答えた。
別に自慢されたわけじゃない。だけど、私と蘭ちゃんの育ちの違いが、段々と浮き彫りになっていくようで、少し気分が悪かった。
「徒花ちゃん、今日は沙也加ちゃんも一緒だけど、いい?」
その翌日、蘭ちゃんは私にそう訊いた。その隣には、嘘くさい笑みを浮かべた、背の高い女の子が立っていた。
「うん、いいよー」
気持ち悪いを超えて、もはや面白くなってきた。たった一度、一緒に帰っただけなのに、毎日一緒に帰ることが、もう暗黙の了解になっているなんて。
「……マユリン、やっと活動再開したみたいだね。
「そうなの、そうなの! いやー、もう、本当に最高! そういえば、蘭の好きなミューツも、今度、新しいアルバムを出すって……」
コンビニ近くの交差点で沙也加ちゃんと別れるまで、二人はずっと、芸能人の話をしていた。蚊帳の外に追いやられた私は、電線に止まっている大群のスズメを、一羽ずつ数えながら、彼女らの熱いパトスに満ちた話を聞いていた。
「……ごめんね、沙也加と二人きりで盛り上がっちゃって」
高い背との対比でやけに小さく見える、ラベンダー色のランドセルを見送り、私の方を振り向いた瞬間に、蘭ちゃんはそう言った。ひどく申し訳なさそうな顔をしていたから、さっきまでのハイテンションとの落差に、風邪を引きそうだった。
「ところでさ、徒花ちゃんって、好きな芸能人はいる?」
「いないよ」
「そっか……じゃあ、ちょっと待ってて」
嘘みたいに綺麗な手の平を、私の目の前に突き出してストップをかけ、蘭ちゃんはランドセルを地面に置いた。そして、その中から、一枚のファイルを取り出した。「ジャジャーン」といった感じで披露されたそれには、男性アイドルの集合写真がプリントされていた。
「この人たちはね、私の好きな『ミューツ』って言うアイドルグループなんだ。ねえ徒花ちゃん、この中から、好きな人を一人選んで」
「わかった」
ワイルドな雰囲気を売りにしているのだろう。メンバー全員が、傷だらけのジーパンと革ジャンを身にまとい、ギラギラした目つきをしている。……蘭ちゃんには悪いけど、もうこれだけで好みじゃなかったから、私は適当にセンターの人を選んだ。
「おー、タケッチか。いいね、いい趣味してる。私はね……」
それから蘭ちゃんは、右端に立っている金髪のメンバー、「カイッチ」について語り始めた。
「インスタに筋トレの動画を上げてるんだけど、タンクトップ姿で腕立て伏せする時、筋肉が見えてかっこいいんだよね」
「意外と汗かきで、ライブの時に飛び散った汗が光るんだけど、それがまた良くてさ」
「ぶっきらぼうな感じだけど、実は、捨て猫を飼ってるんだよね」
蘭ちゃんは、そんな他愛もないことを、親に将来の夢を語る子供のように、目をキラキラさせながら話した。適当な相槌を打って聞いていたくせに、話し終わった後の蘭ちゃんの、満足そうな顔と少し汗ばんだ額を見て、私は少し申し訳なくなった。
「ごめんごめん、また盛り上がりすぎちゃった」
「謝らなくていいよ、そんなことで」
「えっ?」
「私は別に、蘭ちゃんを楽しませようとしてない。だから蘭ちゃんも、私には気を使わずに、好きな話を好きなだけすればいいよ」
「そっか……ふふっ、徒花ちゃんって、良い子だね」
そう言って私を褒め、蘭ちゃんはニコッと笑った。取るに足らないやり取りの、他愛もない一コマなのに、どうしてだろう? 少し開いた唇の間から覗いた、あの小さなギザギザが残っている前歯を、私は今でも鮮明に覚えている。
定年を迎えて、第二の人生を送っている老夫婦たちが集う、閑静な住宅街。その一角にあるアパートが、私の家だ。古すぎるとか狭すぎるとか、そういう不満はないけど、「やっつけで造りました」っていう雑なデザインが、少し気に食わない。
「ただいまー」
いないことはわかっているけど、とりあえず言う。この前、「どうせいないんだろう」と思って無言で入ったら、嫌な顔をされた。
ランドセルを自分の部屋に置いて来て、カスタードみたいな色の洗面台で手を洗う。火曜日の今日は、日が暮れるまで勧誘を続けるはずだ。あの女の行動パターンは、曜日ごとに決まっているので、わかりやすい。
「……はあ、ちょっと悠長すぎたな」
扉の向こうからの物音に舌打ちをして、急いであの部屋に入る。そして、バラの印が入った仏壇もどきの前で正座して、あの馬鹿みたいな「聖言」を唱えた。
「あら、お祈りしてたの?」
その左手には、空のトートバッグが握られている。ノルマが少なったのか。
「うん、帰って来てからずっと」
あの日以前の私にとって、最後の手段だった「嘘をつく」という行為は、今の私にとって、真っ先に浮かぶ選択肢の一つだ。作り物の笑顔に、作り物の言葉を返すだけ。一体、何をためらう必要があるのだろうか?
「偉いわね」
そう言って、あの女は襖を閉めた。あと二十分も続けていれば、安全だろう。
「愚かな我らに、神のご慈悲を。悪魔の手下に、神の鉄槌を。回る地球に、安らかな死を……」
無心で「聖言」を唱え続ける。いつものように、しばらくすると放心状態になって、自分じゃない人の声を聞いているような気分になる。頭を空っぽにして休ませるのは、悪いことじゃないだろうし、昔は、ここまで苦痛じゃなかったんだけどな。私も、贅沢になったものだ。
*
「徒花ちゃん、あれって、なんていう花なの?」
「キンモクセイだと思うよ」
「へー、なんか、金星と木星が合体したみたいな名前だね」
あれから一か月が経ち、気がつけばもう十月。あの日、沙也加ちゃんは体調不良で欠席で、私は蘭ちゃんと二人で帰っていた。
「ねえねえ、今度の日曜日、一緒に遊ばない?」
蘭ちゃんと一緒にいるのは、独りでいるのと比べれば、確かに楽しい。だけど私は、蘭ちゃんと一緒にいると、それ以上に強く、「蘭ちゃんは、茜じゃないんだな」と寂しくなってしまう。
「ああ、うん。いいよ」
今だって、そう。茜は、「今度の日曜日、一緒に遊ぼう」なんて、一度も言ってこなかった。
「ねえ、沙也加も誘っていい?」
「だから、いちいち許可を取らなくていいって」
こんな回りくどいことも、茜なら絶対に言わない……って、挙げていってもキリがないな。そもそも、全くの別人である茜と蘭ちゃんを、比較すること自体が、間違いなんだ。
「……どうしたの? なんか、痛そうな顔してるけど」
「ああ、気づいちゃった? 実は、右足が靴擦れしちゃってさ」
「私、バンソウコウ持ってるけど、貼る?」
「えっ、本当? じゃあ、お願いしようかな」
それから私たちは、近くのバス停のベンチに移動した。
「徒花ちゃん、私、自分で貼れるよ?」
新品の白いスニーカーを引っ張るように脱ぎながら、蘭ちゃんは言った。
「いいよ、体勢的に、私の方が綺麗に貼れるから」
「そ、そう?」
汗に濡れたピンクの靴下を少し下ろす。細いシワが何本か刻まれた白いアキレス腱には、真っ赤な靴擦れができていた。
「はい、貼り終わったよ」
外れないように、何度か指でなぞって密着させてから、靴下を元に戻した。蘭ちゃんは、「あ、ありがとう」とぎこちなく返事すると、すぐに靴を履いて立ち上がった。
――それから私たちは、少しの間、何も話さずに歩いた。ほんの二分程度のことだったけど、蘭ちゃんと一緒にいて、こんなに長く沈黙が続いたことはなかった。
「そういえばさ、来週の修学旅行、徒花ちゃんは行かないんでしょ?」
沈黙の蚊帳が上がる。蘭ちゃんは、ふと思い出したように、さりげなくそう訊いた。
「うん、行かないよ」
そう答えて、わざと立ち止まる。蘭ちゃんは、私の二歩くらい前で立ち止まり、こちらを振り向いた。
「そ、それでさ、その理由を……」
やっぱり、目が泳いでいる。ふと思い出したように言ったのは、ただの演技で、蘭ちゃんは初めから、この話をしようと決めていたんだ。
「お金がないから、だよ」
確かに、うちは貧乏な方だけど、修学旅行の旅費を払えないほどではない。あの女に逆らえない自分の無力さを、認めてしまうようで癪だから、絶対に言わないけれど、本当の理由は、「神社に立ち寄るから」だ。
「お金がないから、か……」
バツの悪そうな顔をして、私の言葉を復唱する蘭ちゃん。
「蘭ちゃんは、何も気にしなくていいよ。私の分も、楽しんで……」
「あ、あのさ! 集金の期限は、もう過ぎちゃったけど、先生にお願いすれば、なんとかなるよ、だから、だから……クラスのみんなに、協力してもらおうよ! そして、少しずつお金を出してもら……」
「やめて。そんなこと、しないで」
蘭ちゃんが憎いわけではなかった。なのに私は、反射的に、叩きつけるような厳しい口調で、そう言っていた。
もちろん、「更科さんの家は貧乏で、修学旅行にすら行けないので、みんなでお金を出してあげましょう」なんて、晒し上げられるのも嫌だ。だけど、その時の私が最も拒絶していたのは、そのことじゃなくて……。
「ど、どうして?」
相手が自分に求めていることを理解して、ひたすらに相手を楽しませる。自分の本当の気持ちなんて、二の次でいいと思っている。……蘭ちゃんは、そういう人だった。
「私が、『してほしくない』と思ってるから」
私は、これまで一度も、蘭ちゃんが向けてくれる好意に、応えようとしてこなかった。彼女が誰かに向ける感情はいつも、調整されていたから。真剣に受け止めなくても、許されると思っていたんだ。
「で、でも……」
少年マンガの主人公のような、純粋で真剣な眼差し。いつものように調整されていない、剥き出しの感情。着けている手袋を脱いで、蘭ちゃんは今、私の心に触れようとしている。
私たちは、一か月間も一緒に過ごした。他人だったあの頃は、私たちの冬は、もう終わったんだ。私も、早く脱がなきゃ。早く脱いで、お互いに素手で、お互いの本心をぶつけ合うんだ。ぶつけ合わなきゃ、いけないんだ。なのに……。
――その時の私が、最も拒絶していたもの。それは、蘭ちゃんの心からの好意だった。もっと言うと、好意を受け取った後、向き合わないといけない、自分自身の心だった。夏休みの最終日、加賀さんの家で、不意に湧き出た疑問。「茜に抱いていた『好き』という感情を、私は今でも、他の誰かに抱けるのか?」という疑問。その答えを知るのが、たまらなく怖かったんだ。
「蘭ちゃんは、どうしてあの日、私に声をかけたの?」
早く、早くこの手を遠ざけたい。そう思うあまり、私は、とんでもない悪手を打ってしまった。
「えっ、そ、それは……」
「いつも独りぼっちで、みすぼらしい私を見て、可哀想と思ったから、でしょ?」
本当に馬鹿だ。あの時の私は、その問いに、蘭ちゃんがどう答えると思っていたんだ? 何のメリットもないのに、私を修学旅行に連れて行こうとしている。それが、何よりも明白な答えじゃないか。
「……そうだよ」
苦々しい顔をしながらも、最後まで目を逸らさずに、そう答えた蘭ちゃん。彼女が、その後に続けた言葉たちは、どんなに印象的なCMソングよりも、ずっと鮮明に、私の脳裏に焼きついている。
「確かに、私は最初、徒花ちゃんのことを、可哀想な子だと思ってた。だけど、今は違う。いつも気を使っちゃう私に、『気を使わなくていいんだよ』と言ってくれたり、私の臭い足に、バンソウコウを貼ってくれたり。……私、そんな優しい徒花ちゃんが、大好きだよ」
感極まったように目を伏せて、蘭ちゃんは、私の手を握った。初めて一緒に帰ったあの日とは、だいぶ違う握り方。包み込むような、優しい握り方だった。だけど、私の背筋を走った、得体の知れない何かの冷たさは、やっぱり変わっていなかった。
本当に残念だけど、もう、認めるしかないんだ。そして、開き直るしかないんだ。やっぱり、私は。
「それでさ、修学旅行の話だけど……」
「しつこい」
「えっ?」
「だから、しつこいんだって!」
三か月前のあの日、決めたじゃないか。「自分の欲望を満たすことだけを考えて、生きていこう」と。蘭ちゃんはもう、私が不快になる事実を、突きつけ続けるだけの人間になってしまった。だから、遠ざける。ただ、それだけだ。
「……ど、どうして?」
手から、温もりが消えていた。蘭ちゃんは、私に鋭い眼差しを向けながら、右手を強く握りしめていた。ああ、私は、蘭ちゃんの手を振り払ったんだ。
「嫌なのは、もうわかったけどさ、もう少し、優しく伝えてよ。そんなんだから、ずっと独りぼっちなんだよ?」
煽るようにそう言った後、蘭ちゃんは少し涙ぐんだ。
「ずっと、か。まあ、二年生の夏から、四年生の夏までの二年間は、友達いたけどね。蘭ちゃんよりも、ずっとずっと良い人だったよ」
無視して帰っても良かった。だけど、せめて最後くらいは素直にならないと、蘭ちゃんに失礼だと思ったんだ。
「へー、ずいぶん物好きな人だね」
一時的な感情に身を任せて、お互いの心に、言葉のナイフを刺し合う。「口喧嘩」というものを、やってみようと思った。
「そうかもね。だけど、私のことを、本当によく理解してくれた人だったよ」
「例えば?」
「私が、一人でいる時間を必要としているのを察して、『休日、一緒に遊ぼう』と、一度も言ってこなかった。『放課後、学校で時間を潰したい』と言えば、理由も訊かずに、『うん、いいよ』と答えてくれた」
「はっ、何それ。そんなやつのこと、友達だと思ってたの?」
心の中から、「パン!」という小さな爆発音が聞こえてきた。その瞬間、興味本位で始めた口喧嘩は、お遊びじゃなくなった。
歯止めをかけようとした時にはもう、「何が言いたいの?」と、少し震えた声で訊いていた。蘭ちゃんは、私の質問を蹴飛ばすように鼻で笑ってから、吐き捨てるように言った。
「だってさ、その人の対応って、すごく不誠実だよ。徒花ちゃんが抱える闇から、ただ目を逸らし続けてただけじゃん」
「……えっ? いや、そんなこと……」
否定しようと思ったけど、できなかった。意味のない前置きを、何度も何度も、繰り返し呟いていた私は、実に無様だったことだろう。
――底なしの沼に、突き落とされたような感覚だった。否定しようと考えれば考えるほど、蘭ちゃんの言っていることの正しさが、証明されていく。いま思えば、茜は一度も、私を褒めてくれなかった。「好き」とか「大切」とか、そういう友情を裏づける言葉を、一度も贈ってくれなかった。
「……ごめん、ちょっと言いすぎた」
しばらくの沈黙の後、蘭ちゃんは浅く頭を下げて、ぶっきらぼうにそう言った。
「……謝らなくていいよ。お陰で、色々とハッキリしたから」
なんて良い子なんだろうと、今更ながらに感動しながら、そう言って踵を返した。
「と、徒花ちゃん、待って!」
私を引き留めようと、蘭ちゃんが伸ばした手を、私はハエのように叩き落とした。わかり合えるって、信じてたのにな。それが、私が最後に聞いた蘭ちゃんの言葉だった。
心が、酷く不安定になっていた。頭を冷やす必要があると、本能が告げていた。あのやっつけアパートを素通りして、私はランドセルを背負ったまま、加賀さんの家に行った。それが逆効果になるということを、その時の私は、まだ知らなかったんだ。
「君、名前は?」
加賀さんの家の見慣れた広い花壇、ピークを過ぎて、緩やかに枯れようとしている花々。その中にいたのは、加賀さんではなく、見知らぬ初老の男性だった。
「更科徒花です」
「ああ……やっぱり、そうか。話は母さんから聞いてるよ。花壇の手入れ、手伝ってくれたんだってね」
触ったらチクチクしそうな小麦色の頬に、微かなえくぼができている。親子って笑顔まで似るんだな、と思った。
「息子さんでしたか。あの、お母様は……」
「それがな……昨日の夜、脳梗塞で死んだんだ。なんとか、自力で救急車を呼んだらしいんだけど、間に合わなかった」
目を伏せて低い声で言った、加賀さんの息子さん。
「そうだったんですか、昨日はあんなに元気だったのに……お悔やみ申し上げます」
自分自身に訊いてみたくらいだ。「どうして私は、こんなに冷静でいられるんだ?」と。その時の私の気持ちは、小説を読んでいる途中、少し難解な文章に出くわした時のそれだった。
「住む人が、誰もいなくなってしまったから、この家も、もう売ってしまおうと思うんだ。だから、花壇の手入れは……」
「はい、わかっています。『今まで、ありがとうございました』と、お母様にお伝えください。……それでは、私はこれで」
(加賀さんが、私に向けていた好意は、あくまでも私の労働に対する対価で……)
最低だ。
(だから、私が加賀さんのことを、好きになれなかったのは……)
重い足取りで、行く当てもなく歩きながら、私はそんなことを考えていた。私は、最後の最後まで、自分自身を正当化していたんだ。
誰もが目を逸らす暗がりから、私を助け出そうとしてくれた蘭ちゃん。彼女が差し伸べてくれた手を、無慈悲に振り払った。
孫のように私をかわいがってくれた、優しい加賀さん。その突然の死を、少しも悲しまなかった。
精神的に余裕がなかった、という言い訳を使って、あんなに大切にしていた花たちに、別れを告げることもしなかった。
上辺だけの友達に、持っている「好き」という感情を全て注ぎ、涸らしてしまった。
――どんな論理を展開しようと、事実は変わらない。受け入れろ。これが、私という人間なんだ。
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