第二話

 あの日のできごとをきっかけに、私の行動原理は、「できる限り、お母さんに褒められること」から、「できる限り、あの女から身を守ること」に変わった。聖護会の聖典を初めて真面目に読んで、禁止されていることは、絶対にしなかった。なのに、私は一週間に一回くらいのペースで、暴力を振るわれた。


 ――聖典によると、悪魔には角が生えているらしいから、同じように角が生えている牛などの動物は、食べてはいけないことになっている。だからあの日、夕飯に牛丼を出された時も、私は「罠だ」と見抜くことができたんだ。

「いただきます」

 手を合わせてそう言うと、私はまず、置いてあった小皿に牛肉を全てよけた。そしてそれから、副菜のきんぴらごぼうをおかずにご飯を食べた。何も間違っていない、完璧な立ち回りだ……と、その時の私は思っていた。

「やっぱりね。正解は、こう」

 腕をスッと伸ばし、丼を持つその動作は、見せつけるように緩慢だった。いくらでも抵抗できる状態で、私があえて何もしなかったのは、「ここで抵抗すれば、より酷い目に遭う」と悟ったからなのか、単なる恐怖からなのか、わからない。

「牛肉の成分は、汁を伝って、全体に行き渡っているでしょ? だから、全部、食べちゃダメなの」

 あの女はいつでも、「完璧」を求めた。今、例に挙げた話はまだマシな方で、酷い時だと、あの時みたく鞭で叩かれたり、熱湯をかけられたり、切れ味の悪いナイフで切られたりした。


「更科ちゃん、暑くないの?」

「はい」

 だから私は、小二の夏を長袖長ズボンで過ごしていた。

「お花を眺めているのって、そんなに楽しい?」

「はい」

 私の一つ上の三年生、上川かみかわあかね。彼女に話しかけられたのは、これで五回目だった。

「これ、なんていうお花?」

「ガザニア」

「なに? ラザニア?」

 子供のものとは思えないような、落ち着いた声が、少し笑っている。

「ガ、ザ、ニ、ア」

「ラ、ザ、ニ、ア?」

「……もういいです」

「ごめんごめん。更科ちゃん、怒らないで」

 茜は、拗ねている幼い子供にするように、私の頭をポンポンと叩いた。なんだか、得体の知れない宇宙人と触れ合っているような気分だ。この人は、一体何をしたいんだろう?

「ねえ、更科ちゃんはさ」

 急に真剣になった声に少し驚いて、私は茜の方を振り向いた。擬態語にするなら、「ニコッ」なんだけど、太陽みたいというよりかは、ゆらゆら揺れる灯火みたいな。そんな笑顔で、茜は私を見つめていた。

「……独りぼっち、なの?」

 太い血管近くの腫瘍に、スッと入れられたメスのような、静かで鋭い口調だった。

「……見ての通り、ですけど」

「そっか。やっぱり、似た者同士だね、私たち」

「えっ、どういうことですか?」

 予想外のセリフに、私は思わず訊き返した。すると茜は、無言のままスッと立ち上がって、私の手を取った。

「これから、敬語禁止ね。私は、更科ちゃんのこと、『サラちゃん』って呼ぶ。だからサラちゃんも、私のことを『茜』って呼んで」

「えっ、別にいいけど……どうして、『徒花』じゃないの?」

 本当は、「サラちゃん」という意外な呼び名よりも、違和感なくタメ口で話せたことの方に、驚いていた。

「ああ、『徒花』っていう名前が、嫌いだからだよ」

「えっ、酷い。どうして、『徒花』って名前が嫌いなの?」

「うーん、まあ……大きくなったら、わかるんじゃないかな?」

 頭に浮かんだ「?」は消えなかったけど、これ以上の質問は無駄な気がしたから、私は黙って茜について行った。あれ以来、私は一度も、校舎の前の花壇で昼休みを過ごしていない。


 茜は、彗星のように私との距離を縮めてきて、あっという間に、私の初めての友達になった。拒む理由もなく、私は流れに流されて、ほぼ毎日、彼女と昼休みを共にし、彼女と一緒に帰った。

「茜って、本当に大人っぽいよね」

 その時、私は茜のクラスにいて、窓際にある茜の席で、茜に三つ編みをしてもらっていた。

「急にどうしたの?」

「いや、なんか、そういうゆったりした喋り方とか、髪を編む丁寧な手つきとか、色っぽいなと思って」

「ふふっ、そう? そういう感性を持ってるサラちゃんも、中々だと思うけど?」

「まあ、確かにね」

 少しして、三つ編みを完成させた茜は、何を思ったのか、暑くもないのに窓を開けた。

「他の人とは違うんだよ、私たち」

 窓から顔を出し、外の景色を見下ろしながら、茜は呟いた。「謙虚な茜が、らしくないことを言うな」と思いながら、私は立ち上がって、その隣に並んだ。

「だってさ、サラちゃん、見てみてよ。あの人たち、どう見たって私たちよりも年上なのに、落ち葉をまき散らして遊んでるんだよ?」

 しなやかに伸びた茜の指の先を見る。茜の校門から生徒玄関までの道の脇、並んだイチョウの木の下で、私たちよりもずっと大きな男子たちは、黄色い落ち葉を無邪気に浴びせ合っていた。

「本当だ。一体、何が楽しいんだろうね?」

「……わかるようになりたい」

「えっ、なんて?」

「わかるようになりたい、って言ったの。あの子たちの気持ち、私も知りたい。だからさ、私たちもあそこに行って、あの子たちと同じことしようよ」

「えっ……」

 嫌だよ、と言葉を続けようと思ったところで、気がついた。茜が握っているのは、私の手ではなく、私の手首だった。

「さっ、行こうか」

 私の気持ちすらも塗り替えてしまうような笑顔に、得体の知れない恐怖を感じながら、私は渋々頷いた。


 ――あれから二十分、いや三十分くらいは、一緒に遊んでいた気がする。黄色い雪合戦をしながら、私は、子供の遊びに付き合う親って、こんな気持ちなんだろうなと思っていた。年齢を度外視にした上で、違うところと言えば、子供側に優しさがないところだろうか。しゃがんで落ち葉をかき集めている私の頭に、容赦なく潰した銀杏を投げつけてきた時は、殴ってやろうかと思った。


「どうだった? あの子たちの気持ち、わかった?」

「日曜日に公園に引っ張り出される、世の父親の気持ちならわかった」

 素直にそう答えると、茜はクスクスと笑った。

「茜は、わかったの?」

「いいや、全然わからなかったよ。水鉄砲で水をかけ合っても、雪合戦で雪玉を投げつけ合っても、きっと私は、今日と同じで何とも思わないんだろうね。ほんと、有意義な時間だった。……あっ、『お前は一体何を言っているんだ?』って顔してる」

「そりゃそうでしょ。目標を達成できなかったら、それはただの無駄な時間だよ」

 私が口を尖らせてそう言うと、茜は、うんうんと頷いた。そして、不意打ちを仕掛けるように微妙な間を置いてから、パッと私に近づいて、絡ませるように腕を組んできた。

「サラちゃんも、まだまだ子供だね」

 耳にかかった髪の毛を優しくよけて、煽るように囁いた茜。

「……あの時間のお陰で、私は、『他の人たちと同じように、自分も年相応の遊びをして楽しめるのか?』という疑問の答えを知れた。『絶対に無理』という立派な答えを知れた。それは、ちゃんと意味のあることだよ」

 鼻先が触れ合うくらいの距離で、私の目をじっと見つめてから、茜は言った。

「小さい頃、私の将来の夢は、『王様になること』だったんだ」

 そして、すぐに視線を落とした。望遠鏡を覗き込み、遥か遠くのブラックホールを眺めるみたいに、茜は、自分の手の甲のホクロを見つめていた。そして不意に、「だけどさ、そんな夢、叶うわけないよね?」と、当たり前のことを訊いてきたので、「そうだね」と頷いた。

「ねえ、サラちゃん。『いくら努力しても、できないこと』って言うのはさ、この世界には掃いて捨てるほどあるんだよ。だから、こうやって一つ一つ確かめて、諦めていくの。答えのない問題に、延々と取り組み続けるような、無駄な努力をしないようにね」

 大人っぽいのに、子供っぽい。論理的なのに、たまに突飛なことをする。私と茜の交友は、最終的に二年間続いたけど、私は結局、上川茜という人間の全貌を、最後まで把握することができなかった。


「自習プリント、もう全部終わったの?」

 私の隣に座る担任の長門ながと先生が、目を丸くして言う。茜との別れから二年が経ち、私は六年生になっていた。

「残りの四十分間、私はどうしていればいいですか?」

「そうね……」

 考え込むようにそう言って、少しブサイクな猫がプリントされたマグカップを、上品に傾ける先生。コーヒーの匂いが香る職員室、先生が飲んでいるのは、甘そうなミルクココアだ。

「じゃあ、いつも通り図書室に行って、読書をしていてください。終わったら、ちゃんと鍵を返しに来てね」

 今年の始業式の日に、自己紹介をした時、先生は確か言っていた。「お酒を飲んで、甘いものを食べる。それだけで、人は簡単に救われます」と。長門先生は、なんとなく茜に似ている。


 建てつけの悪い黄色い扉を開け、中に入った瞬間、プログラムを実行したみたいに、体が自然と動いた。図鑑や学習漫画やライトノベルの棚に隠れ、奥の方でひっそりと佇んでいる小説の棚。その下から二段目、左から四番目に入っている「人間失格」を手に取る。

 この図書室にある「人間失格」と「斜陽」しか読んだことがないけど、私は、太宰治の小説が好きだ。物語全体に漂う厭世的な雰囲気とか、単純な文章の上手さはもちろんだけど、何よりも……読んでいて、羨ましいと思うシーンが、一切ないのが素晴らしい。


 ――茜が引っ越してからの寂しい昼休みを、私は図書室で過ごした。昔のように、花壇の前にしゃがみ込んで、花を眺めて過ごしても良かったのだけど、それはなんとなく嫌だった。


 そろそろ時間か、と顔を上げる。亀裂隠しのガムテープが擬態している茶色のソファに、読んでいた本を置く。窓からを顔を出し、見下ろしてみると、そこに見えたのは、プール帰りのクラスメイトたちの列だった。私より背が高い男子たちも、こうして三階から見ると、まるで小人のように見える。ポニーテールだった女子たちの、ほどかれた髪からは、きっとまだ、微かにプールの匂いが香っている。

「羨ましいな」

 思わず呟いてしまった次の瞬間に、私は舌打ちをした。その「チッ」という鋭利な音が、誰に向けられたものなのかは、私自身も知らない。強いて言うなら、「全部に対して」なんだろう。

 自分でもわかっている。私は、人生で初めてプールに入った、あの日の思い出を、美化しすぎているんだ。今さらプールに入っても、きっと私は、何とも思わない。「あっ、冷たい」と思って、おしまいだ。


「更科、プールの授業サボって、また読書してたのか?」

 飛び交うお喋り、断続的な水の音。給食の前の水飲み場で、私は今日も、しつこい悪意の塊の相手をしなければならない。

「……どうした? 生理のせいで具合が悪いのか? 

 この「万年生理女」というのは、一年生の頃から、ずっとプールの授業に参加していない私につけられた蔑称だ。

 小五の夏に初めて言われた時は、「アイツらも適当なことを言うなあ」と思っていたけど、今では、半ば本当だと思っている人もいるらしい。小四の冬くらいに生理が来て、周りの子に涙目で辛さを語っていた美鈴みすずちゃんが、この前、心配そうな顔で話しかけてくれた。

「うるさいなあ、どっか行ってくれない?」

 腹が立っていたわけではなかった。ただ、心の器に降り積もったホコリが、零れたタイミングが、あの時だったってだけだ。

 鬼の首を取ったような「やっぱり」が、その黄ばんだ出っ歯の下をくぐって、私の耳に届いた。私は思わず、「本当に気持ち悪い」と心の中で呟いた。その男子は、半殺しになったネズミを弄ぶ猫のような顔で、私を最も傷つけられる言葉を探していた。


 ――その時、思い出したのは、茜が引っ越す一か月前、茜と一緒に教室で過ごした、ある日の昼休みのこと。私はあの時も、今と同じように、どうしようもなく汚い悪意を、目の当たりにしていた。


「あの子、なんていう名前?」

園田そのだ君」

「園田君、ね。見たところ、いじめの原因は容姿かな。なんか、すごくアンバランスな顔だもんね」

「はあ、相変わらずの上川節ですね」

「まあね。で、助けに行かないの? サラちゃん、ずっと見つめてるけど」

「行かない。だって、助けるメリットがないから」

「じゃあさ、こうして黙って眺めているメリットはある? 今、サラちゃんは楽しい?」

「いいや、メリットもないし、楽しくもない。かえって、不快だよ」

「そう。じゃあ、あいつらを消せば、マイナスからゼロになるね」

「まあ、そうなるね」

「……サラちゃん、いいこと教えてあげる。人は、ゼロからプラスになることだけでなく、マイナスからゼロになることも、メリットと呼ぶんだよ」

 そう言って、立ち上がった茜。その直後に目にした光景を、私は、今でも鮮明に覚えている。

「こらこら、いじめなんて、したらダメだよ」

 いじめの主犯の肩を、トントンと叩いて、茜は言った。

「はあ、うるせえよ」

 案の定、顔をしかめて反抗する男子。茜は、残念そうに肩を落として、園田君をいじめていた男子三人の顔を、順番に見つめた。雨上がりのアスファルトの上で、のたうち回るミミズを眺めているような目だった。

「あっそ」

 そう呟いた次の瞬間に、茜は、目の前の男子のみぞおちを殴った。

「一つ、今後一切、人をいじめないこと。二つ、いま私がしたことを、誰にも言わないこと。いま言った約束を守れるなら、君たちのいじめを、黙っていてあげる」

 床に崩れ落ちて、恐怖に満ちた表情で茜の顔を見上げている、主犯の男子。その肩を、足でロッカーの壁に押しつけている茜。いじめられていた園田君は、もういなくなっている。

 見て見ぬふりをしていたクラスメイト全員の視線は、いつの間にか、二人の方に集まっていた。

「……みんな、わかった?」

 茜がそう訊いた瞬間、「自分には関係ない」と思っていた人たちも、ハッとした表情で頷いた。

「うんうん、ちゃんとわかったんだね。偉い偉い」

 押しつけた足を下ろして、茜は、その坊主頭をポンポンと叩いた。すると、さっきまで園田君をいじめていた三人は、顔面蒼白になって、逃げだした。


「みん……」

「黙れ」

 言葉を遮るように、耳元で命じる。私は、その男子の手首を無理やり掴んで、空き教室まで連れて行った。この醜い悪意に、これ以上触れたくない。今の私の脳内には、それだけのことしかなかった。


「えっ、更科、どうしたんだ?」

 緊張と恐怖にまみれた顔で、彼は訊いた。

「生理、生理、生理って、うるさいから、辛さを体験すれば、黙ると思って」

「はっ、意味がわか……」

 言い終えるよりも先に、私は彼の股間を蹴った。「うっ」と鈍い呻き声を上げ、股間を押さえて座り込んだ彼は、酷く無様な姿をしていた。

 髪を引っ張って、無理やり上を見させる。救いを求めているような、キョロキョロと動く目を見つめながら、私は言った。

「あと何回で血が出るんだろうね」

 彼は、私の腕を押しのけて、転びそうになりながら逃げ出した。無駄にプライドが高い彼は、きっとこのことを誰にも言えず、独りで抱え続けるのだろう。ずっと、ずっと、ずっと。

 小さく「かわいそう」と呟いてみたけど、自分でも気づいていた頬の緩みに、「嘘をつくな」と言われた気がして、素直に笑うことにした。


 当たり前のことなのに、どうして今まで気づかなかったんだろう? 私の人生の主役は、他の誰でもなく、私だ。「耐え続ける」以外の選択肢が、この世界にはたくさんあるんだ。

 悪口を浴びせてきたら、喉を潰してやればいい。殴ってきたら、手を切り落としてやればいい。そう、エキストラに気を使う必要なんて、微塵もないんだ。私は、自分の欲望を満たすことだけを考えて、生きていけばいいんだ。


 ――半ばスキップをして、ルンルンと空き教室を出た。いつもより上手に見える、廊下の壁に貼られたクラスメイトの自画像。いつもより美味しそうな、給食のカレーの匂い。五年前のあの日と同じような、胸の高鳴り。私は今、どれだけ長く入っていても誰にも咎められない、人生という名のプールで泳いでいる。

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