第二話
あの日のできごとをきっかけに、私の行動原理は、「できる限り、お母さんに褒められること」から、「できる限り、あの女から身を守ること」に変わった。それに伴い、さっそく行動を起こすと決めた私は、あの日の翌日から、聖護会の聖典を真面目に読み始めた。だけど、あの漢字だらけの分厚い本を、小学一年生の私が理解できるはずもなく、その挑戦は結局、あの女の説明に頼ったものだった。
「惨め」という感情が備わった今、あの頃のことを思い出すと、途方もなく死にたくなる。だけど、そんなもの持ち合わせていなかった当時の私は、明治維新の頃、海外に遣わされた留学生のように、毎日、物凄い向学心であの女の話を聞いていた。
鉛筆を片手に持ちながら、あの女の膝の上で話を聞いて、禁止事項がわかったら、すぐノートに書き記す。必死に努力していた私に、あの女は優しく微笑み、たまに髪を撫でたりもした。振り返れば、私が聖典を読み終えるまでのあの半年間が、あの女の一番優しかった時期だった。「もっと物わかりの悪いふりをして、ダラダラと何度も読み返していれば良かったのに」と、今では思う。
だけど、あの頃の私にとっては、逆だった。優しいからこそ、心のどこかでこう思っていたんだ。「私が早く聖護会の教えを理解して、あの女の要望に添えるようになれば、私たちは普通の親子に戻れるかもしれない」と。心の中での「あの女」呼びは、毛頭変えるつもりもなかったのに。
捨て切れない愛情と、日に日に増していく憎悪とが混ざり合って、あの頃の私の心は、グチャグチャになっていた。だけど、その混沌は大して長く続かず、私が聖典を読み終えてすぐに、終わりを迎える。
――きっと、一生忘れられない。聖典を読み終えた日の翌日、出された夕飯は牛丼だった。
聖典によると、悪魔には角が生えているらしいから、同じように角が生えている牛などの動物は、食べてはいけないことになっている。だからあの時も、私はすぐに、罠だと見抜くことができたんだ。
「いただきます」
手を合わせてそう言うと、私はまず、置いてあった小皿に牛肉を全てよけた。そしてそれから、副菜のきんぴらごぼうをおかずにご飯を食べた。何も間違っていない、完璧な立ち回りだ……と、その時の私は思っていた。
「やっぱりね。正解は、こう」
腕をスッと伸ばし、丼を持つその動作は、見せつけるように緩慢だった。いくらでも抵抗できる状態で、私があえて何もしなかったのは、「ここで抵抗すれば、より酷い目に遭う」と悟ったからなのか、単なる恐怖からなのか、わからない。
「牛肉の成分は、汁を伝って、全体に行き渡っているでしょ? だから、全部、食べちゃダメなの」
私は今、地獄の中にいるのだなと、改めて気づかされた。目に入ってくる牛丼の汁が沁みるのも相まって、自然と涙が零れてくる。お気に入りの服だったけど、気遣っている余裕はなく、私はその袖で、牛丼まみれになった自らの顔を拭った。いつも食卓に置いてある布巾は、あの女が隠したのか見当たらない。
(ああ、そっか。家族なのに、本当にいいんだ。この人のこと、心の底から悪魔だと思っても)
巨岩のような絶望と怒りに、ほんの少し残っていた躊躇を、容赦なく押し潰された。黒く染まっていく心が、少しだけ軽くなっていた。実を結ばない希望は、重荷になるだけなのだと、私は思い知った。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
もしかしたら、自分の名前を言った回数よりも、「ごめんなさい」と言った回数の方が、多いかもしれない。あの日の「汁だくの牛丼を顔にかけられる」という暴力は、まだマシな方で、本当に酷い時は、「ごめんなさい」という声すらも出せず、拷問を受けているような気分だった。
それはいつも、「あなたを悪魔から解放します」というあの女の決まり文句に、私が心の中で失笑するところから始まった。そして、あの日と同じ、獰猛なカラスが取り憑いたかのような姿に、あの女が変わっていく様を眺め、その失笑が消えるところまでがセットだ。そこから先、何をされるかは決まっていない。
背中からふくらはぎにかけて、あの日のように鞭で打たれたこともあった。
風呂場に素っ裸で立たされて、上半身に熱湯をかけられたこともあった。
石で打って刃こぼれさせたナイフで、二の腕を切りつけられたこともあった。
例に挙げた三つより酷いことは、流石にされなかったが、他の拷問も体感した辛さは変わらなかった。耐荷重が七十キロの椅子に、二トンの物を載せるか、一トンの物を載せるかの違いだ。
どれだけ神経を使って生きていても、あの頃の私は、週に三回くらいのペースで暴力を受けていた。病院に行かなくても「肉体的に」耐えられるように、長袖長ズボンで隠せない場所に傷をつけないように、考えられた暴力を。
学ばずに何度も重大なミスを繰り返すほど、私もバカじゃなかったが、どうしても防げなかった。あの女にとって、模範解答と完全に一致していない答えは、軒並み〇点だったんだ。
「徒花ちゃん、一緒にあーそぼ」
「うん」
一・二年生の時は、学校では孤独を感じていなかった。「好きな人だけでなく、馬の合わない人とも仲良くするべきだ」というキレイゴトな考えが、みんなに行き渡っていたから。独りぼっちでいると必ず、誰かが話しかけてくれた。正直なところ、初めは少し鬱陶しく思っていたけど、あの日以降の私にとって、彼らの身に余るような好意は救いだった。
「七か……どこだっけ? 徒花ちゃん、覚えてる?」
「ズルいぞ女子。徒花、言うこと聞いちゃダメ」
「えーっ、私はどっちの味方をすれば……」
教室で神経衰弱をした時は、女子と男子の板挟みになった。あの頃の私は、けっこう本気で悩んでいたのだけど、振り返ってみたら微笑ましい。
「徒花ちゃんって運動音痴だね。仕方ないから、タッチしていいよ」
「あ、ありがとう」
傷が痛んで上手く走れなかった私に、手を差し伸べてくれたあの子の名前も、私はもう忘れてしまった。運動系の遊びに誘われても、私が楽しく遊べたのは、全部あのツインテールの子のお陰だ。照れくさいのか、前置きのように必ずバカにしてくるのだけど、とても優しい子だった。
「じゃあ、徒花ちゃんは野菜を集めてきて」
「わかった」
そこらに生えている草花を食材に見立てて、切り株で料理ごっこをしたのも、楽しかったな。私は、昔から植物が好きだったから、引っこ抜く時は申し訳ない気持ちになったけど。
みんなのお陰で、私はすぐに、新しい「生きる目的」を見つけられた。幼稚園にも保育園にも通わせてもらえなかった私にとって、みんなとの遊びは、「これが私の生きる理由だ」と心の底から思えるほど、楽しかったんだ。
いま思えば、あの時、みんなの優しさに甘えて、自分から好かれる努力をしなかったのが、私の一番の落ち度だったな。
どうしようもない才能の差に挫折して、「ごめんね」なんかじゃ許せない理不尽を経験して、ニュースが報じる事件を理解できるようになって、人は遅かれ早かれ、「キレイゴトの粗」というやつに気づく。そして、みんなにとってのその時期は、三年生の初め頃だったらしい。
声を掛けてくれる人は、一人二人と減っていった。そして、ついに誰にも声を掛けられなくなったのは、確か三年生の夏休みが明けた頃だ。完全に独りになり、私はようやく、自分からコミュニケーションを取りに行ったけど、結局、努力は実を結ばなかった。当たり前だ。私だって、あの頃の自分と同じような人がクラスにいても、決して友達になろうとは思わない。
まず、あの女に暴力を振るわれた日の様子が、異常すぎる。楽しさはちゃんと感じているはずなのに、頑張っても、引き攣った笑みしか浮かべられない。頭にはちゃんと文章が浮かんでいるのに、尾を引いた恐怖に喉を塞がれていて、受け答えも上手くできない。わけを知らない他人から見たら、そんなの気持ち悪いに決まっている。
それに、通常時も大概だ。明るく振る舞うとか、周囲に気を使うとか、できることは一通りやった。だけど、そもそも私は、スタートラインにすら立てていなかったらしい。同じ現代の日本に住んでいるはずなのに、話が全く合わないんだ。それもそのはず、我が家は、私が物心ついた頃から、江戸時代並みの鎖国状態だった。
まず、テレビがない。ラジオも見たことがない。確認できている本は二冊だけで、聖護会の聖典と、古めかしい植物の図鑑だけ。「プレゼント」という文化も、「お小遣い」という文化もない。必要最低限のものだけ、あの女が買い揃える。私が自分の意思で、外の世界のものを手に入れる機会は、ほとんどない。外の世界の文化には、教えに反する要素がたくさん含まれているからだ。
本当に幼い頃は、辛うじて近所の公園くらいなら行った気がするが、それ以上のところには行ったことがない。我が家の異常なところなんて、挙げるともう、キリがないくらいだ。そんな頭のおかしい家庭に生まれた私が、恵まれた家庭に生まれたみんなの話に、ついて行けるわけがないじゃないか。
「徒花ちゃん、水中に棲んでいる哺乳類と魚類の違いって、知ってる?」
あのツインテールの子の名前は覚えていないのに、嫌な思いをさせられたこの子の名前は覚えている。確か、
「哺乳類が肺呼吸で、魚類がエラ呼吸でしょ?」
小説やマンガを読まないことを条件に、図書室や図書館には行っても良かったから、その頃の私は、図鑑などを読み漁って、すっかり物知りになっていた。
「それもそうなんだけど、実は尾びれにも違いがあってね、サメとかの魚類は縦で、イルカとかの哺乳類は横についてるの。この前の土曜日、水族館に行った時にね、イルカショーで飼育員のお姉さんが……」
彼女との関係の移り変わりは、まさに私の成長を映し出している。彼女はいつも、昼休みに暇になった時、私の席に近づいてきて、こうして唐突にクイズを出した。退屈しのぎの自慢話を始めるためだ。
私も最初は、話しかけられたのが嬉しくて、喜んで耳を傾けていた。だけど、彼女の幸せそうな顔を見る度に、どんどん大きくなっていった「羨ましい」という感情は、あっという間に「嬉しい」を上回った。
瞬く星の散らばる雲一つない夜空を、昼でも見られるらしいプラネタリウム。驚くほど広大な建物の中に、色々なお店が並んでいて、特に用はなくても適当に歩くだけでワクワクするらしいショッピングモール。そして、立っているだけでも、香水のように濃密な良い匂いがするらしい、この荻浦市の北にあるラベンダー畑。世界には色々な楽しい場所があると、彼女の話を通じて知った。
――私は思う。「羨ましい」という感情の行く末は、「向上心」と「惨めさ」の二つに分かれると。
「イルカって、あんなに高く跳べ……」
「涼香ちゃん。私、今は本を読みたいな」
仮初めとはいえ、せっかく掴んだ「友達」を、私は自らの意思で手放した。あれは四年生の初め、四月のできごと。涼香ちゃんの自慢話は、ついに私の中の閉じていたドアを開け、私は「惨め」という感情を知った。
「……そっか、邪魔してごめんね」
去っていく彼女の背中を見送った私に、迷いは少しもなかった。友達なんて、もういらないや。浴びる光が強ければ強いほど、できる影も濃くなるんだ。
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