逆巻く。崩れ落ちて、ほぐれる

てゆ

第一話

 小学一年生の夏。私の体が、まだ綺麗だった頃の記憶。

「せ、せんせぇ! やっぱり、やっぱり、お腹、いた……うっ」

「と、徒花とかちゃん、大丈夫?」

 生まれて初めてのプールの授業を、翌日に控えた日の朝。私のお母さんは、その鋭い目を奇妙に細めて、ひどく優しい声で言った。「お水に入るとお腹が痛くなるから、プールの授業には参加できませんって、先生に言うのよ」と。

「やっぱり、無理みたいです……」

 本当は、このまま浜田はまだ先生に支えてもらいながら、向こう岸まで泳いで行きたいくらいだった。私はその時まで、冷たい水を全身で浴びることが、こんなにも気持ちいいということを、知らなかったんだ。

「そうか。ごめんね、無理を言って」

 私は、赤ちゃんのように先生に抱きついていた。私の骨と皮だけの胸に響く、分厚くて柔らかい塊の奥からの鼓動。あー、先生はきっと、私のことが心配で、ドキドキしているんだ。そう思った途端に、私の心は、ポッと灯がともったように温かくなった。


「……もう治まった?」

 プールサイド、ザラザラした青い通路に体育座りしていた私に、先生は優しく声をかけてくれた。

「はい、大丈夫そうです」

「……ごめんね、貴重な放課後に嫌なことさせちゃって。明日からのプールの授業には、参加しなくていいから、職員室でお勉強していてね」

 頭蓋骨の輪郭をなぞるように、私の頭を丁寧に撫でながら、プールの水面の動きに合わせて揺れる葉っぱを、じっと眺めていた先生。

「きっと、大きくなったら治るよ」

 ポツリと呟いたその声は、ひどく感傷的だった。

「……さて、そろそろ帰ろうか」

 私の手を取って、先生が立ち上がる。無事に言いつけを守れた満足感と、プールの授業に参加できない悲しさが、同じだけの量で胸に押し寄せてきた。

「……はい」

 先生にもらったスヌーピーのタオルの端を、ギュッと握りしめる。体中の空気を入れ替えるような全力の深呼吸をして、私は、全身にこのプールの匂いを覚えさせた。


「お母さん、ただいまー!」

 狭い洞窟のような薄暗い廊下に、私の声だけが虚しく響いた。すっかり忘れていた悲しみ、褒めてもらえるんじゃないかという期待。ボールのように弾んでいた心が、鉄球に変わって深く沈んだ。

 抜き足差し足で歩き、ゆっくりと襖を開け、あの部屋に入る。思わず鼻をつまみたくなるような、濃すぎるバラの臭い。背中を丸めて、手を合わせて、「聖言せいごん」を唱えているお母さん。ビンゴだった。

「あのね、お母さ……」

 近づいてきた私のお腹を、お母さんは手の甲で殴った。「うっ」と小さな声を漏らして、その場にうずくまる。似たような仕打ちは、これまでに何度も受けてきたし、私自身、学習もしていた。だけど、それ以上に……あの頃の私は、幼かったんだ。

「……で、どうしたの?」

 しばらくして、聖言を唱え終わったお母さん。降ってきた冷たい声に顔を上げる。目が合った瞬間、電柱に止まるカラスに睨まれたように、ゾッとした。

「……ちゃんと、プール、参加できないって、言ってきたよ」

 泣きそうになりながら、上ずった声で伝える。

「……あら、ちゃんと言えたの」

 お母さんの表情は、一瞬で綻んだ。畳に脚を伸ばして座り、太ももを両手でパンパンと叩いたお母さん。私は嬉しくなって、心の底から嬉しくなって、倒れそうな勢いでハイハイをして近づき、お母さんの太ももに頭を載せた。

 偉いね、さすが徒花だね、約束を守れるいい子だね。降ってくる猫撫で声に溺れながら、私は信じていた。この春が永遠に続くことを、少しの迷いもなく信じていた。

「……徒花、少し髪が濡れてない?」

「ああ、うん。先生に『水に入ると本当にお腹が痛くなるのか、確認させてほしい』って言われたから、学校にあった水着を借りて、先生とプールに入ったの。ああ、だけど、本当に少しの間だけで……」

 私の言葉を遮るように、平手打ちが飛んでくる。お母さんは、ゴミ袋をゴミ収集車に投げ入れるみたいな荒い手つきで、私の髪を掴み、近くの畳に押しつけた。

「どうして、どうして……どうしてわかってくれないの!」

 酸っぱい梅干しを想像する。頑張って唾液を出そうとする。口の中に広がる血の味を、少しでも薄めるために。

「……死んじゃうんだよ? いつか訪れる最終戦争で、神様に守られないで、太陽の中心と同じ温度の炎で燃やされて……本当に、いいの?」

 泣きながら首を横に振る。お母さんの言っていることが本当かどうかなんて、正直どうでもよかった。もっと言ってしまえば、馬鹿らしいと毛頭信じてすらいなかった。だけど、これから受ける痛みを、少しでも減らすためには、こうするしかなかったんだ。

 こういう時、いつものお母さんは、教会の印が入ったタンスの一番下の段から、教会の分厚い聖典を取り出し、私に読ませる。だけど、今日のお母さんは、なぜか一番上の段を開けた。まるで、屠畜場に連れて行かれた家畜になった気分だ。緊張と混乱で、体が動かない。


『愚かな我らに、神のご慈悲を。悪魔の手下に、神の鉄槌を。回る地球に、安らかな死を』


 ――お母さんは、聖言を唱えた。その右手には、教会の印が入った鞭が握られている。私は呆然として、お母さんの顔を見上げていた。優しく輝いていた瞳が、貪る死肉を見定める穴に変わっている。気持ち良くて撫でていたサラサラの髪が、逆立った漆黒の羽根に変わっている。「ああ、カラスが戻ってきたんだ」と、私は心の中で小さく呟いた。


「打たれる場所、顔でいいの?」

 その言葉の冷酷さに、心臓が止まりそうになった。「ごめんなさい」と絞り出すように呟いて、四つん這いになった時、私は打たれる前から、失禁してしまった。


 私のお母さんは、カルト宗教である「聖護会せいごかい」の信者だ。幼い頃から全く興味がなかったので、あまりよく覚えていないが、どうやら聖護会の信者は、「神に護られている」らしい。そして、それ以外の人間は全員、「悪魔の手下」だそうだ。

 どんな根拠があるのかはわからないが、彼らは、「この世界にはいつか必ず、悪魔と神との最終戦争が訪れる」と言う。その時に、悪魔の手下はみな、太陽の中心と同じ温度の炎で焼かれて死んでしまうらしい。


 夜、お風呂に入った時。私は、鞭で打たれたお尻を、鏡に映して見てみた。血色の良い周りの肌とは対照的な、斜めに横たわる大きな醜いミミズ。青紫に変色したそこに、つまようじなんかを突き立ててみたら、腐った中身がドロドロと出てきそうだった。

 確かに、「人前では、できるだけ肌を見せないようにね」とは言われていたけど、「目上の人の言うことには、従うのよ」とも言われていたはずだ。私は確かに、言いつけを守るためにベストを尽くした。なのに……どうして、こんな目に遭わないといけないの? 

「バカ! アホ! キチガイ! 消えろ! 死ね!」

 涙声で、思いついた悪口を片っ端から叫んでいく。あの日、お母さんは、「悪魔を追い出す」と言って、私を鞭で打った。だけど、そのことによって本当に追い出されたのは、「悪魔」ではなく、「お母さんに対する愛」だったのかもしれない。私の心の石化は、あの日から始まった。

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