逆巻く。崩れ落ちて、ほぐれる
てゆ
第一話
「せ、せんせぇ!」
ホルマリン漬けにしたように、鮮明に残っている記憶。鼻をつく塩素の匂い、
まだ小学一年生だった私は、夏の日差しが燦々と降り注ぐ放課後のプールで、必死の演技をしていた。
「やっぱり、やっぱり、お腹、いた……うっ」
「と、
生まれて初めてのプールの授業を翌日に控えた、あの日の朝。私のお母さんは、その鋭い目を奇妙に細めて、ひどく優しい声で言った。「お水に入るとお腹が痛くなるから、プールの授業には参加できませんって、先生に言うのよ」と。
青ざめていく先生の顔を、直視することができなくて、私は彼女の大きな胸に顔をうずめた。だけど、そうすると今度は、怖いくらいに速い心臓の鼓動が伝わってきて、逃げ場はないのだと知った。
(先生、ドキドキさせてごめんね。だけど、お母さんの言いつけだから)
心の中で、訴えかけていた。
「うっ……やっぱり、無理みたいです」
本当は、このまま先生に支えてもらいながら、向こう岸まで泳いで行きたいくらいだった。だけど、あの時の私は、そんなことおくびにも出せず、ただどうしようもない未練に苦しんでいた。
「そうか。ごめんね、無理を言って」
動揺を隠し、余裕のある表情を作った先生は、赤ちゃんのように抱きつく私を両手でグッと持ち上げ、プールサイドに座らせた。
入ってから上がるまで、たった五分ほどだった。だけど、あの短い体験は、美化されて今も心に残っている。手放してしまい、もう戻らないものというのは、異常なほど輝いて見えるんだ。
「……お腹、まだ痛いの?」
未練に足を引かれて、ザラザラした青いプールサイドに座り込んだまま、揺れるプールの水面を眺めていると、先生にそう訊かれた。もう必要ないのに、また勘違いさせてしまったな。
「いいえ、もう大丈夫そうです」
笑顔で言ったのだけど、先生の表情は晴れない。きっと、「無理して笑っている」と思われたのだろう。大人って、面倒だ。
「……ごめんね、貴重な放課後に嫌なことさせちゃって。明日からのプールの授業には、参加しなくていいから、職員室でお勉強していてね」
頭蓋骨の輪郭をなぞるように、私の頭を丁寧に撫でながら、先生は、水面の動きに合わせて揺れる葉っぱを見つめていた。
「大人になったら、きっと治るよ」
自らの右脚を撫でながら、先生は、ひどく感傷的な声で言った。私は不意に、この前、先生が話していたことを思い出した。
〈何か得意なことがあるのは、とても良いことですが、それだけに頼って他をサボるのは、良くありませんよ。例えば先生は、昔、水泳の選手でしたが、ケガで引退して今は教師をしています。これは、水泳の他にも、勉強をちゃんと頑張っていたからで……〉
元々、少し説教臭いところがある人だったけど、あの時は、特に熱心だったのを覚えている。先生はきっと、ケガで水泳ができなくなり、絶望していた過去の自分を、私に重ねているんだ。
「……さて、そろそろ帰ろうか」
しばらくの沈黙の後、先生は、私の手を取って立ち上がった。喉元まで出かかったけど、結局、「大人になっても、治らないと思います」とは言わなかった。先生の心を、これ以上曇らせるのは酷だ。
「……はい」
先生にもらったスヌーピーのタオルの端を、ギュッと握りしめる。体中の空気を入れ替えるような全力の深呼吸をして、私は、全身にこのプールの匂いを覚えさせた。
お母さんが、あれほど妄信していた「教え」を、あの頃の私は全く信じていなかった。そのことは、大きな誇りだ。
私の気持ちなど微塵も考えず、私を「操り人形」として扱っていたお母さんを、あの頃の私は心の底から愛していた。そのことは、大きな恥だ。
とにかく、あの頃の私は幼かった。お母さんの言うことに従って、お母さんを喜ばせる生き方が正しいのだと、本気で思っていた。
「お母さん、ただいまー!」
狭い洞窟のような薄暗い廊下に、私の声だけが虚しく響いた。悲しみはすっかり追い出され、溢れ出していた「褒めてもらえる」という期待。ボールのように弾んでいた心が、鉄球に変わって深く沈んだ。
靴があるから、外出はしていないみたい。たぶん、アレだな。
抜き足差し足で歩き、ゆっくりと襖を開け、あの部屋に入る。思わず鼻をつまみたくなるような、濃すぎるバラの臭い。背中を丸めて、手を合わせて、「
「あのね、お母さ……」
近づいてきた私のお腹を、お母さんは手の甲で殴った。「うっ」と小さな声を漏らして、その場にうずくまる。似たような仕打ちは、これまでに何度も受けてきたし、私自身、学習もしていたのに。振り返ってみれば、バカみたいだ。
「……で、どうしたの?」
しばらくして、聖言を唱え終えたお母さん。降ってきた冷たい声に顔を上げる。目が合った瞬間、電線に止まるカラスに睨まれたように、ゾッとした。
「……ちゃんと、プール、参加できないって、言ってきたよ」
泣きそうになりながら、上ずった声で伝える。
「……あら、ちゃんと言えたの」
すると、あんなに怖かった表情は一瞬で綻んだ。畳に脚を伸ばして座り、太ももを両手でパンパンと叩いたお母さん。私は嬉しくなって、心の底から嬉しくなって、倒れそうな勢いでハイハイをして近づき、お母さんの太ももに頭を載せた。
偉いね、さすが徒花だね、約束を守れるいい子だね。降ってくる猫撫で声に溺れながら、私は、この春が永遠に続くことを、何の迷いもなく信じていた。
「……徒花、少し髪が濡れてない?」
「ああ、うん。先生に『水に入ると本当にお腹が痛くなるのか、確認させてほしい』って言われたから、学校にあった水着を借りて、先生とプールに入ったの。ああ、だけど、本当に少しの間だけで……」
私の言葉を遮るように、平手打ちが飛んでくる。 お母さんは、私の髪を乱暴に掴んで、私を力任せに投げ飛ばした。ゴミ収集車に投げ入れられる、ゴミ袋になった気分だった。
「どうして、どうして……どうしてわかってくれないの!」
酸っぱい梅干しを想像する。頑張って唾液を出そうとする。口の中に広がる血の味を、少しでも薄めるために。
「……死んじゃうんだよ? いつか訪れる最終戦争で、神様に守られないで、熱い熱い炎で燃やされて……本当に、いいの?」
泣きながら首を横に振る。こうなっては、もう止められない。
こういう時、いつものお母さんは、教会の印が入ったタンスの一番下の段から、教会の分厚い聖典を取り出し、私に読ませた。だけど、今日のお母さんは、なぜか一番上の段を開けている。まるで、屠畜場に連れて行かれた家畜になった気分だ。緊張と混乱で、体が動かない。
『愚かな我らに、神のご慈悲を。悪魔の手下に、神の鉄槌を。回る地球に、安らかな死を』
お母さんは、聖言を唱えた。その右手には、教会の印が入った鞭が握られている。私は呆然として、お母さんの顔を見上げていた。優しく輝いていた瞳が、貪る死肉を見定める穴に変わっている。気持ち良くて撫でていたサラサラの髪が、逆立った漆黒の羽根に変わっている。
「打たれる場所、顔でいいの?」
その言葉の冷酷さに、心臓が止まりそうになった。「ごめんなさい」と絞り出すように呟いて、四つん這いになった時、私は打たれる前から、失禁してしまった。
私が物心ついた時から、お母さんが熱心に信仰しているその宗教は、残念ながらカルトで、名を「
その教えでは、どうやら彼ら聖護会の信者は、「神に護られている」らしく、それ以外の人間は全員、「悪魔の手下」だそうだ。そして、どんな根拠があるのかはわからないが、「この世界にはいつか必ず、悪魔と神との最終戦争が訪れる」とも言っている。その時に、悪魔の手下はみな、神の加護を受けることができず、太陽の中心と同じ温度の炎で焼かれて死んでしまうそうだ。
夜、お風呂に入った時。私は、鞭で打たれたお尻を、鏡に映して見てみた。血色の良い周りの肌とは対照的な、斜めに横たわる大きな醜いミミズ。それは、グロテスクな青紫色で、つまようじなんかを突き立ててみたら、腐った中身がドロドロと出てきそうだった。
聖護会には、「人前で半袖半ズボン以上の露出をしてはならない」という決まりがあるらしい。だけど、お母さんは、「目上の人の言うことには、従うのよ」とも言っていた。私は確かに、言いつけを守るためにベストを尽くしたんだ。なのに……どうして、こんな目に遭わないといけないの?
「バカ! アホ! キチガイ! 消えろ! 死ね!」
涙声で、思いついた悪口を片っ端から叫んでいく。この時間、あの女は、夜の集会に出向いているので、幸い聞かれる危険はない。
鞭打ちを終えた後、あの女は、涙や鼻水でグチャグチャになっている私の顔を覗き込み、こう告げた。「教えを守らなかったら、次も暴力でお仕置きするからね」と。
これからは、あの女の暴力に怯えて、生活を送らないといけない。私はもう、あの女を愛せない。その事実は、私の体から一気に熱を奪っていった。
――もちろん痛いのは嫌だけど、その時の私には、あの女に暴力を振るわれること自体よりも、怖いことがあった。それは、「あの女からの命令を、これからは『お母さんのため』と受け入れられないこと」だ。
何の目的もないのに、グラウンドを十周するのは大変だ。だけど、そこに「陸上の大会で優勝するため」などの目的が加われば、身体的な苦痛は変わらなくても、精神的な苦痛は減るだろう。そうやって、「目的」というものは心を守ってくれるのだ。
何の目的もなく、あの女の言うことに従い続け、失敗したら暴力を振るわれる。そんな生活を続けていたら、私の心はきっと、死んでしまう。
だから、私は早く、見つけなければならない。これからの地獄に耐える新しい目的を、死ぬまで縋れるような「正しい生き方」を。
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